『文学会議』にはもう一編「試練」という作品が収められている。「試練」の方は「文学会議」のような底抜けのホラ話ではなく、奇想天外ではあるがある意味シリアスな小説とも読める。
簡単にあらすじを言えば、背が低くて太った16歳の普通の女学生マルシアが、二人のパンク少女に「ねえ、やらない?」と声をかけられ、二人と話すうちにパンク少女への共感を深めていって、共に〈試練〉を実行するという物語である。
パンク少女の名前はマオとレーニン。ふざけた名前だが、レーニンの方は不細工で影が薄く、マオの方は絶世の美人で、マルシアはこのマオの方に惹きつけられていく。
マオの「ねえ、やらない?」という唐突な言葉は、マルシアに対する〈愛〉の表現であって、単なる冷やかしではないということが徐々に分かってくる。マオは真剣なのだ。
二人のパンク少女(主にマオ)との会話が続いていくが、最初は大きな齟齬があったのに、どんどんその会話がかみ合っていって、抜き差しならぬ次元に入っていく。マオは次のような演説をする。
「けれども、愛だってひとつは回り道を許す。たったひとつだ。それは行動さ。愛には説明は不用だが、いずれにしろ、試練はつきものだからだ。もちろん正確にいえばそれは時間を引き延ばすことにはならない。試練(プルエバ)だけが愛に備わるものだからだ。だからゆっくりで込み入っていても、その場ですぐになされるものでもある。試練は愛と同じほど価値があるが、同じものだからとか同等だから同じ価値になるってのじゃない。人生のもうひとつの局面についての見通しを開くものだからだ。もうひとつの局面ってのが行動だ。」
その前にマオは「根本的には暴力しかないんだ」とも言っていて、この言葉と演説とが、後半に急展開するストーリーを導いていく。マルシアは二人が「スーパーマーケットから何か盗み、それをプレゼントする」ことで愛の証明(プルエバ)を行おうとしていることを察知する。そしてマルシアは二人のパンク少女と行動をともにするのである。
スーパーマーケット襲撃はほとんどテロのような形で実行される。二人のパンク少女は店員や客を残虐なやり方で殺し、レジの現金を奪って逃走に成功する。二人と一人とが……。
「二つの暗い人間の形が、外の広大無辺な闇に紛れて外形も見えなくなっていく……そしてまさに二人が外に出た瞬間、三つ目の影が合流した……夜の中を大きく旋回しながら逃走する三つの天体になった……南半球の子供たちなら誰もがまじないにかかったように、何が何だかわからないといった表情で眺める、三体のマリア像になった……そして三人はフローレス地区の街路の中に消えていった。」
この最後の文章はいったい何なのだ? 三人が愛のための試練を乗り越えることで聖別されたとでも言うのだろうか? この文章を読者はテロリズムに対するほとんど賞賛の言葉として読むべきなのだろうか?
そこのところが分からない。「根本的には暴力しかないんだ」という言葉はマオのものであると同時に、作者セサル・アイラのものであるのかどうか?
ラテン・アメリカ文学の第三世代とも言うべき、アイラのような作家の分かりづらさはそこにある。彼等が小説を通して何を言おうとしているのか、何を主張しようとしているのか、そのあたりのことがつかめないのである。
同じ年代のチリの作家ロベルト・ボラーニョの作品を読んだ時にも感じた〝分からなさ〟はそこにある。多分小説に作家の主張を読むこと自体が間違っているのだ。
それでもボラーニョの場合には、『2666』のあの膨大な殺人調書、そして連続強姦殺人に対する登場人物の恐怖感といったものに、ボラーニョが感じとっている〝世界の暴力性〟というものを読み取ることはできた。
あるいは『はるかな星』に登場するカルロス・ビーダーという、空に詩を描く飛行機乗りがなぜ同時に凶悪な殺人鬼でなければならないのか、という疑問すらも、それがボラーニョの〝世界像〟であるからという納得に落とし込むことができた。
しかし、セサル・アイラの場合にはそれができないのである。「文学会議」についてはそれが、SF映画やホラー映画のパロディであるという読み方ができるが、「試練」の場合にはそれができない。
小説作品に作家の主張を読むのではなく、作家が提示する世界像を読めばいいという理解は、ボラーニョまでは通用するがアイラには通用しない。かといってアイラの作品を純粋なナンセンス文学として読めばいいのだとも思えない。
セサル・アイラはだから、ボラーニョ以上に謎の多い作家なのだ。ただし「文学会議」にしても「試練」にしても、決して不真面目な姿勢で書かれた作品ではないことははっきりと理解できる。
日本でいえば高橋源一郎のような作家に近い(年齢もほぼ同じ)のかも知れないが、高橋のずぶずぶな漫画的世界に比べて、アイラの世界は独特なクリアーさと堅牢さをもっている。あるいはもっと言うならば、作家として求めうる〝真実〟を堅持している。
そのことを「試練」でより強く感じることができるが、私はさらにもう一冊の邦訳作品『わたしの物語』を読んで、答えを求めてみたい気持ちに駆られているのである。
(この項おわり)