「越後タイムス」創刊百年の年が暮れていく。今年は、創刊百年記念事業として、柏崎育ちの獄中歌人・島秋人の生涯を描いた語り芝居「鬼灯」の柏崎公演を実現できたし、フランス文学者・美術批評家、さらには柏崎の「痴娯の家」の名付け親であった巖谷小波の孫である巖谷國士氏の講演会を開くこともできた。
百周年を記念したパーティーを開くことも、年の初めには考えていたが、三月十一日の東日本大震災の発生と、三月二十日の「越後タイムス」前主幹・吉田昭一さんの死去で、そんなもくろみも吹っ飛んでしまった。百周年記念の年は、私にとって喪中の年となってしまった。
「越後タイムス」百年を全うすることができてよかったと思う反面、大きな目標を失ってしまった虚脱感もある。これから何を目標にして、この小さな新聞を続けていけばいいのか分からなくなることもしばしばある。
しかし、次の目標を『越後タイムス百年史』を書くことと、自分の中で決めることができた。そのための作業は数年前から始めてはいるが、遅々として進んでいない。まだ創刊から十四年の、大正十三年までを辿ってきたにすぎない。
週刊の新聞をほぼ一人で発行し続けることは、それほどたやすいことではない。吉田昭一さんは、それを半世紀続けたのだったが、それが吉田さんの健康を害する結果になったとも言える。
来年から、「越後タイムス」の発行形態を変えることを考えている。新年号でそのことについてお知らせしたいと思っている。
百周年を記念したパーティーを開くことも、年の初めには考えていたが、三月十一日の東日本大震災の発生と、三月二十日の「越後タイムス」前主幹・吉田昭一さんの死去で、そんなもくろみも吹っ飛んでしまった。百周年記念の年は、私にとって喪中の年となってしまった。
「越後タイムス」百年を全うすることができてよかったと思う反面、大きな目標を失ってしまった虚脱感もある。これから何を目標にして、この小さな新聞を続けていけばいいのか分からなくなることもしばしばある。
しかし、次の目標を『越後タイムス百年史』を書くことと、自分の中で決めることができた。そのための作業は数年前から始めてはいるが、遅々として進んでいない。まだ創刊から十四年の、大正十三年までを辿ってきたにすぎない。
週刊の新聞をほぼ一人で発行し続けることは、それほどたやすいことではない。吉田昭一さんは、それを半世紀続けたのだったが、それが吉田さんの健康を害する結果になったとも言える。
来年から、「越後タイムス」の発行形態を変えることを考えている。新年号でそのことについてお知らせしたいと思っている。
(越後タイムス12月9日「週末点描」より)