玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」第76号発刊

2017年12月30日 | 玄文社

 

「北方文学」76号が発行になりましたので、ご紹介します。今号は先号が338頁の超大冊になり、次は書き手も量も減るはずと思っていたのですが、あに図らんや今号も先号に迫る330頁となりました。内容も先号に勝るとも劣らぬものとなり、同人雑誌としてはその充実を誇っていいのではないかと思っています。
 巻頭を飾っているのは先号に引き続いて、館路子の詩「地に這うものへの謝辞を込め」です。このところ動物をモチーフにした作品が続いていますが、今回は地に這うカナヘビやヘビ、オオクロアリが登場します。地に這う者たちを隠喩として言葉に回収しようとする試みと言えます。ところで蜥蜴は鳴くのでしょうか?
 俳句が二人。大橋土百は「薔薇の精」。ニジンスキーの句もあります。「終焉は破局破滅か冬薔薇」のような観念的で重い作品から、「温といなぁふふふふふふふ猫の夢」のようなおどけた作品まで、自由自在であります。米山敏保は「沢の螢」。螢にモチーフを絞った22句。
評論が続きます。トップは徳間佳信の「閻連科との公開対話会「『愉楽』(《受活》)はどう読まれたか」」。2016年9月に「日本中国当代文学研究会」が主催した、中国人作家、閻連科との公開対話会の記録である。徳間は研究会の一員として鼎談に加わった。日本でも翻訳されている閻連科の『愉楽』をテーマに中国文学の現状と可能性を追究しています。
 2年ぶりに霜田文子は「立原道造の〝内在化された「廃墟」〟をめぐって(二)」で、連載を再開しています。日本で初めて建築論に〝廃墟〟という言葉を導入した立原の議論を追究。今回のキーワードは〈建築体験〉。精神的体験としての建築の問題を言語芸術との関連から考察しています。
 鎌田陵人の「サピエンス・モノ・コトバ」は、昨年ベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』に触発されて書かれたもの。結局は人間の問題は言語の問題に収斂されていくということを言っています。言語によってのみ可能な〝否定命題〟が中心的なテーマ。
 柴野毅実の「ロベルト・ボラーニョと恐怖の旅」は、2003年に50歳の若さで亡くなったチリ生まれの作家、ロベルト・ボラーニョの最後の作品『2666』についての批評。エピグラフとして掲げられた、ボードレールの「旅」の一節「倦怠の砂漠のなかの 恐怖のオアシス」を手がかりに超大作を読み込んでいます。
 今号の寄稿は山内あゆ子訳、スティーヴン・マクドナルド作の戯曲「ノット・アバウト・ヒーローズ」の第一幕。第一次世界大戦時のイギリスを代表する戦争詩人、シーグフリード・サスーンとウィルフレッド・オーウェンの詩を通した友情を描いた作品。二人の日記や書簡をもとに、二人の友情を克明に描きます。本邦初訳。
 先日、玄文社からハーリー・グランヴィル=バーカーの訳述書『シェイクスピア・優秀な劇作家から偉大な劇作家へ』を上梓した、大井邦雄の次の対象は『マクベス』。グランヴィル=バーカーの「役者のためのシェイクスピア」シリーズの一冊「『マクベス』序説」の訳述です。
鈴木良一が書き継いでいる「新潟県戦後詩史」も、先号から現在も活躍中の詩人たちが登場してきて、俄然興味深さを増しています。今号は1966年から1970年までの後半。
 今年7月に私が刊行した『言語と境界』について、徳間佳信が詳細な解説と批評を書いてくれた。題して「言語――「精神」のありか」。『言語と境界』は決して読みやすい本ではないが、その言わんとするところを余すところなく、徳間は紹介し、論じています。この文章があれば私の『言語と境界』はなくてもいいほどです。
 福原国郎の「文平、隠居(下)」は古文書から読み解く地方史であり、人物伝でもあります。古文書の読み込みに関しては他の追随を許さない福原の独壇場。江戸末期の農村経済が手に取るように分かります。
 このところ凄い小説を連発している新村苑子の「花束」は、テーマを老人介護と思わせておいて、実は団塊の世代の夫婦のあり方にテーマをおいている。小品ではあるが、主人公の人物像がくっきりと浮かび上がってくる佳品です。
 魚家明子の「眠りの森の子供たち(三)」がラストです。連載三回目でいよいよ小説は佳境に入っていきます。かんたの母親の書いた長い文章がこの小説の中のもう一つの物語となって、これ以降のスト-リーを先導していく予感を感じさせます。魅力的な人物が沢山登場してきます。

目次を以下に掲げます。
館 路子*地に這うものへ謝辞を込め/大橋土百*薔薇の精/米山敏保*沢の螢/徳間佳信*閻連科との公開対話会 『愉楽』(《受活》)はどう読まれたか/霜田文子*立原道造の〝内在化された「廃墟」〟をめぐって(二)/鎌田陵人*サピエンス・モノ・コトバ/柴野毅実*ロベルト・ボラーニョと恐怖の旅--大長編『2666』について--/榎本宗俊*歌について/スティーブン・マクドナルド 山内あゆ子訳*ノット・アバウト・ヒ-ローズ --シーグフリード・サスーンとウィルフレッド・オーウェンの友情--/ハーリー・グランヴィル=バーカー 大井邦雄訳述*『マクベス』序説(1)/鈴木良一*新潟県戦後詩史 隣人としての詩人たち〈10〉/徳間佳信*言語--「精神」のありか 柴野毅実『言語と境界』のために/福原国郎*文平、隠居(下)/新村苑子*花束/魚家明子*眠りの森の子供たち(三)

お問い合わせはgenbun@tulip.ocn.ne.jpまで。

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オテロ・シルバ『自由の王』(4)

2017年12月25日 | ラテン・アメリカ文学

 映画「アギーレ/神の怒り」では、最後に筏の上にたった一人で取り残されたローペ・デ・アギーレは、そこで最期を迎えることになるが、小説『自由の王』では隊が全滅することはなく、その先も行軍は続く。
 その経路はよく分からないが、マラニョン川を下ってアマゾンの本流に入ったのではなく、陸路を進んでベネズエラに達したものと思われる。その後ベネズエラの北の海に浮かぶマルガリータ島を占拠している。
 マルガリータ島では40日間の占拠の間に、25人を処刑したとされていて、その一人ひとりの処刑に至る経緯と、それに対するアギーレの弁明がオテロ・シルバによって書かれている。
 国王派のみならず味方も含めて、ほんの些細な不服従の徴候も見逃すことなく、無慈悲な処刑は続けられる。小説ではこの部分に最も大きな力点が置かれているように思う。オテロ・シルバはこの25人の処刑について容赦することはない。
 しかし作者は一方で、ローペ・デ・アギーレを南米独立運動の先駆者として評価している面もある。アギーレはスペイン国王の収奪に対して反旗を翻したのであって、国王派のスペイン人はたくさん殺しているが、ペドロ・デ・ウルスーアのように先住民を虐殺するようなことはしていないのである。
 反乱軍や革命軍が追いつめられる過程で、そのリーダーの疑心暗鬼によって粛清が繰り返されていくということは、歴史上何度もあったことである。日本赤軍による粛清はその典型的な例である。またスターリニズムによる大粛清も革命に名を借りた、権力維持のための殺戮であった。オテロ・シルバはそこをよく捉えて書いていると思う。
 ラテンアメリカ文学では1970年代に、独裁者小説というものがよく書かれ、我々はアレホ・カルペンティエールの『方法再説』(1974)、アウグスト・ロア=バストスの『至高の存在たる余』(1974)、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』(1975)という、ラテンアメリカ三大独裁者小説をもつことになった(『至高の存在たる余』だけ邦訳がない)。オテロ・シルバの『自由の王』(1979)も独裁者小説に含めてもいいだろう。
 ガルシア=マルケスの『族長の秋』に見られる、独裁者の途方もない孤絶感には遠く及ばないが、ローペ・デ・アギーレはラテンアメリカ世界が数多く輩出してきた、独裁者の源流に位置するのだと言うことができるだろう。

 最期にヴェルナー・ヘルツォークの映画の方に戻りたい。「アギーレ/神の怒り」は、フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」に影響を与えたとされていて、その痕跡がないかと眼を凝らして観てみると、確かにいくつかあるのだ。
「地獄の黙示録」はヴェトナム戦争を描いた映画で、ウィラード大尉が、カンボジアのジャングルに王国を築いたというカーツ大佐の行方を突きとめ、処刑する任務で、川を遡っていくストーリーである。一方「アギーレ/神の怒り」はエルドラードを求めて川を下っていく物語であって、方向は逆だが観ている方は同じようなシチュエーションに、同じようなエピソードを見てとることができる。
 第一に川岸が先住民の支配する恐怖の領域であるという点で、共通している。アギーレの隊は一度だけ上陸するのだが、そこに人食い人種の痕跡を見てあわてて逃げ出し、二度と上陸することはない。ウィラードと乗組員たちも一度も岸に上陸することはない(特別完全版では事情が少し違うが)。
 川岸から矢が飛んでくる。「地獄の黙示録」では黒人の乗組員が矢によって殺されるときに、「矢だ!」と叫ぶが、「アギーレ/神の怒り」でも同じような場面で、隊員は「長い矢を使っている!」と言ってこときれる。
 もうひとつ「アギーレ/神の怒り」で、大木の上に舟とそこにぶら下がったボートが出てくる場面があるが、それが「地獄の黙示録」での墜落したヘリコプターが川岸に放置されている場面に反響しているのは間違いないと思う。
(この項おわり)

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オテロ・シルバ『自由の王』(3)

2017年12月24日 | ラテン・アメリカ文学

 オテロ・シルバの小説『自由の王』と、ヴェルナー・ヘルツォークの映画「アギーレ/神の怒り」との間には、まだまだ多くの違いがある。それは『自由の王』が史実に忠実な歴史小説として書かれ、「アギーレ/神の怒り」がたかだか1時間半程度の映画で、そこに物語を凝縮せざるを得ないということに起因するだけではない。二人の作者の間には根本的な認識の違いがあるように思う。
 ローペ・デ・アギーレは暴君である。むやみやたらと同胞を殺す。その典型がペドロ・デ・ウルスーア殺しである。『自由の王』によればアギーレの目的はエルドラードを発見することなどではなく、「あらゆる地図に描かれているペルーと呼ばれる驚嘆すべき国を征服し、われわれのものにすること」である。
 そのために邪魔になる人物のリストをアギーレは作成し、着実に殺害を実行していく。『自由の王』でアギーレは自分の味方との謀議の上で、ウルスーアを暗殺するのだが、「アギーレ/神の怒り」で彼は、本体への復帰を主張するウルスーアを、発作的に銃で撃つ。
 ウルスーアはそこでは死なずに、裁判によって裁かれて絞首刑にされる。この違いの理由はどこにあるのか。『自由の王』でのアギーレの殺人行為はすべて謀殺である。一方「アギーレ/神の怒り」では、アギーレの発作的な怒りによる殺害の形を取る。
 とにかくウルスーア殺しが転換点となって、アギーレはスペインの国王フェリペ二世に対して公然と反旗を翻すことになる。その後は自分に従わぬ者たち、あるいは将来的に敵に廻ると思われる者たちを次々に殺していくのが、『自由の王』の物語である。
 その中にはスペインからの独立を一方的に宣言して擁立した、新たな国王フェルナンド・デ・グスマン殺害も含まれる。『自由の王』ではグスマンのスペインへの寝返りの徴候を察知して、アギーレによって殺される。ところが「アギーレ/神の怒り」では、グスマンはアギーレによって殺されるのではない。そこもまったく違っている。
 隊は筏でマラニョン川を下っていくが、先住民に対する警戒から接岸して食料を調達することができない。次第に飢えが兵士達を襲っていく。兵士達がトウモロコシの粒を数えて分配するところまで追いつめられているのに、グスマン王はたらふく食い続ける。グスマンはそのことへの怒りを買って兵士たちによって殺されるのだ。
 まだ違いはある。『自由の王』では謀殺に次ぐ謀殺、さらには隊員たちの寝返りによって、アギーレの周りにはほとんど味方がいなっていくのだが、「アギーレ/神の怒り」にあっては、先住民の放つ毒矢によって隊員たちは次々と殺されていくのだ。必ずしもアギーレの神の怒りの行使によって殺されるのではない。
『自由の王』はアギーレによる謀殺を、権力維持のための粛清として描いていて、そこでは度を過ぎた権力意志が結果的には孤立や孤独を生んでしまうという逆説が顕わになる。一方「アギーレ/神の怒り」ではそのあたりが明確ではない。
 アギーレのウルスーアに対する温情も、グスマン殺しをアギーレによるものとしない作りも、アギーレの凶暴さを減殺する。そこにはヘルツォーク監督のアギーレという人物に対する寛容の気持ちがあるのではないか。
 また娘エルビーラの死に方も小説と映画ではまったく違った描かれ方をする。映画ではエルビーラは先住民の放った矢によって殺されるのだが、小説では鎮圧軍に追いつめられたアギーレが、敵の兵士に犯されることのないように、自らエルビーラを殺すのである。もともとアギーレが娘を行軍に同行させていたのは、告解師の毒牙から娘を守るためであった。
 エルビーラの殺され方に関しては、言うまでもなく小説の方に軍配が上がる。アギーレの性的潔癖は、娘が強姦されることに耐えられるはずがないのだから、エルビーラは父アギーレによって殺されるのでなければならない。
「アギーレ/神の怒り」には先住民は登場しても、鎮圧軍は登場しない。映画がアギーレの隊による川下りの場面に限定されていて、そこにあらゆるテーマを凝集させなければならないために、やむを得ない面もある。
 しかし映画のラストで、筏の上にアギーレただ一人が生き残り、猿たちに嘲笑されるという場面は、無謀な川下りで先住民に殺されて独りぼっちになった、というよりはやはり、アギーレの権力意志が最後に彼の孤独に至るという構成によってこそ生きたのではないか。

 

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オテロ・シルバ『自由の王』(2)

2017年12月23日 | ラテン・アメリカ文学

 カスパー・ハウザーの謎」のことはいいだろう。この映画は19世紀にドイツの田舎に現れた、16歳になるまでずっと牢獄に捉えられていたという男が、出現してから殺されるまでを淡々と描いた映画で、あまりヘルツォークらしくない作品だと思う。それほど印象に残る映画ではない。
 やはりヘルツォーク監督作品といえば、第一に「アギーレ/神の怒り」を挙げなければならないだろう。以下この映画について、史実に忠実といわれるオテロ・シルバの『自由の王』を参照しながら書いてみたい。
 この映画を観るものはオープニングから度肝を抜かれる。峻険な山岳地帯の険しい山道を下りてくる隊列の映像から映画は始まる。山道はほとんど垂直に映し出されて、隊列はその垂直な道を下りてくる。その間ナレーションもなく、ときに懸崖を転がり落ちる荷物の映像が挿入されて、いかにその道が険しく危険か、そしていかに行軍が厳しいものであるかを、無言のうちに示すのだ。
 人一人通るのがやっとの道を、縦一列になって隊列は下りてくる。カメラが水平の眺望からクローズアップに移ると、そこにはインディオ達や、ラマの群れ、分解された大砲の筒や車輪を運ぶ兵士の姿、そして女性を乗せた輿などが映し出されていく。
 ゴンサーロ・ピサロ(インカ帝国の征服者)率いる遠征隊が、エルドラードを求めてアンデス山脈を越え、アマゾン川の支流マラニョン川に下りてくる所を映像は描いている。
 この行軍がいかに苛酷なものであったかを、映像は余すところなく描き出し、そしてこれからの展開もまた不吉なものになるだろうことを予兆する表現となっている。このようなオープニングを、私はどんな映画においても見たことがない。映画史上に残る偉大なオープニングと言えるだろう。
 隊列が下りきったところで、ゴンサーロ・ピサロの演説が始まる。食糧も尽き、消耗も激しいので、本隊はここに止まり先遣隊40人を先に出して、探りを入れようというのである。先遣隊の隊長にはペドロ・デ・ウルスーアが、副官にはローペ・デ・アギーレが任命される。
 ピサロは、ウルスーアに愛人のイネス・デ・アティエンサが、アギーレには娘のエルビーラが付き添うことに懸念を示すが、本当なら女性をめぐっての兵士達の争いに至る伏線としなければならないところだが、ヘルツォーク監督はそのような場面を導入しない。
 オテロ・シルバの小説にも、女性が兵士達の諍いのもとになるというような場面は描かれない。『自由の王』でアギーレは人間の中で娼婦というものを最も嫌う、女性に対して潔癖であった男として描かれているが、ヘルツォークの映画でも、そのような人物像が生きているのかも知れない。
『自由の王』でのイネスは、インディオとの混血で多情で淫乱な絶世の美女として登場し、ウルスーアを骨抜きにする女として描かれているが、この女性の扱いがヘルツォークの映画ではまったく違っている。
 映画でのイネスは混血でもなければ、淫乱でもなく、ひたすらウルスーアに尽くす貞淑な女性として描かれている。演じるヘレナ・ロホもとても肉感的とは言えず、むしろ知的な風貌を湛えていて上品な雰囲気を崩さない。
 アギーレが女性に対して潔癖であった以上に、実はヘルツォーク監督自身がそうなのであって、この映画に性的な要素を持ち込みたくなかったのではないかという気がしてくる。この映画ではさまざまな暴力が描かれるが、女性に対する暴力だけは描かれないのである。
 またウルスーアという人物は、映画では沈着冷静で、知的な男として描かれているが、『自由の王』では、これもまたまったく違っている。オテロ・シルバはウルスーアをインディオ達を平気で騙し、大量に虐殺して動じない、血も涙もない人物であり、今はイネスにたらし込まれているふぬけの男として描いている。
 監督は史実とは敢えて変えて、ウルスーアをアギーレとは対照的な人物とすることで、アギーレの狂気を際立たせたかったのだと思われる。映画でウルスーアはアギーレの狂気に対して、正気と良識の象徴となっている。

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オテロ・シルバ『自由の王』(1)

2017年12月22日 | ラテン・アメリカ文学

「北方文学」同人の鎌田陵人から、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の「アギーレ/神の怒り」のDVDが送られてきたので、さっそく観た。鎌田によればこの映画はジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』の影響を強く受けた作品で、『闇の奥』を原作にしたフランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」に先行する映画なのである。「アギーレ/神の怒り」は1972年、「地獄の黙示録」は1979年。
「アギーレ/神の怒り」の主人公は、クラウス・キンスキー演じるローペ・デ・アギーレという実在の人物で、この作品は16世紀のスペインによる南アメリカ征服の時代を背景としている。
 ベネズエラの作家オテロ・シルバの『自由の王――ローペ・デ・アギーレ』はかなり史実に忠実に書かれた小説で、私は映画「アギーレ/神の怒り」の参考としてこの作品を読んだのであった。
 まずは映画の方から。ヘルツォークの「アギーレ/神の怒り」は鎌田から教えられて以来、いつか観たいと思っていたが、レンタルショップにも置いてないし、もともと映画をよく観る方でもないので、いつしか探求を諦めていた。
 ある時レンタルショップで、ヘルツォークの「小人の饗宴」という作品を見つけ、借りて観てみることにした。1970年のモノクロ映画である。登場人物は小人ばかり。本物の小人を役者として使っていて、普通の人間は出てこない。だからこの映画は障害者としての小人と、健常者との確執を描いた作品などではない。
 そうではなく、人間の社会を小人の社会として描いたもので、そこには階級闘争もあれば、ねたみや抑圧も、驕りや差別すらも、人間のあらゆる悪徳が小人を通して描かれている。まさに〝悪徳の饗宴〟とでも言いたくなる作品なのである。
 この映画を観るものは、障害者としての小人に対する憐憫や、共感など微塵もおぼえることはないであろう。そこに己自身の似姿を見るだけである。彼らの悪徳が我々自身の悪徳を全て反映しているからである。
 グロテスクな映画である。小人達がグロテスクというのではない。むしろ監督の意図が極めてグロテスクなもので、それに対して観る我々の反応もグロテスクなものであらざるを得ないということを、自覚せざるを得ないというグロテスクな構造を認めないではいられないという意味において。
 いくつかの場面が鮮烈に印象に残る映画である。とりわけ小人達が乗り回した末に、放棄された自動車が、いつまでもいつまでも円軌道を描いて無人で走る場面が強烈である。この監督は狂っているとしか思えなかった。
「小人の饗宴」はヘルツォーク監督の作品に、私の眼を向けさせるに十分な作品であり、ほかの作品を観てみたいという欲求は高まっていった。「アギーレ/神の怒り」を本当は観たいのだが、レンタルショップにない。しかし私はヘルツォーク監督の「フィッツカラルド」と「カスパー・ハウザーの謎」という作品のDVDを見つけて、続けて観ることができた。
「フィッツカラルド」はクラウス・キンスキー演じるオペラが大好きなフィッツカラルドが、南米のジャングルにオペラハウスを立てるという夢を実現させるというストーリーの作品である。キンスキーという俳優はどこかで見ていると思うが、一度見たら忘れられなくなる役者で、「フィッツカラルド」でも背が低く悪声であるにも拘わらず圧倒的な存在感を示す。
 ゴム林を開発し、運搬の水路を確保するため、アマゾンの源流で大きな蒸気船を、近接する支流に移動するために山越えをする場面が有名で、実際にそれをやったというのだから監督の異常さが知れるのである。ラストは航路を開き、ゴムの運搬を可能にして大金を儲けたフィッツカラルドが、ヨーロッパから呼び寄せた演奏家達の船上でのコンサートを実現させるというもので、なかなかうるわしい結末となっている映画で、それなりに面白かった。

オテロ・シルバ『自由の王――ローペ・デ・アギーレ』(1983,集英社「ラテンアメリカの文学」)牛島信明訳

 

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ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(10)

2017年12月21日 | 読書ノート

 疵の入った金色の盃の象徴するものとは何か。それがマギーとアメリーゴの偽りの夫婦関係であるとか、シャーロットとアダムのそれであるとか言うことはたやすい。最初から疵の入った夫婦関係だったのであり、マギーが自分で発見した金色の盃にそのことを読み取るのだということもたやすい。
 しかし、本当にそうなのか? この節が示しているのはそういうことではないのではないか。マギーはアメリーゴが自分と結婚する前からシャーロットと親しい関係にあり、現在もそうした関係を続けていると主張する。つまり、アメリーゴの真実に対して疑いをもっている。そのことはシャーロットについてもまったく同じである。
 しかしアシンガム夫人は、マギーの考え方を否定する。マギーの言うような事があったかも知れないことを認めながらも、夫人はマギーに対して「二人ともじつに立派な気持で結婚したのです――この点は信じてくださらなくてはいけません」と言う。
 つまりアシンガム夫人は、少なくともアメリーゴの真実を疑ってはいない。二人の対立点はそこにあって、次のように言うとき夫人は、アメリーゴもシャーロットも、お互いの配偶者を裏切るようなことはみじんも考えていなかったということを、アメリーゴの真実を通して主張するのである。

「それに、公爵も彼女を信じていたのです。本気で信じていたのです。自分自身を信じていたのと同じように」

〝彼女〟とは言うまでもなくシャーロットのことである。アメリーゴはシャーロットとの過去を清算し、〝立派な気持で〟マギーと結婚した。シャーロットもまたアメリーゴとの過去を清算し、〝立派な気持で〟アダムと結婚したのだと、アシンガム夫人は言う。そのようにできるということを、アメリーゴは自分でも信じていたし、シャーロットのことも信じていた。
 ここでアシンガム夫人は誤魔化そうとしているのではない。彼女は彼女が固く信じていることを話しているにすぎない。夫人にとってマギーの非難は的はずれだと言いたいのである。
 二人の対決の中には、マギーと父アダムの親密すぎる関係についての言及も出てきて、多分たった一度限りのアメリーゴとシャーロットの不倫(第1部第3章第9節で描かれている)の大きな要因となったものが、そのことに他ならないということも仄めかされている。
 非はアメリーゴではなくマギーにこそある、とアシンガム夫人は考えているのである。そしてマギーの認識に重大な誤りがあることも夫人は知っている。だからアシンガム夫人は次のような言葉でマギーを難詰するのである。

「ひびがはいっている? ということは、あなたのお考え全体にひびが入っているということです」

 ここでは金色の杯の疵が、マギーの認識の誤りに譬えられている。だとすれば、疵の入った金色の盃の象徴するものは、マギー自身だということになる。うわべを繕ってはいても内実がひびだらけであるのは、マギーとアメリーゴの夫婦関係でもなければ、シャーロットとアダムのそれでもない。
 だからアシンガム夫人が金色の盃を破壊するのは、証拠隠滅のためなどでは決してない。むしろマギーの疵だらけの認識を正し、真実に目覚めさせるためだと言ってもよい。
 以上のような読みはアメリカの批評家達ではなく、訳者の青木次生の考えに近いものであるだろう。しかし、ここで方向は逆だといっても、私の議論は道徳論的にすぎている。
 本当は戦闘報告書としての心理小説のあり方についいて書きたかったのだが、それはジェイムズの小説の影響のもとに書かれたといわれる、夏目漱石の『明暗』と比較を行うときのテーマとしようと思う。
(この項おわり)

 

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ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(9)

2017年12月20日 | 読書ノート

 第2部公爵夫人の第4章第9節は、この小説の中で最も大きな山場をなしている。ここにタイトルの由来となっている〝金色の盃〟が、再び登場すると同時に、永久に失われてしまう。
 この金色の盃はアメリーゴがマギーと結婚する直前に、シャーロットに誘われて行った古道具屋で見つけ、店主の「疵が入っている」との言葉に買い求めることをしなかった品物であった。それを偶然マギーは一人で発見し、店主からアメリーゴとシャーロットがその盃を物色していたことを知らされ、二人の関係について初めて知ることになる。
それを知ったマギーは、証拠の品である金色の盃を見せ、何があったのかを知らせ、説明を求めるために、ファニー・アシンガム夫人を電報で呼び寄せる。そこから二人の鬼気迫る対決が始まるのだ。
 対決が始まる前に次のような文章が周到に用意されている。

「いずれにせよマギーは戦闘の陣立てを整えていた。冷静な判断に基づいて、すでに彼女は計画を――差し当たっては「どのような変化」も示さない、許さない、という計画を――立てており、その計画に従って、いつもの通り晩餐会に出掛ける積り、しかも赤く泣き腫らした眼や、引きつった表情や、取り乱した様子など、少しでも疑問を起こさせるところは人に見せない積りなのだ。」

 つまりマギーは、アメリーゴとシャーロットの両人と旧知の間柄であったアシンガム夫人から、決定的な事実を聞き出そうと、戦闘態勢を整えて待ちかまえているのである。そして何を聞かされようが、冷静に対処して、人前で動揺を示すようなことがあってはならないと、心に決めているというわけだ。
 この対決でどちらが勝ったかといえば、最後に金色の盃をたたき割るアシンガム夫人であるのは明白であり、そして二人の会話の中でどちらの言っていることが真実に近いかについても、アシンガム夫人に軍配が上がるのもまた明白である。
 しかしながら、アメリカの批評家達は不倫の当事者であるアメリーゴとシャーロットを擁護するアシンガム夫人を指弾するであろうし、マギーの道徳的純粋性を称讃するのだろう。いったいいつになったら小説をこんな風に読むことから解放されるのだろうか。
 そのことについて結論を出す前に、ヘンリー・ジェイムズが1対1の対決を〝戦闘〟として捉え、二人の会話を戦闘報告として書いているのだということをまず言っておかなければならない。
 マギーとアシンガム夫人のこの対決の場面は、他にもまして緊張感に溢れていて〝言葉による心理的戦闘〟を描いていると言っても過言ではない。数ある作品の中でもこの場面こそ、ヘンリー・ジェイムズの心理小説の最高の到達点と言ってもよい。
 会話は金色の盃をめぐって展開していく。マギーはそれがアメリーゴが以前からシャーロットを知っていて、親密な関係であったことの証拠だと言うが、その根拠を示さない。それが示されない限り、アシンガム夫人は金色の盃が何を意味しているのか知り得ない。
 マギーはアシンガム夫人を攻め立て、決定的な事実を聞き出そうとするが、アシンガム夫人は固い防御の姿勢を崩さない。マギーは「説明して事実を明らかにすること」をアシンガム夫人に求めるが、夫人は「説明して誤魔化してしまう」という立場を堅持しようとする。
 マギーはアシンガム夫人の言葉尻を捉えて、次々と攻め立てるが、アシンガム夫人はマギーが知ったことなど取るに足りないことだと知るや、攻勢に転じていく。マギーはなぜか最終兵器を行使できないでいるのだが、それはマギーが十分に真実を捉えていないからである。
 そのことをアシンガム夫人が見てとると、彼女はその品物がどのような証拠を示しているのかを知る必要性さえ振り捨てて、決然として金色の盃を床に投げつけて破壊してしまう。壊したところでそれが証拠としての性質を失うわけではないが、それは決定的に象徴性を失ってしまうのである。

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ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(8)

2017年12月14日 | 読書ノート

 先に引用した文章に続くのはさらに驚くべき文章で、それが第2節の締めくくりとなっている。

「マギーが戸口に立ってまだ何も言わないでいる間に、彼自身もまたその事実に気づいた。そればかりか彼は、彼女が見たものを自分も見たという気持と同時に、彼女の見たものを自分も見たということを彼女が見たという気持を抱いた。次の瞬間ファニー・アシンガムの表情の中にさらに多くのものを見てとらなければ、この最後の印象が彼にとって最も集中的な認識だった、と付け加えて言ってもよいであろう。彼女の表情は彼の目から隠しておくことができなかった――彼女は全てを見てとったばかりか、その上、父娘が互いに見てとったことまで目敏く見てとってしまったのだった。」

このような文章は心理小説においてでなければ、あり得ない文章である。つまり了解の形は一人の人物が了解に至ったということに止まらず、一人の人物がもう一人の人物の了解事項を了解するという形式をとる。あるいはファニー・アシンガムにいたっては、二人の人物のお互いの了解事項について了解するのである。
 しかもこの了解は会話によって惹起されるものですらない。アダムはマギーの表情だけから全てを了解するのであり、さらにファニーの表情だけから了解に至るのである。心理的対決の場にあっては会話すら必要とされない。表情だけで十分なのだ。言葉は嘘をつくが、表情は嘘をつかないからである。
 このような了解性をわたしは〝過剰な了解〟と呼びたいと思う。ここには何か正常でないものが含まれている。登場人物が正常でないのではない。作者ヘンリー・ジェイムズに何か正常でない部分があるのではないか。
 精神分裂病の症状の一つに関係妄想というものがある。この妄想は自分以外の外界が自分に深く関係していると、根拠もなく思い込む妄想で、自分の周りの人間が結託して自分を攻撃しているというような被害妄想を生むこともある。そうではなく、彼らがお互いに自分とどういう関係にあるのか、あるいは彼らが自分について何を考えているのか、ということへの止みがたい探求への欲望につながることもある。そしてある人物のひと言、あるいはその人物の表情を解読することによって、その探求の迷路が一挙に解消されるかのように認識されることがある。
 ヘンリー・ジェイムズの過剰な了解性は、関係妄想が一挙に晴れわたる時のような異常性を帯びていると言わざるを得ない。『聖なる泉』のような実験的な作品では、そうした異常性が露骨に出ていて、主人公の〝私〟の過剰な分析と了解は、ブリセンデン夫人の「あなたは本当に気違いだわ」のひと言で粉砕されてしまうことになる。
 過剰な了解性は過剰な分析から生まれてくるのに違いない。過剰な分析は『金色の盃』でも特徴的であって、そこに息が詰まるような緊張感が生まれてくる。この緊張感こそが心理小説の生命線となるのだが、時にカタストロフがないと本気で息が詰まってしまう。
 だから『金色の盃』には何カ所かカタストロフとなる場面が仕掛けられているのであって、それが〝了解の瞬間〟として仕掛けられているのが、今私が取り上げている場面なのである。
 その了解性は分析が過剰であればあるほど過剰なものとなる。だから異常性は分析と分析の結果としての了解性のどちらにも認められることになる。たとえばファニー・アシンガムの分析癖と、その分析を夫に開陳しないではいられない熱情は尋常なものではない。
 ヘンリー・ジェイムズは自らの異常性を、ファニー・アシンガムに肩代わりさせているのだとも言える。そしてもう一つのカタストロフは、彼女の分析によってではなく、彼女の行動によってもたらされるだろう。『金色の盃』の中で最も象徴性を発揮する場面にファニーは立ち会い、行動によってカタストロフを演じることになる。

 

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ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(7)

2017年12月12日 | 読書ノート

 心理小説に特有の〝了解の瞬間〟というものを描く場面が『金色の盃』には何回かある。そこでは一旦分析の迷路が解消されるかのような印象が与えられるが、読者はそこに心理小説にとって重要な転換点を読み取らなければならない。
 第1部第2章第2節と第3節は、1対1の対決もなければ会話もなく、ほとんど作者による登場人物に対する分析的記述に費やされる、例外的な節である。
 この二つの節はアダム・ヴァーヴァーの現状分析のために置かれている。第2節の方には〝了解の瞬間〟についての分析が書かれていて、これがこの小説にとって重要な転換点になり、その後の展開を左右していく。
 アダム・ヴァーヴァーの屋敷には長期滞在の客人が何人かいて、そのうちの一人がランス夫人であり、彼女は寡夫であるアダムに対して求婚するチャンスをひそかに窺っている。ランス夫人がアダムを追って玉突き室までやって来たところを、マギーを初めとする何人かに目撃される場面である。

「アダム・ヴァーヴァーの心にはじつに奇妙な具合に新しい鋭い認識が生まれたのだった。それはじつに驚くべき経験であった――この認識は、世にも不思議な一輪の花が一吹き息を吹きかけられただけで突如として花開くように、たちまち開花したのだった。付け加えて言えばその一息とは何よりもまず彼の娘の目の表情、留守の間の出来事を彼女が正確に見抜いたことを彼に見てとらせる表情であった」

 アダム・ヴァーヴァーはここで初めて自分自身の位置を知ると同時に、娘マギーが自分について考えていることを知るのである。了解の瞬間が訪れそれが転換点となって、登場人物たちの布置を変えていく。一般の小説にあっては行動や行為が転換点を形成するのだが、心理小説にあっては行動や行為ではなく、認識や認識の変化がプロット上の転換点をなす。
 心理小説は行動や行為を描くのではなく、認識や了解を描くのであるから、小説を動かす起点はそこにこそある。だから注意深く読んでいかないと、プロット上の大事な転換点を見逃してしまうことになる。それを逃してしまえば、読者は何が何だか分からなくなって、分析の迷路に迷い込み、「こんなわけの分からない退屈な小説はない」とさえ思ってしまう。
 心理小説にはスリルやサスペンスが存在しないのではない。それが登場人物たちの行動や行為を伴って描かれるのではなく、登場人物たちの認識や了解によってのみ描かれるだけなのである。第2節の最後にはもっとスリリングな場面が用意されている。

「二人の関係は変わったのだった――その違いが彼女の眼の前に照らし出されたのを彼は再び見たのだった。彼自身が変化に気づいたのはその結果である――しかもその変化とは良かれ悪しかれただたんにランス夫人に関わる問題ではなかったのだ。ほとんど幸いなことには、マギーにとってもこの訪問客は一瞬のうちに厄介者から一つの象徴に変化した。二人は――というのは公爵夫人と公爵は――結婚によって彼のすぐ前に、彼の個人的な聖域に、空白を作り出したのだ。二人はそこに他人が入り込む余地を作り出したのだ――ほかの者たちもまたそのことに気づいたのだ。」

 この作者による分析はこれまでのアダムとマギー、アメリーゴの三人の関係が大きく変化する瞬間を捉えている。マギーとアメリーゴは〝彼の〟つまりアダムのすぐ前に他人が入り込む余地を作り出したというわけだ。だからこの時の了解や認識は、ランス夫人の求婚という下世話なテーマに関わるものに終わることなく、もっと大きなテーマがそこに隠されてくる。
 それは三人の関係が四角関係に変わっていくことの予兆と言ってもよい表現であって、そこに入り込んでくるのは言うまでもなく、シャーロットなのである。

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ヘンリー・ジェイムズ『金色の盃』(6)

2017年12月10日 | 読書ノート

 では心理小説としての『金色の盃』にはどんな特徴があるのか、作品に即してみていこうと思う。たとえばシャーロットが最初に登場する第1部第1章第3節は、ヘンリー・ジェイムズの小説ならではの大きな特徴を示している。
 マギーとの結婚を目前にしたアメリーゴと、その結婚を仲介したファニー・アシンガムの前に、アメリーゴのかつての恋人シャーロットが姿を見せる場面である。
 普通の小説であれば、多少の状況説明や人物の姿形の描写に続いて会話に入っていくところだが、この場面ではいつまで経っても会話が始まらない。地の文が延々と10頁も続いた後で、ようやくシャーロットとアメリーゴのやりとりが始まるのである。
 そして多少のやりとりがあった後も、地の文の比重の大きさは変わらない。しかも地の文が、これまでの経緯、たとえばシャーロットとアメリーゴの昔の関係や、マギーとの結婚に至る経過についての説明に費やされるわけではない。
 一般的な小説にとって重要なそのような情報は、ほとんど隠されていて、読者の前に明らかにされることはない。そうした情報はいわば〝仄めかされる〟だけなのだ。
 では地の文で何が語られるかと言えば、アメリーゴの視点から見たシャーロットの現状分析であり、心理分析なのである。この〝視点〟というのはヘンリー・ジェイムズにとって重要なものであって、多くの1対1の対決の場面にあって、作者が万能の神よろしく登場人物たちを外から客観的に分析していくことはない。
 このような構造がヘンリー・ジェイムズの小説を分かりにくくさせる最も大きな要因となる。ジェイムズの小説にとって、〝事実〟というものは存在しない。存在するのはある登場人物の視点から分析された事実にすぎず、その事実が複数の視点から分析されるときに、お互いに矛盾することすらあるため、読者は事実というものに到達することができない。
 ヘンリー・ジェイムズの小説では登場人物が、互いに互いの心理分析を繰り返すため、分析の迷路の中に事実というものが消失してしまうのだと言うこともできる。
 しかしそうした状況は、我々が日々の生活での人間関係の中で、いつでも体験していることであって、我々もまた事実の解釈を行うことはできても、事実そのものに到達することはできない。ヘンリー・ジェイムズは決して絵空事を書いているのでもなければ、拵えものを弄んでいるのでもない。
 ただしそのような手法がヘンリー・ジェイムズの小説を極端に長くしているのは間違いない。地の文=分析的記述が会話文の10倍も20倍もあるのだから、小説が長くなるのは当然だし、読者にとって分かりづらくなることは避けられないことと言わざるを得ない。
 フランスの心理小説、たとえばラディゲのそれは短い小説であって、それはラディゲがジェイムズのような複数の視点を用意できていないからである。そのかわり作者という単一の視点からの心理分析が、ラディゲの小説を〝割り切れてあまりがない〟作品に仕上げていくだろう。それは数学的な美しさにも譬えられるだろう。
 言ってみればヘンリー・ジェイムズの心理小説は、本家フランスの心理小説に複数の視点を導入したものであり、それは心理小説の爛熟の果てにあるものと言わなければならない。ヘンリー・ジェイムズは心理小説というものを、これ以上はあり得ないところまで追究したのである。
 後期三部作が、そうした追究の到達点にあることもまた間違いない。『聖なる泉』のような実験的な作風と較べてみるとそれがよく理解できる。中でも『金色の盃』は三作の中で最も長く、ある意味で不倫という最も単純なテーマを、最も複雑に描いたものと言えるだろう。

 

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