犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

ねむの木の歌

2022-06-26 00:58:52 | 日記

ピンク色のねむの木の花が、散歩道に咲いています。
長い睫毛をかさねて、眠りについたような姿が、花の名前通りのふんわりした気持ちにしてくれます。
葉は水蒸気の蒸発を防ぐために夕方から次第に閉じ、その静かに葉を閉じる様子が「ねむの木」の名前の由来なのだそうです。

ところで、ねむの木を漢字で書くと「合歓木」となります。「合歓」を辞書で引くと「よろこびを共にすること、男女が共寝すること」などとあります。「ねむの木」の語感とはそぐわないようにも思いますが、これは中国語のもともとの薬草の名から派生したもののようです。

中国の薬草の本にねむの木を指す「合昏」の文字があって、これは「たそがれ時」のことを意味します。たそがれ時に眠りゆく木ということでしょうか。この語と似ている「音」をとって「合歓」とも表されるようになったというのです。中国では夫婦円満の象徴の木とされていたので、この表記が使われるようになったのでしょう。

そういう経緯もあって、ねむの木はわが国で次のような歌を生み出します。

昼は咲き夜は恋ひ寝(ぬ)る合歓(ねぶ)の花 君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ
(紀郎女 『万葉集』)

天智天皇の曾孫安貴王の妻である作者が、戯れにねむの木を添えて大伴家持に寄せた歌です。合歓の花を私だけに見させないで、あなたもここに来て見なさいと詠います。「君」は三十代後半だった作者自身、「戯奴」というのは目下の人を呼びかける言葉で、二十代前半であった家持を指しています。
「合歓」は、あからさまに共寝を誘う言葉になっています。

この漢字表記があればこそ生まれた恋歌、と言えるのではないかと思うのですが、「ねむの木」の異界へと誘うような大らかさを、うまく表現しているようにも思います。


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梅雨どきの憂鬱なんて

2022-06-20 00:28:40 | 日記

一滴垂らしたインクが、水槽いっぱいに拡がるように、鬱々とした気分は放っておくとどこまでも拡がります。
今からおよそ百年前の人も、時雨どきの鬱陶しい時期には気分が滅入っていたようで、たまたま古本屋で手にした一冊にも、次のようにしたためられています。

どうもわれながらおもしろくない。仕事かトランプ遊びでもやると、頭の中にいろんなこまかい原因が出てきて、うれしいかと思うと悲しくなり、悲しいかと思うとうれしくなり、猫の目よりも速く気分が変わる。その原因というのが、手紙を書かなければならないとか、電車に乗りおくれたとか、外套が重すぎるとかぐらいのことなのだが、ほんものの不幸と同じようにはなはだ重大なものになる。分別ぶって、こんなことはおれにはどうでもいいはずだ、ということを証拠だててもだめなのだ。おれの分別は、ぬれた太鼓も同然で、さっぱり役に立たぬ。それで結局われながら、少し神経衰弱だなと思うわけさ。(角川文庫15-16頁)

これは『幸福論』の一節で、アランの「たいへん学問があって道理もわきまえた友人」が、しみじみと述懐しているくだりです。およそ半世紀前の若い頃に同書を読んだときには、何の感慨もなく読み飛ばしていた箇所なのですが、手にとった古本屋で、しばらくこの箇所にとどまってしまいました。
まるで今の自分の気持ちをそのまま書き写しているようで、可笑しくなったからです。

加齢による症状なのかとも考えていたのですが、こうやって百年前の人も同じようにボヤいていて、この百年間もずっと同じことが繰り返されたのかと思うと、別の感慨にとらわれます。
アランがこの友人にどのようなアドバイスを与えたかは、ここでは省きます。端的に「クヨクヨするな」と言ってあげたと想像すれば、それが実際に近いのではないかと思いますし、もっと哲学的な言葉を付け足すとすれば、同書の別の箇所で述べている「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」(263頁)に尽きると思います。

そんなことではなく、自分のなかで大きな位置を占めている憂鬱が、文字にしてみると何とも滑稽に見えてくるというのが、アランの語ろうとする哲理よりも、私にとって大きな収穫でした。

「精神」は「感情」と混同されることがありますが、精神は千々に乱れる感情と適切に距離をとることができます。文字にすることで感情と距離をとり、それを再配置することさえ可能なのです。
「猫の目よりも速く気分が変わる」感情の導くままに、混沌のままに眠りこけることは決して人間らしさなのではなく、その眠りから身を奮い起こすことこそが、人間にしかできない手品なのではないでしょうか。
「精神」が目覚める瞬間とは、まさにこの時なのだと古本を抱えながら思うのです。


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棋士たちの名言

2022-06-11 23:30:06 | 日記

わたしは将棋のことは全く分からないにもかかわらず、棋士の名言や逸話は大好きで、いつの頃からか、それらを収集するようにしています。最も印象に残っているものは、内藤國男のエッセイに紹介されている、大山康晴の次の言葉です。

「お金というものは女房と税務署に知れると、もうお金じゃないよね、内藤さん」

内藤は大山の偉大さを称えるエッセイのなかで、静の大山、動の升田の対局戦はまるで名優の舞台を見るように見事なもので、谷川、羽生などはまだまだ巨木になりうるかどうか、大山、升田の両巨頭の足元にも及ばないと力説しています。1993年の文章なので、こういう評価になるのでしょう。こうやって大山賛歌を延々と続けた最後に、先ほどの名言が紹介されています。

将棋の打ち上げの席に、部屋に早く入り過ぎて一人ぽつねんと座っている内藤に向かって、大山はおもむろに「お金というものは・・・」と述懐したのだそうです。詳細は不明ですが、よほどつらいことがあったのでしょう。
内藤は次のようにエッセイを結んでいます。

「そのとき私は突然思いもかけない妙手を放たれた感じでとっさに応手が分からず、目をぱちくりするばかりであった」(『将棋世界』1993年8月号)

それから、いまではすっかりタレントになった加藤一二三の言葉も含蓄があります。その発言がほとんど名言と言ってもよいのかもしれませんが、わたしにとっての名言は、加藤が無敵を誇っていたころのものです。
彼は対局時に締めるネクタイが異常に長いことで知られていました。記者からネクタイの長さについて質問された加藤はこう答えたそうです。

「人から見て長く見えるのはわかっています。でも自分ではまだ短いように思うんです」

ネクタイというものは、他人からどう見られるかが重要なポイントであるはずなのですが、この名言からは常人には思いも及ばぬ価値基準に生きる天才の生きざまが、集約されているように思います。

不世出の天才と認められながら、名人位を手にすることなく29歳で病のために亡くなった村山聖の生涯は『聖の青春』として出版され、映画化もされました。そこで描かれる、ネフローゼを患いながら寿命を削るように将棋を指し、仲間たちと痛飲する姿は、輝かしくも痛々しいものです。

村山は「将棋は神の世界だ」と言っていますが、その神とは全てを見通し調和を保つような存在ではなく、白か黒か、生きるか死ぬかの判定を下す、ひたすら厳しい存在です。難病の子たちを集めた寄宿舎で暮らし、日常的に死に直面していた村山にとって、絶対的な存在とはこのようなものだったのでしょう。A級に昇格した直後の「棋士年鑑」のなかで「神様が一つだけ願いをかなえてくれるとしたら何を望みますか」というインタビューに対し、村山は、たった一言「神様除去」と答えています。

藤井聡太が、先年同じ質問に対して、「せっかく神様がいるのなら一局、お手合わせをお願いしたい」と答えて、周囲をアッと言わせましたが、わたしには村山聖の名言が、数手先を行っているように思えます。


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花のごとかる罪を抱きて

2022-06-05 23:21:08 | 日記

残照の光の海を
二人行く ふたりゆく
花のごとかる罪を抱きて

都はるみの歌『邪宗門』の歌い出しの部分です。
花のごとかる罪、花のごとくある罪とは何か。『邪宗門』というタイトルに照らせば、道ならぬ恋の華、背徳の刹那の美を指しているとみるのが普通です。
しかしこの歌のサビの部分はこう歌い上げられます。

物語をつくるのはわたし
世界を生むのはわたし

道ならぬ恋によって世間からはじき出される日陰者のイメージは、ここにはありません。道ならぬものであれ、そうでないものであれ、人と人との繋がりは、物語をつくり、世界を生み出す「わたし」にとっての拠り所に過ぎない。そうだとするならば、世間からはみ出すことの罪ではなく、物語や世界を生み出すことの「花のような罪」こそがここで歌われているのではないか、と思いは膨らんで行きます。
こうやって訳の分からないことを考えるのも、この歌の誕生の経緯が特別なものだからです。

この歌詞を手掛けたのは、全共闘運動の体験をもとに歌集『無縁の抒情』でデビューした道浦母都子です。ちなみに歌集タイトルは高橋和巳の評論『孤立無縁の思想』に由来します。デビューから18年後、都はるみと同い年で交友のあった道浦は、都はるみのパートナー中村一好のたっての希望で、高橋和巳の作品『邪宗門』を題材にした作詞をすることになります。

架空の宗教団体「ひのもと救霊会」を描いた長編『邪宗門』は、貧困、テロ、戦争、救済などのテーマが卓越した筆致で描かれた作品です。決して明るい小説ではないにも関わらず、読む者をぐいぐいと引き付ける力を持っています。度重なる弾圧にも屈せずに、登場人物が立ち上がる、その原動力には「罪」の感覚が関わっていて、飢餓のなかひとり生き延びた罪、テロで無辜の人を殺めた罪、戦地で犯した残虐な罪、そういったものに突き動かされるように登場人物たちは、世界を切り開いて行きます。

あなたを愛して
あかねさすわたし

で終わる歌なので、悲恋をテーマにしたものに間違いはないのでしょう。
しかし、この歌が小説『邪宗門』の世界を基にしている以上、やはり「花のごとかる罪」に、様々な思いを重ねてしまいます。


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