旧:鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

2019.4.22以降、新規の主要な記事は新サイト「fusiminohikaru.net」
で書いています。 

かなりよい「利食いと損切りのテクニック」

2012-05-21 21:16:44 | 株式投資・資産運用
利食いと損切りのテクニック トレード心理学とリスク管理を融合した実践的手法

 トレーダーズショップのモニターで送ってもらったのですが、これはかなりよい。

 著者のアレキサンダー・エルダーはベストセラー「投資苑」の著者。

 テクニカル分析については、私は懐疑的ですが、この著者のものは書いてあることが違和感がありません。

 「いいとこ取り」という感じがしない。

 とにかく記録をちゃんとつけなさいと繰り返し言っているのもいいです。これ、確実に効果があると思います。

 また「なんだよー、持ってれば上がったじゃないの~」的な発想に陥りがちですが、この誤りを指摘したり、空売りについても丁寧に書かれていて、全体として読みやすく、また有益な内容であるように感じられました。
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特別支援教育 7 「楽しむ」はねらいではないのか?

2012-05-21 19:30:46 | 特別支援教育
 「全体像と課題」の続きを書いていないのですが、別のことを。

個別の指導計画で詳細の指導のねらいや手立てを記載するようになって、そこに「楽しむ」というねらい
を書くと、「楽しむ」というのはねらいとしては適切ではないからということで、書き直しの指導や指示が
される場合があったと聞きます。私自身のことではなく伝聞で、現状がどのようになっているかはわかりませんが。

 どうなんでしょうね。「楽しむ」というのは、ねらいとしては適切ではないのでしょうか。

 結論から言えば「楽しむ」というのはねらいとして適切ではないどころか、特別支援学校における極めて重要なねらいの中心の一つなのではないでしょうか。

 学校が楽しくなくてどうする?、学校生活が楽しいものでなくてどうするのでしょうか?。

 学校というのは、何か厳しい訓練だか練習だかを黙々とやって、その取り組んでいることができるようになったらそれでいいのでしょうか?。それがねらいの中心なのか?。

 じゃあ、毎日、何か楽しいことばかりをして、ニコニコ笑って過ごせたら、それでいいの?。それで「楽しむ」ということが達成されていたらいいの?。

 と、まあ、わざと極論というか、単純化させて書きましたが。

 つまりは「楽しむ」というのは、基本的にとても大切なねらいであり、視点であり、大事にしなければいけないことである。だから、ねらいとして極めて重要である。

 だけど、個々の子どもたちにとって、ただ「楽しむ」というねらいを達成して、評価が「楽しめた」、これでは中味、意味が全然わからない。

 じゃあ、どうするかというと、個々の子ども、その子どもにとって「楽しむ」というのはどういうことなのか?。その中味、内容はなんなのかということをまず考え、
次の、ある授業で「楽しむ」というねらいを設定するのであれば、その授業の中でその子にとって「楽しむ」というのはどんなことなのかを具体的にし、
当然、それにそった具体的な内容が設定されていなければなない。

 そうじゃなかったら「楽しむ」というねらいは、ねらいとしては適切ではなくなってしまいます。

 例えば、まず、強い緊張が入ったり、泣くことが続いたり、深く寝てしまったりして、なかなかいろいろなはたらきかけをゆったりと受け止められないことか多い子ども
さんだったら、まず適度に覚醒し落ち着いた状態で様々なはたらきかけをうけとめてほしいわけですね。それが、この子どもにとっての「楽しむ」ということ。

 だったら、それは「楽しむ」ではなくて、その授業の中で、あるいは日課の中で取り組んでいることそのものをねらいとして記述したらいいやん。

 いや、それでもいいのですけど、というか、、その授業では具体的にはそうなるのですけど、そうして落ち着いてはたらきかけを受け止めるところから、この子に「これが心地いい」「これが緊張せずに受け止められる。」
「これが面白い。」「これが好き。」っていうところに広げていきたい、そういうふうに進めていきたいわけです。

 で、そういうものが確立とまではいかなくても、そうした芽が見えてきたら、それはやはりその子にとっての「楽しむ」ということになるだろうと。

 だから、大きな意味で「楽しむ」というのはねらいとしては、はずせないというか、、基本的に大事にする点なのですよ、となるわけです。

 それは、具体的には「あたたかいお湯の温度や感触」かもしれない、「ゆったりしたいつも聞く楽器での演奏」かもしれない、「抱っこでの揺れや細かい振動」みたいなことかもしれない、いずれにしろ、まずは、意図して
考えられた感覚へのはたらきかけというところからまずはじまる。

 これは、認識面でも重度な子どもたちの場合で、発達や障害の実態が異なれば、当然「楽しむ」ことの中味、内容、意味は個々に異なってきます。

 だから、一回とばした記事と関連づけて言うなら、やはり個々の授業でのねらいや取り組み内容は原則としてその子の「全体像と課題」に沿ったものになってなければいけない、必然的にそのように組織されるべきもので
あるということですね。

 ちょっと舌足らずか。

 これと意味的には似たようなことで「指導方法を優先させるな!」というのもよく感じていました。これもまた書きます。






 
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