玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

北方文学第89号紹介

2024年07月01日 | 北方文学

「北方文学」第89号を発行しましたので、紹介させていただきます。今号から新しい同人が加わることになりました。なんとまだ30歳の青年です。全国に数ある同人誌に関わる人が聞いたら、羨望のあまり発狂してしまいそうな事件ですが、なぜか最近新たに加わる同人の年齢が下がっています。
 もとより評論が多いのが「北方文学」の特徴ですが、今号はロック評論あり、映画論あり、音楽エッセイありといった具合で、文学のジャンルにとらわれない内容になっています。しかもいずれも力作で、文学のおまけとして雑誌の片隅に載っているというようなものではありません。本格的なロック評論が掲載される文芸同人誌など聞いたこともないので、これからも「北方文学」の特徴として、大事にしていきたいと思います。

 巻頭は魚家明子の詩2篇。「春の仕事」と「腐敗」です。隠喩としての言語の使いかたにただならぬ気配を感じさせます。ドキッとするほど残酷でエロティックな美しさに満ちています。巻頭にふさわしい2篇と思います。
 続いて、鈴木良一の「断片的なものの詩学」第3弾「『リリアン』から「夢・見果てぬはて」へ(一九八七・六・九)」です。詩史のような詩でもあるのですが、今回は大事に保存された新潟における演劇関係のチラシを巡って、思い出に耽るといった趣になっています。よくこんなチラシを取っておいたものです。
 三人目は館路子の「漆・卓上のデリュ―ジョン」。最近作品が短くなってきたのは何故でしょうか。漆塗りの座卓をモチーフにした作品。輪島の漆器なのでしょうか、漆黒の漆塗りに職人の宇宙観を見て取る方向へと幻想は膨らんでいきます。デリュージョンは妄想の意味ですが、しっかりした幻想になっています。
 大橋土百の俳句が続きます。23~24年までの49句が収められています。難読漢字の植物名が目を引きます。たとえば「松陰嚢」と書いて、「まつぼっくり」と読むのですが、ここでは漢字で書くことの必然性が示されていると言えるでしょう。そんな植物名には、句のイメージを膨らませる力がありそうです。
 
 批評はまず、柴野毅実の「ホセ・レサマ=リマの修辞学――『パラディーソ』における比喩表現について――」です。久々に長い論考になりました。キューバの作家ホセ・レサマ=リマの作品における直喩と隠喩についての試論ですが、そこに19世紀フランスの天才詩人イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』についての読解が絡んできます。理論的な問題についても触れてはいますが、それよりもラテンアメリカ小説の中では、あまり読まれることのない隠れた傑作の、唯一無二とも言える文体を紹介することを目的としたものです。引用が長くなっているのはそのためなのです。
 霜田文子の「語り直すこと、生み直すこと――津島佑子『ナラ・レポート』を読む――」が続きます。前号では津島佑子の『狩りの時代』を中心に、障害者に対する差別の問題をテーマとしましたが、今号はその延長として「過去と現在を往還し、夢や幻想によって死者と生者が行き交う」魔術的リアリズムの手法を取り入れた『ナラ・レポート』を取り上げ、母と子の問題を掘り下げて、この作家の重要性を強調しています。
 鎌田陵人は前号でも、レディオヘッドとその後に結成されたスマイルについて、本格的な評論を書いていますが、今号はさらに本格的なロック評論になっています。題して「レディオヘッド『キッドA』からザ・スマイル『ウォール・オブ・アイズ』へ」。Wall Of Eyesから発展して、フーコーやドゥルーズにまで言及するかと思えば、ジョン・ケージやペンデレツキにまで言い及ぶという、壮大な論考です。Wall Of Eyesではバックのオーケストラが特徴的ですが、このロンドン・コンテンポラリー・オーケストラのトーン・クラスターについての考察は誰にでもできるものではありません。
 映画論、坂巻裕三の「ヴィム・ヴェンダースを観る・聴く・読む」が続きます。ヴェンダース監督の役所広司を主役に据えた「Perfect Days」がテーマですが、「観る・聴く・読む」というのは、この映画に11曲の音楽が使用され、なかでもルー・リードの「Perfect Day」に触発された映画だということで、音楽が重要な役割を果たしているからです。またこの映画に出てくる本の数々に、ヴェンダース監督が込めた思惑についても分析しています。映画論としてはかなり長いものになっていますが、多角的な解釈が必要とされたからでしょう。
 続いて岡嶋航の「ナンセンス・マシンとしての世界――『もう一度』における商と剰余について――」。アメリカの映画監督ではなく、イギリスの作家の方のトム・マッカーシーの『もう一度』についての評論です。エピグラフに寺山修司の「奴婢訓」の一節が使われている割には、内容が数学的というか理科系的で難解です。集合が分からないと中に出てくる数式も理解できません。しかし、最後の終末のイメージ、意味のない永劫回帰のイメージはなんとか分からないでもないような……。

 福原国郎の「記されざる家史」は福原家に伝わる過去帳と、庄屋に残された宗門人別帳から分かる家史についての文章です。東京美術学校卒後、長岡女子師範学校(後の新潟大学教育学部)で教えた藤巻嘯月という人の本によって明らかにされた、福原家の隠された歴史についてのエッセイとも言えるでしょう。
 次の徳間佳信は巻末の執筆者紹介で、評論をやめ、エッセイに転進すると言っていて、音楽エッセイの第1弾がこの「忘れえぬ歌 一」ということになります。まずはサイモンとガーファンクルの「アメリカ」と、カルメン・マキの「戦争は知らない」の2曲が取り上げられています。軽いエッセイかと思いきや、時代背景についてのきちんとした分析もなされた内容で、歌と自身の人生との関りについての真摯な回想でもあります。
 
 小説は3本。まずは新入同人、此木里予の「シロアリの巣」からスタート。地方都市の人口減少による中学校統合を避けるため、〝3D生徒〟なるものを製造して対応するというアイディアや、それらがどうも白アリとオオアリクイの生態と関連付けられているようだという点でSF的な作品と言えます。最後のミチルの無限増殖の場面は、フィリップ・K・ディックの作品を思わせる終わり方になっています。
 次は板坂剛の「偏帰行 Ⅱ ――至極の鍵盤――」です。前号の「偏帰行」とのつながりは小説のラストで明らかにされますが、そのことはあまり重要ではないようです。むしろXjapanのYOSHIKIを思わせる美貌のピアニスト・森田義樹が登場して、彼の曲を聴くと自殺未遂者は再生し、極悪人は善人へと変貌するという、大人のおとぎばなし風の筋立てになっています。
 最後は柳沢さうびの「書肆?水と夜光貝の函(2)」。時代は戦後、舞台は?崎市海水浴場に立つ「客舎?水樓」。初回に登場した青年たちはそれぞれの進路に問題を抱えながら、挫折を余儀なくされたり、順当に大学に進んだりしていきます。二人の主人公、澗川理彦(たにがわあやひこ)と浄水文(きよみずあや)との関係は遠ざかったままですが、次号でまた接近することになるのでしょう。今回ストーリーの展開はあまり進んでいません。柳沢の文章を読んでいると一昔前の〝文豪〟と呼ばれるような作家の文章を想起させるところがあり、文章だけを追っていても十分に楽しめる作品になっています。

以下に目次を掲げます。

魚家明子*春の仕事/腐敗
鈴木良一*断片的なものの詩学 ――Ⅲ 『リリアン』から「夢・見果てぬはて」へ(一九八七・六・九)
館 路子*漆・卓上のデリュ―ジョン
大橋土百*土と生き 帰る土
柴野毅実*ホセ・レサマ=リマの修辞学――『パラディーソ』における比喩表現について――
霜田文子*語り直すこと、生み直すこと――津島佑子『ナラ・レポート』を読む――
鎌田陵人*レディオヘッド『キッドA』からザ・スマイル『ウォール・オブ・アイズ』へ
坂巻裕三*ヴィム・ヴェンダースを観る・聴く・読む
岡嶋 航*ナンセンス・マシンとしての世界――『もう一度』における商と剰余について――
福原国郎*記されざる家史
徳間佳信*忘れえぬ歌 一
此木里予*白アリの巣
板坂 剛*偏帰行 Ⅱ ――至極の鍵盤――
柳沢さうび*書肆海水と夜光貝の函(2)

玄文社の本は地方小出版流通センターを通して、全国の書店から注文できます。

 

 

 


「北方文学」第88号発刊

2023年12月21日 | 北方文学

「北方文学」第88号を発行しましたので、紹介させていただきます。先号より地方小出版流通センター扱いとなり、大手取次を通して全国の主要書店に少部数ではありますが配本されています。同時に紀伊國屋ブックウエブや楽天ブックスなどのネット書店でも検索して購入できるようになっています。今年、新潮社刊の『文藝年鑑』の「同人誌」の項で、真っ先に「北方文学」が取り上げられていますので、少しは注目されるかもしれません。

 巻頭は魚家明子の詩2篇。「夏の幻想」と「ノックする」です。最近の魚家の作品は生き生きしていて言葉に力があります。言葉の肌触りというか、手触りというか、それがしっかりしていて、読み流すことのできない作品になっていると思います。
 二人目は館路子の「霊地たる山に居て風と別れる」。いつもより短めの長詩で、死者の霊との交感、あるいは死者の霊との交感への願望を歌った作品です。修験者の白装束が出てきますが、7月に同人仲間で八海山にロープウェイで登った時の体験が生きています。
 続いて、鈴木良一の〝これでも詩〟という「断片的なものの詩学」第2弾「ロシアから即興の風が吹いてくる5」です。鈴木が住む新潟市沼垂地区の歴史のこと、ロシア人、アレクセイ・クルグロフの即興演奏のこと、ノイズムのロシア公演のこと、ロシアのウクライナ侵攻のことなどの断片が犇めいています。
 徳間佳信の「諏訪行」が続きます。友人と諏訪湖を訪れた時の短歌7首です。

 批評はまず、霜田文子の「「内なる差別」を見つめて――津島佑子『狩りの時代』を読みながら――」です。津島佑子の『狩りの時代』を中心に、障害者に対する差別の問題を、ナチスの優生思想に基づく障害者虐殺の歴史と、霜田自身の体験を背景に論じています。2016年の植松聖による、やまゆり園での大量殺人のことも浮かび上がってきます。杉田俊介の「「どんな重度の障害者の生でも意味がある」と言ってしまうと、「『意味/無意味』『善い生/悪い生』という差別的な二分法が温存されてしまう」という言葉がすべてを語っています。「どんな人間の生にも意味などはない」という考え方が正解ではないでしょうか。それにしても重いテーマですね。
 次は海津澄子が2022年度のノーベル賞作家アニー・エルノーを論じた「身につまされるということ、語られた物語を受け取ること」。エルノーの作品への共感を語りつつ、日本の文芸ジャーナリズムによる作者の体験へのこだわりに対する批判もなされている。重要なことは作品に共感し、それを受け止めること以外にはないのでしょう。
 鎌田陵人の「完全に姿を消す方法――レディオヘッド試論――」は、ロック評論です。レイディオヘッドのトム・ヨークがジョニー・グリーンウッドと一緒に組んだ新バンド、Smileの新曲Bending Hecticに触発されて書かれた、本格的なレイディオヘッド論になっています。「完全に姿を消す方法」というのは、レイディオヘッドの最高傑作といわれるHow to Disappear Completelyのこと。2曲を対比してレイディオヘッドの今後を予想しています。
 しばらく書かないと言っていた榎本宗俊が、「「西行」異論」を寄せています。過去に書いたものということです。西行の歌を小林秀雄のように近代的自我の側面から読むのではなく、道歌として読む方向を探っています。
 続いて徳間佳信の「「希望」の語り方――張惠?「街頭の小景」から――」。中国現代小説に間テクスト性の論点から切り込んだ評論です。参照されるのはチェーホフと魯迅の作品です。中国の絶望的な現実を描きながらも、希望を失わない張惠?の作品に高い評価を与えています。張惠?「街頭の小景」の翻訳も掲載しています。
 研究では、坂巻裕三の「荷風と二人の淳 Ⅰ」が永井荷風研究の第4弾になります。二人の淳とは作家・石川淳と批評家・江藤淳のこと。今回は石川淳の永井荷風についての二つの文章について触れています。一つは荷風生前に書かれ荷風を称讃する「明珠暗投」、もう一つは荷風の死直後に書かれ、荷風の文学を全否定する「敗荷落日」。この落差の拠って来るところを推理しています。
 書評が一本、柴野毅実の「青木由弥子『伊東静雄――戦時下の抒情』を読む」です。単なる書評ではなく、柴野の伊東静雄体験から始め、青木の女性らしい独自の視点と新たな評価軸を紹介し、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を読んでの伊東静雄と戦争についての論点を確認するものとなっています。
 福原国郎の「三五兵衛駕籠訴――越後国村上領百姓濫訴の事――」が続きます。いつものように古文書から読み解く郷土史研究ですが、越後国村上領現燕市の百姓たちが、村の天領化を求めて幕府に命がけの直訴を行う過程を活写しています。
 少し文学から離れますが、研究として重慶外国語外事学院教授の高鵬飛氏が「古墳に埋葬された竹簡と家族への手紙??『雲夢睡虎地秦簡』をめぐり??」を寄稿しています。湖北省孝感市雲夢で1975年に発掘された、古墳で見つかった清の時代の竹簡についての紹介です。権力者ではなく、戦争に駆り出された一般庶民が家族にあてて書いた手紙を紹介しながら、高氏は歴史は一般庶民がつくるものとし、権力者に翻弄される庶民の姿に、今日にも通じるものを読み取っていきます。
 小説は2本。まずは板坂剛の「偏帰行」。全共闘世代のカリスマ的存在として活躍した兄と、いささか普通でない弟の物語。兄は渋谷騒動で警察官を死亡させるなどの過激な活動を続けるが、次第に反革命勢力の根絶のための内ゲバにのめり込んでいく。弟もその片棒を担ぐことになるが、その過程で当時の左翼セクトに対する批判的な見方が、作者によって示されていると読むべきでしょう。兄と50年ぶりに再会するラストのシーンが、ちょっとびくっとするくらい衝撃的です。
 続いて柳沢さうびの「書肆?水と夜光貝の函(1)」。時代は戦後、舞台は?崎市海水浴場に立つ「客舎?水樓」。新制高校も舞台の一つ。いささかエキセントリックな若者たちの青春群像を描かせると、柳沢の筆は冴えわたります。高校生離れした教養の持ち主・澗川理彦(たにがわあやひこ)とこちらも本の虫のような浄水文(きよみずあや)との、文学をめぐっての交流。それが理彦の謎めいた乳母・さくが絡んでどう発展していくのか大きく期待が膨らみます。3回連載の第1回目。

 

以下目次を掲げます。

魚家明子*夏の幻想
魚家明子*ノックする
館路子*霊地たる山に居て風と別れる
鈴木良一*断片的なものの詩学――2 「ロシアから即興の風が吹いてくる5
徳間佳信*諏訪行
霜田文子*「内なる差別」を見つめて――津島佑子『狩りの時代』を読みながら――
海津澄子*身につまされるということ、語られた物語を受け取ること
鎌田陵人*完全に姿を消す方法――レディオヘッド試論――
榎本宗俊*「西行」異論
徳間佳信*「希望」の語り方――張惠?「街頭の小景」から――
坂巻裕三*荷風と二人の淳 Ⅰ 
柴野毅実*青木由弥子『伊東静雄――戦時下の抒情』を読む
福原国郎*三五兵衛駕籠訴――越後国村上領百姓濫訴の事――
高 鵬飛*古墳に埋葬された竹簡と家族への手紙――『雲夢睡虎地秦簡』をめぐり――
板坂 剛*偏帰行
柳沢さうび*書肆?水と夜光貝の函(1)


玄文社の本は地方小出版流通センターを通して、全国の書店から注文できます。

 

 

 

 


北方文学が文藝年鑑に紹介される

2023年08月11日 | 北方文学

日本文藝家協会編集・新潮社発行の『文藝年鑑』に「北方文学」の霜田と柴野の評論が紹介されました。

霜田のは85号掲載のブルーノ・シュルツを論じた「ポ・リン/ここにとどまれ」と、86号の「「描かれた《ビルケナウ》」の向こう――ゲルハルト・リヒター展を観て――」。

柴野のは東京の同人誌「群系」48号掲載の「アルフレート・クビーンの『裏面』をめぐって」と「北方文学」83号に掲載された漱石『明暗』論「夏目漱石『明暗』とヘンリー・ジェイムズ」。

『文藝年鑑』は全国の同人雑誌一覧を掲載するなど、同人誌紹介に力を注いでいますが、内容について紹介されるのは初めてです。

著者の越田秀男さんはずっと「図書新聞」の「同人雑誌評」を担当されている方で、「北方文学」が発行されるたびに紹介していただいてきました。

この度の『文藝年鑑』での紹介は光栄の至りです。以下は越田さんの文章の引用になります。最初の一行から、なぜ霜田と柴野の評論が紹介されたかが理解されます。

 

 

 二〇二二年はロシアのウクライナ侵攻、熱波、旧統一教会問題、円安・物価高騰、 二〇二三年を迎えて寒波。この事態を我が同人誌村の文人達はどのように感受し言葉に表したか。
 
 ウクライナでは人々の多くが国外へ避?する中、生きる場所はここしかないと残る人達も。霜田文子さんの取り上げたブルーノ・シュルツ、短編群のうち「父の最後の逃亡」はその心悄と重なる(「ポ・リン/ここにとどまれ」北方文学85号)―― 〈父〉は幾度も死にながら死なず、完全に死ぬとザリガニに変身、〈母〉に科理されるも、脚一本残して逃亡。シュルツは終生ドロホビチで暮らし、ゲシュタポに射殺された。
 また霜田さんは86号で、六月東京で開かれたゲルハルト・ リヒター展を取り上げた。注目は「ビルケナウ」アウシュヴイッツ=ビルケナウ強制収容所で囚人が隠し撮りしたとされる写真をもとに描いた油彩画四点。四枚の写真を拡人しキャンバスに、それをなんと絵具ですっかり塗り込めてしまった! 霜田さんはその意図を解いていく。

 柴野毅実さんはオーストリアの挿絵画家アルフレー卜・クビーン、彼の唯一の小説「裏面――ある幻想的な物語」(一九〇八)を取り上げ、世界大戦によるヨ?ロッパの崩壊を予見したもの、と評した(アルフレート・クビーンの『裏面』をめぐって」群系48号)―〈私〉は旧友〈パテラ〉が莫大な資産を投入して造った夢の国に招待され、金が無くても生活出来るところ(共産主義の寓喩) が気に入る。そこでパテラに会おうと試みるが、まるでカフカの『城』のごとくに邪魔また邪魔(官僚組織の寓喩)。そして行き着くと悍ましい怪奇の世界が。最後に戦いが始まり、対立するパテラとアメリカ人は巨大化し……。 ここで柴野さんは小説の組み立て方で、G・ガルシア=マルヶス の『百年の孤独』との共通点に気付く。――人工的に設営された閉鎖的共同体体であることや発生から滅亡の過程など。『裏面』は『百年の孤独』の六十年も前の作品。
 柴野さんは夏目漱石『明暗』についても、登場人物を対立させる方法において、ヘンリー・ ジェイムズの作品、特に『金色の盃』との共通点を指摘しており(北方文学83号)、小説を構造面で捉える仕方は特筆に値する。


「北方文学」87号紹介

2023年07月17日 | 北方文学

「北方文学」第87号を発行しましたので、紹介させていただきます。今号より地方小出版流通センター扱いとなり、大手取次を通して全国の主要書店に少部数ではありますが配本されています。同時に紀伊國屋ブックウエブや楽天ブックスなどのネット書店でも検索して購入できるようになりました。どれほど売れるかは分かりませんが、最近発行のたびに「図書新聞」などで紹介され、「季刊文科」でも大きく取り上げられるようになってきましたので、少しでも全国の読者に届くことを願っています。

 巻頭は鈴木良一の〝これでも詩〟という「断片的なものの詩学」です。「新潟県戦後50年詩史」を10年にわたって書き継いできた鈴木が、虚脱状態を乗り越えて新たな境地を見せています。「1987年からの私の私的な行動を跡付けるチラシ=チラ詩」ということで、エッセイのようでもあり、戦後詩史の補填でもあり、また新たな自身の詩作への挑戦でもありといった、破天荒な形式と内容の作品となっています。
 二人目は館路子の「カンブリア紀の残滓に契合する、今」。いつもの長詩ですが、今回は死に瀕した妹さんへの思いを綴った内容で、いつもより現実との通路がはっきりした作品です。胎児期に肺の中に生成する器官があり、それは七歳までに消えるはずなのに、千人に一人の割合で残留して、体に悪影響を与えるのだそうです。カンブリア紀の動物に由来するものだそうで、それ故に「カンブリア紀の残滓」というタイトルになっています。
 続いて大橋土百の俳句「風のなか」。いつものように一年間の思索ノートからの俳句選です。作風は様々ですが、諧謔に満ちた句もあり、シリアスな句、時代と切り結ぶ句もあって、読みごたえがあります。

 批評はまず、霜田文子の「「きみ(du)」という天使――多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』を読む――」です。多和田葉子がドイツ語で書いた小説を、ツェラン研究の関口裕昭が翻訳したもので、霜田は多和田の作品をカフカやベンヤミンに引き寄せて読んでいきます。〝天使〟とはツェランが詩で書いた「歪められた天使」であり、ベンヤミンが買い求めたクレーの「新しい天使」であり、「歴史の概念について」で語っている「歴史の天使」でもあるという。霜田の批評は、多和田の小説についての論であると同時に、ツェラン論であり、ベンヤミン論であり、カフカ論でもあります。
 次は柴野毅実の「『テラ・ノストラ』のゴシック的解読――カルロス・フエンテスの大長編を読む(中)――」です。今号で終わる予定だったのですが、諸般の事情で終結は次号に持ち越しとなりました。今号のテーマは『テラ・ノストラ』における「間テクスト性とテクストの快楽」であり、マチューリンの創造したメルモス像の系譜に関わる文学史的探究でもあります。メルモス像の系譜についてはあまり書かれていないと思われますので、重要な探究になっていると思います。特にボードレールの『悪の華』に関わる部分に注目。

「萃点に向かって――GEZAN with Million Wish Collective『あのち』――」は、このところサブカルチャーを論じることの多い鎌田陵人によるもの。日本のロックバンド(あるいはパンクロックバンド)GEZANの新譜「あのち」についての批評です。ロックについての批評を書けるのは鎌田の特徴で、今回の論はGEZANだけでなく、コロナ後のロックシーンについての広範な議論を含んでいます。ロックの頂点はもちろん1960~1970年代で、1990年代にオルタナティブロックでもう一つの頂点を迎え、コロナ後の現在新たな頂点を迎えつつあるというのが鎌田の議論であります。検証してみる価値があります。
 榎本宗俊の「良寛の療養」が続きます。我々の迷妄はあれこれと「思慮」することに原因があり、「思慮」することをやめて「あるがまま」に生きることが重要、という議論に尽きています。

 研究では、坂巻裕三の永井荷風研究「麻布市兵衛丁「偏奇館」界隈、空間と時間(Ⅱ)
――『断腸亭日乗』東京大空襲の記述が完成するまで――」が力作です。『断腸亭日乗』の白眉ともいうべき、昭和20年3月10日の項、つまりは東京大空襲の部分が、いかにして成立したかを、荷風が毎日持ち歩いていた手帖の手書き草稿と、それを浄書した『罹災日録』、そして『断腸亭日乗』の記述とを比較する中で、明らかにしています。また、坂巻の発見による、当時二十歳そこそこで皇居で女官をしていた田中良久子の日記にある東京大空襲の記録と、荷風の『断腸亭日乗』の記述との比較が目玉になっています。
 続く福原国郎の「苦学」は、苦学のように地味な学校史に関わる研究余禄といったところ。大正期旧制小千谷中学に入学した岩夫少年の、自炊しながらの下宿生活、修学旅行時のお金の苦労などが紹介されている。現在とは比較にならない苦労が当時の中学生にはあったことが窺われる。

 小説は2本。まず柳沢さうびの「夜のつづき」。この作品は先号の「瑠璃と琥珀」(「季刊文科」の同人雑誌評で大きく取り上げられました)、先々号の「えいえんのひる」との連作になっていて、完結編です。登場人物の枠組みはそのままに、今回は北欧女性と日本人画家とのハーフの女性の視点で書かれています。謎はある程度解明されていくのですが、最後に「死ぬまでの秘密」として残される肖像画に託された秘密が、大きな余韻を残します。それにしても文章が完璧です。
 最後は魚家明子の「雨とドア」、60頁の大作です。対人関係に違和感を持つ少女の成長過程を描いているという意味では、魚家なりのビルドゥングス・ロマンと言えるでしょう。タイトルの〝雨〟も〝ドア〟も引きこもりをイメージさせます。雨の日は家に籠るのだし、ドアは家の内部空間を開くというよりは、閉じ込める機能を持っています。少女の閉鎖的な感性を魚家は瑞々しい筆致で描いています。

以下目次を掲げます。
鈴木良一*断片的なものの詩学
館路子*カンブリア紀の残滓に契合する、今
大橋土百*風のなか
霜田文子*「きみ(du)」という天使――多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』を読む――
柴野毅実*『テラ・ノストラ』のゴシック的解読――カルロス・フエンテスの大長編を読む(中)――
鎌田陵人*萃点に向かって――GEZAN with Million Wish Collective『あのち』
榎本宗俊*良寛の療養
福原国郎*苦学
坂巻裕三*麻布市兵衛丁「偏奇館」界隈、空間と時間(Ⅱ)――『断腸亭日乗』東京大空襲の記述が完成するまで――
柳沢さうび*夜のつづき
魚家明子*雨とドア


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