「北方文学」第89号を発行しましたので、紹介させていただきます。今号から新しい同人が加わることになりました。なんとまだ30歳の青年です。全国に数ある同人誌に関わる人が聞いたら、羨望のあまり発狂してしまいそうな事件ですが、なぜか最近新たに加わる同人の年齢が下がっています。
もとより評論が多いのが「北方文学」の特徴ですが、今号はロック評論あり、映画論あり、音楽エッセイありといった具合で、文学のジャンルにとらわれない内容になっています。しかもいずれも力作で、文学のおまけとして雑誌の片隅に載っているというようなものではありません。本格的なロック評論が掲載される文芸同人誌など聞いたこともないので、これからも「北方文学」の特徴として、大事にしていきたいと思います。
巻頭は魚家明子の詩2篇。「春の仕事」と「腐敗」です。隠喩としての言語の使いかたにただならぬ気配を感じさせます。ドキッとするほど残酷でエロティックな美しさに満ちています。巻頭にふさわしい2篇と思います。
続いて、鈴木良一の「断片的なものの詩学」第3弾「『リリアン』から「夢・見果てぬはて」へ(一九八七・六・九)」です。詩史のような詩でもあるのですが、今回は大事に保存された新潟における演劇関係のチラシを巡って、思い出に耽るといった趣になっています。よくこんなチラシを取っておいたものです。
三人目は館路子の「漆・卓上のデリュ―ジョン」。最近作品が短くなってきたのは何故でしょうか。漆塗りの座卓をモチーフにした作品。輪島の漆器なのでしょうか、漆黒の漆塗りに職人の宇宙観を見て取る方向へと幻想は膨らんでいきます。デリュージョンは妄想の意味ですが、しっかりした幻想になっています。
大橋土百の俳句が続きます。23~24年までの49句が収められています。難読漢字の植物名が目を引きます。たとえば「松陰嚢」と書いて、「まつぼっくり」と読むのですが、ここでは漢字で書くことの必然性が示されていると言えるでしょう。そんな植物名には、句のイメージを膨らませる力がありそうです。
批評はまず、柴野毅実の「ホセ・レサマ=リマの修辞学――『パラディーソ』における比喩表現について――」です。久々に長い論考になりました。キューバの作家ホセ・レサマ=リマの作品における直喩と隠喩についての試論ですが、そこに19世紀フランスの天才詩人イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』についての読解が絡んできます。理論的な問題についても触れてはいますが、それよりもラテンアメリカ小説の中では、あまり読まれることのない隠れた傑作の、唯一無二とも言える文体を紹介することを目的としたものです。引用が長くなっているのはそのためなのです。
霜田文子の「語り直すこと、生み直すこと――津島佑子『ナラ・レポート』を読む――」が続きます。前号では津島佑子の『狩りの時代』を中心に、障害者に対する差別の問題をテーマとしましたが、今号はその延長として「過去と現在を往還し、夢や幻想によって死者と生者が行き交う」魔術的リアリズムの手法を取り入れた『ナラ・レポート』を取り上げ、母と子の問題を掘り下げて、この作家の重要性を強調しています。
鎌田陵人は前号でも、レディオヘッドとその後に結成されたスマイルについて、本格的な評論を書いていますが、今号はさらに本格的なロック評論になっています。題して「レディオヘッド『キッドA』からザ・スマイル『ウォール・オブ・アイズ』へ」。Wall Of Eyesから発展して、フーコーやドゥルーズにまで言及するかと思えば、ジョン・ケージやペンデレツキにまで言い及ぶという、壮大な論考です。Wall Of Eyesではバックのオーケストラが特徴的ですが、このロンドン・コンテンポラリー・オーケストラのトーン・クラスターについての考察は誰にでもできるものではありません。
映画論、坂巻裕三の「ヴィム・ヴェンダースを観る・聴く・読む」が続きます。ヴェンダース監督の役所広司を主役に据えた「Perfect Days」がテーマですが、「観る・聴く・読む」というのは、この映画に11曲の音楽が使用され、なかでもルー・リードの「Perfect Day」に触発された映画だということで、音楽が重要な役割を果たしているからです。またこの映画に出てくる本の数々に、ヴェンダース監督が込めた思惑についても分析しています。映画論としてはかなり長いものになっていますが、多角的な解釈が必要とされたからでしょう。
続いて岡嶋航の「ナンセンス・マシンとしての世界――『もう一度』における商と剰余について――」。アメリカの映画監督ではなく、イギリスの作家の方のトム・マッカーシーの『もう一度』についての評論です。エピグラフに寺山修司の「奴婢訓」の一節が使われている割には、内容が数学的というか理科系的で難解です。集合が分からないと中に出てくる数式も理解できません。しかし、最後の終末のイメージ、意味のない永劫回帰のイメージはなんとか分からないでもないような……。
福原国郎の「記されざる家史」は福原家に伝わる過去帳と、庄屋に残された宗門人別帳から分かる家史についての文章です。東京美術学校卒後、長岡女子師範学校(後の新潟大学教育学部)で教えた藤巻嘯月という人の本によって明らかにされた、福原家の隠された歴史についてのエッセイとも言えるでしょう。
次の徳間佳信は巻末の執筆者紹介で、評論をやめ、エッセイに転進すると言っていて、音楽エッセイの第1弾がこの「忘れえぬ歌 一」ということになります。まずはサイモンとガーファンクルの「アメリカ」と、カルメン・マキの「戦争は知らない」の2曲が取り上げられています。軽いエッセイかと思いきや、時代背景についてのきちんとした分析もなされた内容で、歌と自身の人生との関りについての真摯な回想でもあります。
小説は3本。まずは新入同人、此木里予の「シロアリの巣」からスタート。地方都市の人口減少による中学校統合を避けるため、〝3D生徒〟なるものを製造して対応するというアイディアや、それらがどうも白アリとオオアリクイの生態と関連付けられているようだという点でSF的な作品と言えます。最後のミチルの無限増殖の場面は、フィリップ・K・ディックの作品を思わせる終わり方になっています。
次は板坂剛の「偏帰行 Ⅱ ――至極の鍵盤――」です。前号の「偏帰行」とのつながりは小説のラストで明らかにされますが、そのことはあまり重要ではないようです。むしろXjapanのYOSHIKIを思わせる美貌のピアニスト・森田義樹が登場して、彼の曲を聴くと自殺未遂者は再生し、極悪人は善人へと変貌するという、大人のおとぎばなし風の筋立てになっています。
最後は柳沢さうびの「書肆?水と夜光貝の函(2)」。時代は戦後、舞台は?崎市海水浴場に立つ「客舎?水樓」。初回に登場した青年たちはそれぞれの進路に問題を抱えながら、挫折を余儀なくされたり、順当に大学に進んだりしていきます。二人の主人公、澗川理彦(たにがわあやひこ)と浄水文(きよみずあや)との関係は遠ざかったままですが、次号でまた接近することになるのでしょう。今回ストーリーの展開はあまり進んでいません。柳沢の文章を読んでいると一昔前の〝文豪〟と呼ばれるような作家の文章を想起させるところがあり、文章だけを追っていても十分に楽しめる作品になっています。
以下に目次を掲げます。
魚家明子*春の仕事/腐敗
鈴木良一*断片的なものの詩学 ――Ⅲ 『リリアン』から「夢・見果てぬはて」へ(一九八七・六・九)
館 路子*漆・卓上のデリュ―ジョン
大橋土百*土と生き 帰る土
柴野毅実*ホセ・レサマ=リマの修辞学――『パラディーソ』における比喩表現について――
霜田文子*語り直すこと、生み直すこと――津島佑子『ナラ・レポート』を読む――
鎌田陵人*レディオヘッド『キッドA』からザ・スマイル『ウォール・オブ・アイズ』へ
坂巻裕三*ヴィム・ヴェンダースを観る・聴く・読む
岡嶋 航*ナンセンス・マシンとしての世界――『もう一度』における商と剰余について――
福原国郎*記されざる家史
徳間佳信*忘れえぬ歌 一
此木里予*白アリの巣
板坂 剛*偏帰行 Ⅱ ――至極の鍵盤――
柳沢さうび*書肆海水と夜光貝の函(2)
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