「令和」の典拠である「梅花の歌三十二首」序文は、大伴旅人の手によるものと言われています。
730年に催された「梅花の宴」の席には、大伴旅人のほか、山上憶良や九州一円の役人や医師、陰陽師といった人たちが集まりました。
つまり、当代一流の文人の共演の席ではありましたが、その宴は、辺境の地にたまたま滞在していた貴族や知識人の、教養を競いあうだけの場だったのでしょうか。
東アジアの緊張関係や、列島のなかでの大和朝廷の不安定さを視野に入れると、全く違う景色が見えてきます。
中国の統一国家「唐」は、朝鮮半島に鼎立する三国のうち新羅と結び、百済、高句麗をつぎつぎと滅ぼしました。663年に日本は百済の再建を目指して唐・新羅と白村江に戦いましたが、唐軍に大敗し、日本は半島から手を引くこととなります。これを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から、九州沿岸の防衛のために防人が設置されるほどの国家的な危機でもありました。
半島情勢はその後も流動的で、唐の支配政策に反対していた旧高句麗集団が、698年に渤海を建国し、新羅の後方牽制の為に日本と積極的な外交を展開し始めます。
国内に目を転じると、720年には「隼人の反乱」が起こり、大伴旅人は「征隼人持節大将軍」に任命され、反乱の鎮圧にあたりました。鎮圧は一定の成果をおさめましたが、右大臣 藤原不比等が亡くなったことから、反乱鎮圧半ばで、旅人は京への帰還を命じられます。京では、聖武天皇の即位に伴って正三位に叙せられています。
ところで、遣唐使に任命され最新の学問を研鑽して帰国した山上憶良は、当時東宮であった聖武天皇の侍講に抜擢されています。梅花の宴で同席する旅人と憶良は、政権の中枢部で結ばれていたということです。
726年に憶良は筑前守に任ぜられ下向しており、この時期の九州北部の政治的重要さを窺い知ることができます。その二年後の728年、旅人は「大宰帥」として大宰府に赴任しています。旅人の任官については、当時権力を握っていた左大臣 長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事という見方もありますが、内政、外交ともに急所とも言える困難な地に、余人をもって代え難い大伴旅人が、敢えて派遣されたのだという見方もあります。
いずれにせよ、頭抜けた武人・政治家である旅人と、最先端の外国の知見を備えた英才憶良が、この地で相まみえ、のちに「筑紫歌壇」と呼ばれる文化サークルを形成することになります。
しかし旅人にとって60歳を超える任官は厳しいものであり、赴任後間もなく妻を亡くしたことは、大きな心の痛手でした。
梅花の宴で、憶良は次の歌を詠みます。
春されば まづ咲くやどの梅の花 独り見つつや春日暮らさむ
大意は「庭の梅を独り見ながら暮らされるのでしょうか。ご心中深くお察しします」というもので、妻を失った旅人を気遣う歌です。これに答えるように、旅人は次の歌を詠みます。
我が園に 梅の花散るひさかたの 天より雪の流れ来るかも
大意は「私の庭に梅の花が散っている。あたかも天から雪が流れ来るかのようだ」というものです。
さらに旅人は「後に梅の歌に追和せし四首」として、前傾首に続く、亡き妻を想う歌を四首詠んでいます。
その中の一首がこれです。
梅の花夢に語らく みやびたる花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ
梅の花が夢で語りかけるには「みやびな花だと自分でも思います。お酒に浮かべてくださいな」という風変わりな歌です。亡き妻が梅の精になって、自分に語りかけてくる、亡き妻ともそういう対話が成り立っているのだ、と憶良の心遣いに答えるのです。
憶良は遣唐使として仏教を深く学び、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や、防人に狩られる夫を見守る妻など、社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでいます。『貧窮問答歌』『子を思ふ歌』などがそれです。防人の指揮に当たるのは太宰府でありその長官は、他ならぬ旅人なのですから、筑紫歌壇はただの仲良しグループではないことがよくわかります。
旅人も憶良も、その時代の社会の矛盾が露呈する最前線の場所にいて、そのうえで心を通わせていた、そう考えることはできないでしょうか。
長屋王の変後、旅人は太政官において臣下最高位となり 、730年10月に京に召喚され大納言に任じられますが、翌731年病を得て他界します。憶良は翌732年筑前守任期を終えて帰京し、まるで旅人の後を追うように没します。
雅の世界としてのみ語られる梅花の宴も、こうして詠み手の置かれた境遇を振り返ると、旅人と憶良という厳しい風雪に耐えた古木どうしが、魂を交わし合った、凛とした場所のように思えるのです。
ビジョンと覚悟を持った者どうしが、互いを認めて協力しあい前に進む。令和の時代が、そういう新しい時代であってほしい思います。