10月26日(土)日置市伊集院町で妙円寺詣りの行事がありました。
13時41分 今日はカーボン三脚を利用 以下の画像は10月26日に撮影
今日は日置市伊集院文化館に車を止め、行事開催地の徳重神社まで900mほどを歩きます。
9月の伊作太鼓踊りで三脚を担いだ後の肩こりが気になり、殆ど未使用のカーボン三脚を思い出して引っ張り出しました。
普段使うアルミ製と違って格段に軽く、安定性や強度は若干気になりますが、カメラ位置の調整がしやすく便利でした。
母校前から神社方向へ歩く 有馬中将の墓地石碑
伊集院高校の正門近くに鹿児島交通のバス車庫があり、徳重神社方向へは昔からの道が残っています。
道沿いのお寺跡地は墓地になっており、昭和19年に「特攻の魁」となり散華した有馬中将の墓があります。
14時ちょうど徳重神社 大田太鼓踊りが終わった
行事日程が判らないまま神社に近づくと鉦と太鼓の音が響てきました。先着カメラマンさんの話では例年よりも少し早めに行事がスタートしていました。
明日27日の衆議院選挙投票日が影響しているのか、徳重太鼓踊りは先に終了し、大田太鼓踊りが今終わったところでした。
14時7分 妙円寺詣りの歌 暗唱披露 関ケ原の戦いの様子などを歌う
高校の頃まで何度も口にした歌で、二十二番まであり 一番の歌詞は
明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて 嵐はさっと吹き渡り 万馬いななく声高し
妙円寺詣りについて鹿児島県観光サイトから引用して紹介します。
鹿児島市内から日置市伊集院町までの約20kmの道のりを歩いて参拝する伝統行事。敵中突破後苦闘の末、帰還を果たした島津義弘公をしのび、泰平の世に士気を鼓舞し、心身の鍛錬をするため、鹿児島城下の武士たち(庶民は明治以降)は関ヶ原の合戦前夜の9月14日(旧暦)、往復40キロの道のりを鎧・兜に身を固め、夜を徹して義弘公の菩提寺である妙円寺に参拝し始めました。
明治初期の廃仏毀釈で徳重神社に変わってからも参詣は続きました。やがて、鹿児島3大行事として受け継がれますが、県民性の欠点である忍耐姓や持続性の不足を補うものとして大きな意義があります。現在は郷土芸能の奉納や武道大会、家族連れで賑わうウォークリーなど、5万人を越す人出でにぎわいます。(引用終わり)
14時25分 錬心舘空手の演武
大きなテントが設営された観客席を正面とした演武
これまでは社殿側を正面として伝統芸能や演武が披露されていたと思いますが、今回は団体ごとの判断に従ったようです。
14時44分 ビクトリア街(スポーツジム)前での伊作太鼓踊り
伊集院駅の北隣にあるスポーツジム前でも太鼓踊りが披露されていました。
14時58分 薩摩日置鉄炮隊の演武
安全対策のため周辺への立ち入りを規制したうえで、火縄銃発射などの演武が行われました。
轟音と煙
火縄銃発射前の緊張感や轟音に驚く観客の声など動画で記録できました。
立ち入り規制範囲が広いので、火縄銃発射の詳細を写すには望遠レンズが必要です。
15時30分 伊作太鼓踊り(中之里保存会)
今年は地元伊作地区での踊りが、台風の影響で日程が何度も変更されてご苦労の多かったことと思います。今日も元気一杯の踊りが披露されました。
踊りを終えて退出の場面
着物姿の少年たちの笑顔が微笑ましく感じられました。良い思い出になったことでしょう。
15時54分 薬丸野太刀自顕流の演武
16時22分 最後の方では体験会もあった
勢いよく木刀を振り下ろすと大きな音が響き、親子連れの子供たちを中心に体験者の笑顔が見られました。
昨年の妙円寺詣りのブログはこちらからご覧ください。
16時47分 日置市役所前 伊作峠トンネル建設推進運動
普段利用しないのであまり意識しませんが、鹿児島市谷山地区と日置市吹上町を結ぶ県道22号谷山伊作線は、山間部を走るカーブの多い峠越えの道です。
利用時間短縮と安全性向上のため、トンネル建設推進運動が長年続いています。伊作と言えば吹上町でしたので、伊集院になぜこの旗があるのと思ってしまいました。
平成の大合併前の日置郡内には郡山、松元、伊集院、東市来、市来、日吉、吹上、金峰の8町がありました。
大きく4つに分かれて合併が進み、松元町と郡山町は隣接する鹿児島市が広域化する形で2004年11月に合併し、鹿児島市の一部となりました。
伊集院町を中心に西側の東市来町、南側の日吉町と吹上町は広域合併して2005(平成17)年5月に日置市が誕生。
市来町は西側に隣接する串木野市と合併し、2005年10月にいちき串木野市が誕生。日置郡南部の金峰町は2005年11月に隣接する加世田市と合併し、南さつま市の一部となりました。
月日の過ぎるのは早いものですが、私の頭の中にはまだ吹上町が残っていました。2日続けての祭り撮影でしたが、雨に降られることなく楽しめて幸いでした。
13時41分 今日はカーボン三脚を利用 以下の画像は10月26日に撮影
今日は日置市伊集院文化館に車を止め、行事開催地の徳重神社まで900mほどを歩きます。
9月の伊作太鼓踊りで三脚を担いだ後の肩こりが気になり、殆ど未使用のカーボン三脚を思い出して引っ張り出しました。
普段使うアルミ製と違って格段に軽く、安定性や強度は若干気になりますが、カメラ位置の調整がしやすく便利でした。
母校前から神社方向へ歩く 有馬中将の墓地石碑
伊集院高校の正門近くに鹿児島交通のバス車庫があり、徳重神社方向へは昔からの道が残っています。
道沿いのお寺跡地は墓地になっており、昭和19年に「特攻の魁」となり散華した有馬中将の墓があります。
14時ちょうど徳重神社 大田太鼓踊りが終わった
行事日程が判らないまま神社に近づくと鉦と太鼓の音が響てきました。先着カメラマンさんの話では例年よりも少し早めに行事がスタートしていました。
明日27日の衆議院選挙投票日が影響しているのか、徳重太鼓踊りは先に終了し、大田太鼓踊りが今終わったところでした。
14時7分 妙円寺詣りの歌 暗唱披露 関ケ原の戦いの様子などを歌う
高校の頃まで何度も口にした歌で、二十二番まであり 一番の歌詞は
明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて 嵐はさっと吹き渡り 万馬いななく声高し
妙円寺詣りについて鹿児島県観光サイトから引用して紹介します。
鹿児島市内から日置市伊集院町までの約20kmの道のりを歩いて参拝する伝統行事。敵中突破後苦闘の末、帰還を果たした島津義弘公をしのび、泰平の世に士気を鼓舞し、心身の鍛錬をするため、鹿児島城下の武士たち(庶民は明治以降)は関ヶ原の合戦前夜の9月14日(旧暦)、往復40キロの道のりを鎧・兜に身を固め、夜を徹して義弘公の菩提寺である妙円寺に参拝し始めました。
明治初期の廃仏毀釈で徳重神社に変わってからも参詣は続きました。やがて、鹿児島3大行事として受け継がれますが、県民性の欠点である忍耐姓や持続性の不足を補うものとして大きな意義があります。現在は郷土芸能の奉納や武道大会、家族連れで賑わうウォークリーなど、5万人を越す人出でにぎわいます。(引用終わり)
14時25分 錬心舘空手の演武
大きなテントが設営された観客席を正面とした演武
これまでは社殿側を正面として伝統芸能や演武が披露されていたと思いますが、今回は団体ごとの判断に従ったようです。
14時44分 ビクトリア街(スポーツジム)前での伊作太鼓踊り
伊集院駅の北隣にあるスポーツジム前でも太鼓踊りが披露されていました。
14時58分 薩摩日置鉄炮隊の演武
安全対策のため周辺への立ち入りを規制したうえで、火縄銃発射などの演武が行われました。
轟音と煙
火縄銃発射前の緊張感や轟音に驚く観客の声など動画で記録できました。
立ち入り規制範囲が広いので、火縄銃発射の詳細を写すには望遠レンズが必要です。
15時30分 伊作太鼓踊り(中之里保存会)
今年は地元伊作地区での踊りが、台風の影響で日程が何度も変更されてご苦労の多かったことと思います。今日も元気一杯の踊りが披露されました。
踊りを終えて退出の場面
着物姿の少年たちの笑顔が微笑ましく感じられました。良い思い出になったことでしょう。
15時54分 薬丸野太刀自顕流の演武
16時22分 最後の方では体験会もあった
勢いよく木刀を振り下ろすと大きな音が響き、親子連れの子供たちを中心に体験者の笑顔が見られました。
昨年の妙円寺詣りのブログはこちらからご覧ください。
16時47分 日置市役所前 伊作峠トンネル建設推進運動
普段利用しないのであまり意識しませんが、鹿児島市谷山地区と日置市吹上町を結ぶ県道22号谷山伊作線は、山間部を走るカーブの多い峠越えの道です。
利用時間短縮と安全性向上のため、トンネル建設推進運動が長年続いています。伊作と言えば吹上町でしたので、伊集院になぜこの旗があるのと思ってしまいました。
平成の大合併前の日置郡内には郡山、松元、伊集院、東市来、市来、日吉、吹上、金峰の8町がありました。
大きく4つに分かれて合併が進み、松元町と郡山町は隣接する鹿児島市が広域化する形で2004年11月に合併し、鹿児島市の一部となりました。
伊集院町を中心に西側の東市来町、南側の日吉町と吹上町は広域合併して2005(平成17)年5月に日置市が誕生。
市来町は西側に隣接する串木野市と合併し、2005年10月にいちき串木野市が誕生。日置郡南部の金峰町は2005年11月に隣接する加世田市と合併し、南さつま市の一部となりました。
月日の過ぎるのは早いものですが、私の頭の中にはまだ吹上町が残っていました。2日続けての祭り撮影でしたが、雨に降られることなく楽しめて幸いでした。