感覚的感じ分けから、認識をくぐった「わかる」へ
ちょっとこちらの記事はお休みしておりましたが、復活。
「感覚的感じ分けから、認識をくぐった「わかる」へ」っていうのは、以前から私が使っている言い回しなのですが、一般的な用語とか言い方ではないのでわかりにくいですね。
なんのことかというと、認識面で「乳児期前半」~「乳児期後半」期にある子どもたちの指導のねらいの基本的なあり方について言ったものです。
例えば、非常に緊張が強かったり、あるいは、睡眠・覚醒のリズムが整っていなかったりする、視覚障害や聴覚障害がある、感覚面でも様々な過敏さもある、全体として認識面では「乳児期前半」の課題があてはまる、そうした子どもたちにまず指導の中でねらう、望むことは、こちら側の様々なはたらきかけを落ち着いた状態で受けて止めほしいということです。
私は「刺激」という言葉をあまり使わずに「はたらきかけ」という言葉をよく使います。
それは、前者が様々な環境からの影響全般を指すのに対して、後者はそれらの中から指導者が意図をもってはたらきかけているものという意味があります。
つまり「はたらきかけ」は「刺激」の中に含まれるが、そこには「こんなことを感じ取らせたい」という意図をもった中味が用意されていなければならないということです。
で、とにかく、まず落ち着いた状態ではたらきかけを受け止めてほしいわけです。それは視覚なり聴覚なり、前庭覚、固有覚、触覚等々いろいろな内容があると思いますが。
これは、まずは心地良いはたらきかけを受け止めるということが基本になる。いきなり不快であるとか、強すぎる刺激となるようなはたらきけを行うことは適当ではない。
それは具体的には「だっこをした状態でゆっくり揺らすとリラックスできる」とか「温かいお湯の温感ゆお湯の中で手や足を動かされる感覚」だったりします。
これはどう評価したらいいのかな?。どういう状態だったら「受け止める」ことができていると評価できるのでしょうか?。当然、個々の子どもらの実態によってそれは異なりますが、例えば、表情であったり発声であっったり、体の緊張の状態であったり、そういったことでしょうね。
で、この「受け止める」というのはまずできたと。だったら次はどうか?。次は感覚へのはたらきかけとしては同じであっても、その違いを感じ取れるようになってほしい。
それは「温かい」「冷たい」の違いであったり、「ゆっくりした揺れ」と「細かいバイブレーションを伴う揺れ」であったり、色々なことが考えられると思います。
で、まずは感覚的なところでいいから、この違いというのをはっきりと感じとれるようになってほしい。と、ここまでは感覚的なことが中心です。
で、この感覚的に違いを感じ分ける、そういう取組を継続して何回も何回も続けていく。あれこれ、あれこれといろんなことをするよりも、継続的に一定の内容を繰り返し、繰り返し取り組んでいく。
そうする中で「あ、知ってる」「前にした」「いつもと同じだ」「これが好き」「こっちがいいな」、そういうわかり方ができるようになってほしい。言葉でこのように認識できるようになってほしいということではない。言葉になおしてみるならばこのような中味になるように「わかり方」ができるようになってほしいということです。
これは単に感覚的にどう感じ取るかということとは質的に意味が違うわけです。このことをまとめて、私は「感覚的感じ分けから、認識をくぐった「わかる」へ」という言い方をしているわけです。
これは重度の子どもたちにとっては、かなり普遍的なところでねらいとして大事にするポイントになるだろうと考えています。
ちょっと舌足らず・・・。まあ、アップしときます。
ちょっとこちらの記事はお休みしておりましたが、復活。
「感覚的感じ分けから、認識をくぐった「わかる」へ」っていうのは、以前から私が使っている言い回しなのですが、一般的な用語とか言い方ではないのでわかりにくいですね。
なんのことかというと、認識面で「乳児期前半」~「乳児期後半」期にある子どもたちの指導のねらいの基本的なあり方について言ったものです。
例えば、非常に緊張が強かったり、あるいは、睡眠・覚醒のリズムが整っていなかったりする、視覚障害や聴覚障害がある、感覚面でも様々な過敏さもある、全体として認識面では「乳児期前半」の課題があてはまる、そうした子どもたちにまず指導の中でねらう、望むことは、こちら側の様々なはたらきかけを落ち着いた状態で受けて止めほしいということです。
私は「刺激」という言葉をあまり使わずに「はたらきかけ」という言葉をよく使います。
それは、前者が様々な環境からの影響全般を指すのに対して、後者はそれらの中から指導者が意図をもってはたらきかけているものという意味があります。
つまり「はたらきかけ」は「刺激」の中に含まれるが、そこには「こんなことを感じ取らせたい」という意図をもった中味が用意されていなければならないということです。
で、とにかく、まず落ち着いた状態ではたらきかけを受け止めてほしいわけです。それは視覚なり聴覚なり、前庭覚、固有覚、触覚等々いろいろな内容があると思いますが。
これは、まずは心地良いはたらきかけを受け止めるということが基本になる。いきなり不快であるとか、強すぎる刺激となるようなはたらきけを行うことは適当ではない。
それは具体的には「だっこをした状態でゆっくり揺らすとリラックスできる」とか「温かいお湯の温感ゆお湯の中で手や足を動かされる感覚」だったりします。
これはどう評価したらいいのかな?。どういう状態だったら「受け止める」ことができていると評価できるのでしょうか?。当然、個々の子どもらの実態によってそれは異なりますが、例えば、表情であったり発声であっったり、体の緊張の状態であったり、そういったことでしょうね。
で、この「受け止める」というのはまずできたと。だったら次はどうか?。次は感覚へのはたらきかけとしては同じであっても、その違いを感じ取れるようになってほしい。
それは「温かい」「冷たい」の違いであったり、「ゆっくりした揺れ」と「細かいバイブレーションを伴う揺れ」であったり、色々なことが考えられると思います。
で、まずは感覚的なところでいいから、この違いというのをはっきりと感じとれるようになってほしい。と、ここまでは感覚的なことが中心です。
で、この感覚的に違いを感じ分ける、そういう取組を継続して何回も何回も続けていく。あれこれ、あれこれといろんなことをするよりも、継続的に一定の内容を繰り返し、繰り返し取り組んでいく。
そうする中で「あ、知ってる」「前にした」「いつもと同じだ」「これが好き」「こっちがいいな」、そういうわかり方ができるようになってほしい。言葉でこのように認識できるようになってほしいということではない。言葉になおしてみるならばこのような中味になるように「わかり方」ができるようになってほしいということです。
これは単に感覚的にどう感じ取るかということとは質的に意味が違うわけです。このことをまとめて、私は「感覚的感じ分けから、認識をくぐった「わかる」へ」という言い方をしているわけです。
これは重度の子どもたちにとっては、かなり普遍的なところでねらいとして大事にするポイントになるだろうと考えています。
ちょっと舌足らず・・・。まあ、アップしときます。