ふくちゃんの絵日記

バイク等での旅行記や、日常生活で感じたことを、絵(写真)に描けるものは描き(添付)絵日記風にしたいと思います。

嬉しい”オクリモノ”

2015年09月16日 | 日記
 
 そう!コーヒー・カップである。
 昨夜、娘夫婦が訪ねてくれた。
 時間を少し溯る。
 私の、50数年来の友人であるH氏宅に伺った時、息子さんからコーヒーの提供を受けた。
 コーヒー自体も美味しく頂いたのではあるが、道具である”コーヒー・カップ”と、私の勘合が何とも云えない感触であった。
 下唇にコーヒー・カップのエッジが乗っかかって、良い感触だったのである。
 帰宅し、暫く経って、その時に受けた感触を、子供(娘夫婦)に話した。
 そして、昨夜に至るのであるが、出来上がったコーヒー・カップ(写真)のプレゼントを受けたのである。
 コーヒー・カップにしては、珍しいと思うが、エッジ部に広がりを有している。
 この広がり部分が、下唇に乗っかって”ぐつ(都合)”が良いのである。
 私は、一度に1.5人分を造って飲んでいるが、容量的にも程好い大きさである。
 私・愛用のコーヒー・カップの誕生である。
  
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とんだ思い違いをしていたものだ!(16日加筆・追加)

2015年09月15日 | 旅行記
 長浜市の”観光のシンボル”に成長したとされる「黒壁スクエア」についてである。
 「黒壁スクエア」への観光は、琵琶湖周遊ツーリングが企画された当初から、Mu氏の行程表には組入れられていた。
 私は、長浜城と関連した、黒い壁で統一された武家屋敷が連なり、その武家屋敷の佇まいを”黒壁スクエア”と自分勝手な理解であった。
 しかし、現地を訪れる機会を得て、私の理解とは乖離があることに気付いた。
 黒壁スクエア=伝統的な建築物を生かした観光地化した企みの様である。
 ことの起こりは、長浜城下の”札の辻(であった場所)”に立地していた、銀行の建物が建て替えられる計画が発生し、保存の為の運動が起こった歴史がある様である。
 そして、この事がキッカケで、現存する「黒漆喰の和風建築物郡(黒壁1号から黒壁30号)」を持って「黒壁スクエア」と総称したことが判った。
 現在では、年間数百万人が訪れる、観光のシンボルに成っている様である。
 調べて・判って、あぁ!スッキリ!!
   
 絵(写真)の説明・写真左より、写真1から写真3とする。
 写真1:現・ガラス館(黒漆喰和風建築物保存の原点となった、旧銀行)角の”札の辻”を表わす標識
 写真2:黒壁スクエア(黒壁1号館から黒壁30号館の総称)を構成する黒漆喰の建物の様子
 写真3:”札の辻”付近からアーケード(商店)街の風景。 アーケードの入り口が特徴的な装飾であった。
 蛇足な言い訳
  これ等の写真撮影した時点では「黒壁スクエア」たるものを理解していなかった。
  従って、黒壁スクエアの原点たる「現・ガラス館」の”絵(写真)”を描かなかった。
  帰宅し、学習した結果、起源される「ガラス館の写真が欲しかった」と思っても”あとの祭り”
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琵琶湖周遊ツーリング (第二日目・Ⅰ)

2015年09月15日 | 旅行記
 2015年9月13日、電話の呼び出し音で目覚める。
 発信者は、Mu氏である。
 「9時に出発ではなかった!」
 シマッタ!と反射的に、大部分が活動を開始していない”脳みそ”が反応する。
 発した言葉は「直ぐに行きます!」
 今だ・お休み中の我が”脳”は、何を如何すれば良いのか、右往左往する。
 その有様は、我が事ながら滑稽であった。
 急ぎ、チェック・アウトする。
 バイクの駐車場所に行く。
 Mo氏が未着であったので「あれ!Mo氏は?」
 「まだ!(来ていない) 電話ししてみる」
 食事中との事。
 Mo氏が食事中なら、お湯だけでも頂こうと、食堂に行ったが、既にMo氏は居なかった。
 やがて、Moの準備も整い、出発する。
 今日の行程は、彦根城、長浜城、長浜・黒壁スクエア、賤ヶ岳古戦場、海津大崎桜並木、メタセコイア並木、琵琶湖大橋を周遊する計画である。
 彦根城・駐車場にバイクを停めて散策するが、さすがに35万石の”お城”である。
 広くて大きい!
 同伴の、Mu・Mo氏は過去に観光したこともあり、天主の写真だけでも撮ろうと単独行動するも、木々に妨げられ観る事が出来ない。
 諦めた。
 そして、長浜に向け出発する。
 湖岸を走る計画であることから、県道2号線に向う。
 途中、天守閣が見える絶好の場所があり、写真に収める事が出来た。
 湖岸を快走し、長浜城・天守閣が見える処にバイクを停め、写真に収める。
 ”可愛いお城”との印象である。
 彦根城を観た直後である。
 尚更の印象であった。
 長浜城から少し、Uターンし「黒壁スクエア」に向う。
 近くの駐車場にバイクを停め、「黒壁スクエア」なる私にとって”未知の地”に向う。
 黒壁の古い建築物であった、旧・銀行の建物を保存する運動が起きて、現在では日本でも有数の「ガラス館」として現存しているとのことである。
 (詳細は、帰宅して、Net検索で学習して知った)
 近くにあった和菓子屋さんで休憩する。
 私は「白玉ぜんざい(お汁粉は記憶違い)」を食した。
 そして、次なる「賤ヶ岳古戦場」に向う。
 駐車場の人に道順を聞く。
 「左・右・左・右(この前の道を進んで、左に曲がって、県道2号線に出て、2号線を右折し、国道8号線交差点を左折して、国道8号線のトンネル手前を右)」と教えられた。
      
 今日の絵日記の絵(写真)は、左から(写真)1・2・3・4・5・6とします。
 なお、写真をクリックすれば拡大し、観易くなります。
 写真1:彦根城内。 35万石とは、流石に大きな城郭であった。
 写真2:県道2号線に向う途中で”写真スポット”を見つけ、撮影した貴重な一枚。
 写真3:琵琶湖が眼前に迫る、県道2号線交差点。 右折し、長浜方面に向う。
 写真4:長浜城・天守閣
 写真5:「黒壁スクエア」を構成する30屋の一つ。
 写真6:長浜から賤ヶ岳古戦場に向う。 琵琶湖湖畔(県道2号線)を走行する。
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琵琶湖周遊ツーリング (第一日目)

2015年09月14日 | 旅行記
 2015年9月12日・朝、7時半頃に家を出て、燃料補給等の準備を整え、9時30分頃・集合場所に到着した。
 既に、MU氏は到着していた。
 出発予定時刻となって、MO氏も到着。
 先ずは「近江八幡」に向け、出発する。
 高速道では、定めたSAに集合し、途中は”自由走行”とした。
 15時過ぎ、名神道・竜王ICを下りて、近江八幡市に向う。
 近江八幡の語源となった”八幡神社(日牟禮八幡神社)”に!である。
 此処・近江八幡は”近江商人”発祥の地でもあるという。
 そして、近江八幡市は、豊臣 秀次の城下街として栄えたということである。
 水を利用した、お城の”堀”であったり”海運水路”として整備された歴史があるということであった。
 「八幡堀水郷めぐり」のため、八幡神社の駐車場(?)にバイクを置き、徒歩で乗船口に向う。
 400Km余りの道のりを、走り続けたのちの”静寂”の時間を暫し楽しむ。
 所要時間は、30分であった。
 水郷めぐりを含め、一時間程の後、次なる目的地である、バイク・ショップに向った。
 バイク・ショップで所用を済ませると17時を過ぎていた。
 彦根城の周遊を明日に変更して、ホテルに向う。
 数分で、到着し、チェックインを済ませた。
 懇親会の待ち合わせ時間を18時として、各自・自室で準備を整える。
 一次会・二次会に加え、コンビニで買物を済ませ、ホテルの自室(MO氏)で三次会となった。
 やがて、明日のためにと”終演(会)”の理性も働き、ツーリングの一日目を終えた。
       
 今日の絵日記の絵(写真)は、左から(写真)1・2・3・4・5・6とする。
 写真をクリックすれば拡大し、観易くなります。
 写真1~写真3:八幡堀水郷めぐりの乗船場から、乗船。船の内部から堀の様子
 写真4:お堀から佛光寺別院(と思われる寺院)を望む
 写真5:”貝”を水中に吊るし「水質浄化を行っている」と説明があった。 
 写真6:夜の”彦根”(ホテルの近く) ママさんが切り盛りする居酒屋での語らいで、疲れを癒す。
 
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行ってきたぜ!そして、無事・帰宅しました。

2015年09月13日 | 日記
 1000Km超のツーリングを終えて、無事に帰宅を果たしました。
 雨に降られることもなく、所定の行程を消化しました。
 改めて「絵日記」にします。
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行ってきます

2015年09月12日 | 日記
 今日から、一泊二日で”琵琶湖周遊ツーリング”に行きます。
 ”念じれば通ずる” 天気も、降雨は避けられた様である。
 7時30分過ぎには、出発しようと思う。
 集合場所を、10時出発である。
 燃料補給をしながら、余裕を持って、集合場所に向いたいと思う。
 四度目にして実現する企画である。
 楽しんで来ようと思う。
 出発準備に、当たって”ドタバタ劇”を演じた。
 日付けが、今日になる時点で、やっと準備が整った。
 このドタバタ劇については、日記にしたいと思っております。
 そして、今回のツーリングの模様についても、日記にします。
 それでは、行ってきまぁーす!!
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思いもしない”知らせ”が!

2015年09月09日 | 日記
 今日は9月9日、「重陽・菊の節句」と言うらしい。
 夕刻になって、何時もの様にスポーツジムに行く。
 所定のカリキュラムを消化し、帰宅した。
 風呂上りの風が心地良い。
 帰宅しての楽しみは”晩酌”である。
 火照った身体は”冷たい飲み物”を欲しがる。
 美味い!・まさに美味い!”
 そして、お湯割りに代わった頃、電話があった。
 「おい!長い文書を書くのは”嘘つき”と(TVで)云っているぞ!!」と、興ざめする内容の電話であった。
 この様な内容から、始まった会話であるが、後は他愛も無い、何時もの内容の話しで、終わる。
 「ほんならの!」「おぉ!また・電話(してや!)するわ!」などと
 お互い元気な証である。
 TVの内容は「脳科学者が(テーマに基づく)メールの内容から人物判断をする」と、いうものの様であった。
 長文を書く人間は”嘘つき(嘘をつくため長文になる傾向がある)”とレッテルを貼られても、どうしょうもない。
 嘘や虚構でない事を、説明したい余り長文になるのは、確かに”表現力の欠如”であると思う。
 日本語は”起承転結”での表現方法や、5W1Hでの表現を求められたり、究極的には、たった17文字(12語を訂正)で表現する文化もある。
 娘からは”(長々と)邪魔くさい!”と云われても”(読む側が)理解できなれば文書ではない!と、思う(表現力の)迷いもある。
 結果は判っている。
 少ない語句での(文書)表現が、出来ないことを・・・
 考え始めると、燗ペットには”酒”が止めどなく”注がれるのである。
 何だかんだと、云いながらも(酒のツマを頂き)今日も晩酌が”美味しい!”でェす!
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”てるてる坊主”で夢見た昔、そして今は・・! (9日訂正・追記)

2015年09月08日 | 日記
 小学生の頃、春(一学期)と秋(二学期)に有ったとの記憶であるが定かではない。
 ”遠足”である。
 近隣では、地元で有名だった桜並木(明現さん(水晶寺を訂正)の馬場)であったり、少し遠路で”出島海岸”に出かけて(遠足)いた。
 前夜に、雨でも降っていれば、気が気で無かった。
 ”藁にも縋る想い”で、登場するのが”てるてる坊主”であった。
 ”てるてる坊主”の出番を願っても”雨”に成る事も多々あった。
 母から言われたこと、それは「逆立ちしていては”てるてる坊主”も怒るぞ!」
 造り方が悪く、仮(過を訂正)分数になって”逆立ちしてしまう(*)のである。
 ラジオから発せられる「天気予報」が”雨”であっても、晴れる事も多かった。
 当時の天気予報は”天気予想”で、競艇・競輪の”予想”と同じ様なものでは無かっただろうか・・・?
 50年細前、富士山山頂に「レーダー・サイト」が、国家の威信を賭けて建設されたことはニュースにもなった。
 台風の進路を予測する事が大きな役目であったと、後になって理解した。
 天気予報の精度が向上する(予測が予報になる)と思っていたのである。
 天気予報の歴史を調べると、富士山レーダー建設の五年前、アメリカでは「気象衛星」を打上げ、その画像を日本は購入し、天気予報の一助としていた言う。
 それから56年が経過し、世界に名だたる「気象衛星」を開発し、自立して衛星軌道に投入する技術を保有するまでになった。
 そして、天気予報の精度は、格段に向上している。
 現在では”雨”と予報されたら、略・雨である。
 望ましい天気ではないと、判っていてても”(旅行等では)晴れて欲しい!”と願う事はあるのである。
 てるてる坊主・てる坊主、明日ではなく・12日は天気にしておくれ・・・・!
 現在の天気予報は”(予報どおりで)薄情”と思うこともある。
 結果は判っている現在の天気予報であっても、自分の思いを成就させる気合はあっても良いと思う。
 古典に習い、初めての体験として、てるてる坊主に”ホウキ”を持たせてみようと思っている。

 追記(*):テッシュ・ペーパーや新聞紙を包めて頭部として、頭部を包む様に首の部分を絞る。
     足と成る部分を広げ・整える。
     この時、首の部分から、吊るす(飾る)紐を出すものだから、頭部が重く、逆立ちしてしまうのであった。
     頭部の重量に負けない、スカート部分を長くしてやる事も覚えた。
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期待・膨らむ!

2015年09月07日 | 日記
 四度目にして、実現の可能性が大きく膨らんできた。
 琵琶湖湖畔を周遊するツーリング(日記「三度目の正直!でなく四度目にして(2015.8.17)」)である。
 今月12日~13日で実施する事となった。
 秋雨前線や「台風が発生し、上陸の恐れあり」等の天候不順で、気持ちをヤキモキさせられる。
 しかし、週間天気予報では、降雨確率も低下する予報となってきた。
 計画では、近江水郷めぐり、彦根・長浜城、桜回廊、メタセコイア並木・等々を廻る、興味深い・M氏の”献立”である。
 久し振りのツーリングで、今から”ワクワク”している。
 ツーリング中は、気分的にも好天であることが最良で、そう願いたいものである。
 ”てるてる坊主”って、今から、お願いすると 「何時、晴れれば良いんだ?」と混乱させるかなぁ!!
 唄にも有る様に、前日に、お願いするのが正解なのでしょうね・・・? 
 久し振りに”てるてる坊主”を飾って、唄も唄ってお願いしようかぁ!
 天気にしてくれたら、銀の鈴は差し上げる事は叶いませんが”あまいお酒を”お腹一杯・お飲み頂きます。
 私も、御一緒させて頂きますので・・・
 そして、もしも、願いが叶わなくても”首をちょん切るぞ!”なんて恐ろしい事は考えておりませんから・・・・
 期待が膨らむ余り、少年の頃の心を取り戻そうとしているのであろうか?
 一心に・お願いしていたよねぇ!! 遠足の前の日には・・・
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儘ならぬこと

2015年09月06日 | 日記
 コーヒー・サイホン用の熱源についての、第二段である。
 耐熱モルタルの残量があることから、試してみたい事がある。
 耐熱モルタルで成型(ニクロム線を保持するプレート)したものを焼成してはどうか?と言うことである。
 陶工でもある子供に相談した。
 「試してもみれば・・・!、何時でも焼成できるよ!」との返事と伴に「乾燥が充分に出来てなくて、ひび割れたのではないか?」との指摘であった。
 そして、焼成は、時間をかけて温度を上昇させることから「内部の水分を徐々に蒸発させる事が出来る」と云う説明もあった。
 早速・成型作業にかかった。
 今回、製作した”熱源”は、ニクロム線を支持するプレートが割れてはいるが、使用は可能である。
 此れを使って、恒久的な、アルコールランプに代わる”熱源”が出来上がるまでのツナギとしたい。
 言うなれば、ニクロム線を保持し、且つ直接的にニクロム線の熱に耐えるモノを造らなければならない。
 意匠は現在のスタイルで良いと思っている。
   
 写真・左:サイホンのフラスコと、製作したアルコールランプに代わる熱源(電熱コンロ)である。
      意匠(スタイル)には問題はない。 ニクロム線を保持するプレート部分の交換となる。
 写真・中:セットした様子。 熱源であるニクロム線が直接、フラスコに触れるのではなく、5mm程の間隙を設けている。
 写真・右:コーヒーサイホンの注意書きに「”炎”を大きくし過ぎない様に!」とある。
      従って、熱源(ニクロム線)の大きさを、アルコールランプの炎の径に類似となるように工夫をした。
      この映像は、フラスコ、及び、フラスコ内の水を通して熱せられたニクロム線を視る。
 要するに、ニクロム線を保持し・且つ、耐熱性を維持するものの完成が求められている。
 今回の試作で判ったこと、それは、乾燥が足りなかったこと。
 及び、モルタルを自然乾燥させるだけでは、ニクロム線が発する高温で、原材料の砂とセメントに還元するのではないかと、思われる事である。
 従って、モルタルで成型した後、陶芸用の焼成釜で充分に乾燥させ、そして”ガラス化(融着)=焼成”させる事が有効では無いかと思った。
 焼成する準備も出来た事から、成型し焼成したプレートが熱に耐えられるかの”実験”に移行させたい。
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ままならない

2015年09月05日 | 日記
 コーヒーを頂くのに”サイホンでの所作が好きだ!”と、過去に日記(日記「大は小を兼ねる Prt2(2015.8.25)」)にした。
 そして、アルコール・ランプの代替品を考案したい考えがあることも書いた。
 挑戦はした。
 結果は”駄目”であった。
 結果は良くなかったが、努力した経過を日記にする。
   
 絵日記の絵(写真)は、三枚。 左から1~3とする。
 写真:1 ニクロム線を保持するプレートである。電源のとり方で二種類を作成した。 材質は耐熱セメントである。
 写真:2 試験点灯。 セメント製のプレートを加熱するが、予想通り”ひび割れした。
 写真:3 実際に、コーヒーを精製する。針金(8番線)を加工し、高さ調整のスタンドを造った。ひび割れたプレートを保持する結果ともなった。

 当初・陶器でプレート(ニクロム線を保持)を作成しようと、子に相談したが「割れる」との回答であった。
 珪藻土・石膏などの材質が思い付くが、入手可能な耐火煉瓦をつなぐセメントで試してみる事ととした。
 しかし、ひび割れたことから、更なる材質を求めなければ成らなくなった。
 鋳造用の石膏があることを知った。
 800℃まで耐えられるとのスペックであるが、1Kg 約 500円に、送料が500円と云う事で躊躇している。
 今しばらく、紆余曲折・試行錯誤を繰り返す事となるでしょう。
 楽しみながら遣ってみます。
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そうは問屋が卸さな(い)かった。

2015年09月04日 | 日記
 今日(午前中)ショッピングセンターの屋外で、順番待ちをしていた。
 目の前を、軽自動車が過ぎ去った。
 その車両のナンバープレートが目に留まった。
 「23ー45」であった。
 ”おぉ!連続番号(数字)や!珍しい!”と、思った矢先、今度は「56-78」と、又しても連続した数字のナンバープレートであった。
 今日は、何かあるぞ!!と、次なる連番のナンバープレート出現や、普段と異なる”9月4日”であることを予感した。
 行き交う車両のナンバーを凝視するも、次なるモノ(連番車両)は出現しなかった。
 期待はしたものの”人生・思うが如く成し得ない!”と言う事でしょう。
 期待する心(気持ち)に添う事もなく”普段どおりの”一日であった。
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移ろい (四日加筆)

2015年09月03日 | 日記
 一日が終わり、夕食を頂く。
 ご飯類を頂くことに先がけて始めるのが”晩酌”である。
 何時もの様に、薄めの水割りにした焼酎を頂く。
 水は、4Lが100円のミネラル・ウォーターと称するものを冷蔵庫で冷水にしたものである。
 季節の変化であろうか、身体は、お湯割を要求している。
 私が定めた、何時もの割合で、お湯割りを造り味わった。
 水割りからお湯割りへの、変わり様は”千変万化”慣れたものである。
 好きな事をするのである。 暇はない。
 一口・口にして、何かが違う。違うのである。
 コップに一杯、100cc位であろうか、飲み干したが違和感を感じた。
 希薄に成ったと言うか・物足りさを感じた。
 少し、時間を溯る。
 お中元で頂いた「芋焼酎」が、ロックでも水割りでも美味しく、それ以降・値は張るが継続していた。
 この焼酎の味を知るまでは、経済性を考え”芋焼酎と表示された「甲類乙類混和」酒であった。
 「お湯割りが私の嗜好に合っている」と愛飲していた。
 そして、嗜好を代える事件が起きた。
 それが、先の中元で頂いた”芋焼酎(乙類)”であった。
 目新しいモノ(焼酎)を頂くと”ストレート”若しくは”ロック”で味わってから、以後の飲み方を定めている。
 時期も替わり、”冷”から”暖”に好みが変わる季節へと移ろいでいく。
 焼酎を割る比率は同じでも、銘柄・割り方によって、これ程までに味わいが異なるか!と知る。
 何をするにも楽しみな事である。
 冬は、経済的に”楽”にして、来期の夏(水割りで頂く)に備えようと、思うこともまた楽し!である。
 只々・飲みたい!一心の子供の様でお恥ずかしい・・・

 蛇足:平成18年の酒税法の改正で、甲類は連続式蒸留焼酎。乙類は単式蒸留焼酎と区分するらしい。
    しかし、甲・乙類と表記することも可能であるという。
    乙類は、アルコール度数 35~45度で500年もの歴史を有するらしい。
    甲類は、水で希釈してアルコール度を調整するらしい事を知った。
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廻り廻って! (3日加筆)

2015年09月02日 | 日記
 年に一度、廻ってくるモノには色々ある。
 ”誕生日”も然りである。
 人間・誕生と伴に、固有名詞である”名前が附けられる。
 誕生したわが子に、命名する親にとって、緊張する”行事”である。
 良いも・悪いも、その子に一生ついて回るものである、との意識からである。
 「何で、こん(この様)な名前とつけた!」と一度や二度は、親を恨んだ経験はあると思う。
 そして”親に成る”と言うことは、自身が思った事(名前で)を、子にも同じ思いをさせる覚悟をもって命名しなければならない事である。
 その為に、字画であったり、故事・偉人、謂れ・由来等の思考を凝らし、想いを込めた”理論武装”する。
 命名した我が子が成長し、命名の”訳”を聞かれる事を想定し、命名した時点から身構えるのである。
 命名に対する”理論武装”が整った時点で、名付け親となる。
 私達の時代は、女子では、圧倒的に”〇子”が多い様である。
 改めて卒業写真を観て、判った事であった。
 しかし、最近では、女の子に”〇子”と命名することは、Netで検索するも、皆無の様相を呈している。
 私の思考で、高齢に成られた時、この名前でどうなるの?!と、老婆心ながら心配させられる”名前”もある。
 その時代に成れば、私の思考(私そのものの存在)は、淘汰されていて、違和感無く受けられる社会に成っているのでしょう。
 現に”〇子さん”と言う名前が希少となった今日、私は違和感を感じることも無く生活しているのである。

 廻り廻って、9月2日を迎え、この日の誕生に準え命名された”古き友”(日記「今日は、9月2日(2013.9.3)」)を想い出すのである。
 9と2で”ク・ニ”となって”クニ〇〇”と命名されたと言う。
 記憶と言うもの”自分に都合の良いものだけに削ぎ落とされ”古き善き思い出”として蘇る様である。
 50数年前に”喜怒哀楽・愛憎・裏切り・裏切られ等々”有ったであろう小・人生劇場も、今は懐かしく、都合の良い”美談”として記憶に残る。
 人間(私と言う)は”忘れる”という技術を持つが為に、都合よく活きられるのでしょう。
 誕生日に準え命名された友人が居たこと。
 そして”青い年代”の交友として、面映さを噛み締めながらも、懐かしく思い出されるのである。
 多感な青春時代を、伴に歩んだ友人達が、家族と伴に、有意義な老後を、お過ごしである事を願う、廻り廻る周年の9月2日である。
 
 
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今日は9月1日

2015年09月01日 | 日記
 今日から9月である。
 今日・9月1日は、2015年の年始から、244日目となる日である。
 そして、1923年の「関東大震災」が発生した日でもある。
 「防災の日」として、政府主催の防災演習も予定されている。
 時あたかも”防災行政無線放送”で、防災に関する放送がされている。
 緊急持出袋の点検を行い、我家の”防災の日”としたい。
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