『ワシントン・スクエア』の大きな特徴は、35の章からなる小説において、ほとんどの章が登場人物1対1の指し向かいの構図を持つということである。こうした特徴はジェイムズの後期3部作で集大成を見ることになるもので、特に一番最後の『金色の盃』でその構図は完璧なものとなる。
なぜそんな構図にするかというと、ジェイムズが登場人物の一人ひとりを1対1の構図におくことによって、そこに心理的な緊張の場を作り出す意図があるからである。そんな構図はフランスの心理小説において顕著なものとなっているが、1対1の場面ではじめて、一人が一人の人物に対して、その本来の姿を顕わにすることが可能だからである。
『ワシントン・スクエア』は心理小説としての特徴を持っていて、1対1の対決の場面はさまざまな組み合わせで実行されるが、終局的には父スローパー博士と娘キャサリンの〝闘い〟ということに収斂される。〝闘い〟とは言ってもそれは表面的なものではなく、表に出せない心理的なそれであるのだが。
スローパー博士は娘に対して直接的な叱責というよりも、婉曲な言い方(それは〝皮肉の濫用〟といわれる)をとる。キャサリンの方は父に対する絶対的尊敬と服従から来る怨嗟の形をとる。そこでヘンリー・ジェイムズは、19世紀的リアリズムでは描けなかった人間の複雑さを描くことに成功している。
バルザックの『ウジェニー・グランデ』は、必ずしも父グランデ氏と娘ウジェニーの間の〝闘い〟に収斂するわけではない。二人の闘いは、旅立つシャルルにウジェニーが父からもらった金貨を与えたことが露見する場面に見られるだけで、父娘の対立というものがそれほど重大な意味をもつものではない。
バルザックは相変わらず、極端で行き過ぎた人間の造形に全力を傾けている。グランデ氏の金銭に対する異常な欲望が前面に出ていて、その周りの人物達の存在感を希薄なものにしている(特にウジェニーの母親の存在感がまったく感じられない)。ウジェニーは必ずしも父の犠牲となるのでもない。父が家族に吝嗇を強制する時には、妻も娘もそれをそういうものだと受け止めて服従するのだし、前にも言ったように娘ウジェニーの結婚を父が妨害するのでもない。
結局『ウジェニー・グランデ』は巷間言われるように、父親の暴虐によって犠牲になる娘のことを描いた作品とは言えない。バルザックの小説によくあることだが、テーマが一つのところに落ち着かずに拡散する、ちょっとバランスを欠いた作品のような気がする。ヘンリー・ジェイムズの『ワシントン・スクエア』の方のテーマは、極めて筋の通ったものになっている。父の娘を思う気持ちから出てくる「皮肉の濫用」が、いかに娘を傷つけていくかというその過程を微細に追った作品なのである。
スローパー博士の罪は、キャサリンとモリスの結婚に反対したことにあるのではない。そうではなく、彼が娘に対して反対するわけを理を尽くして諭すのではなく、もっぱら「皮肉の濫用」によってそうした(ほとんどサディスティックな皮肉を多用した)ということ、さらに言えば、キャサリンがモリスとの結婚を断念した後も娘を信じることなく、「皮肉の濫用」を続けたことにある。
キャサリンが独身を貫くのも、そのような父親に対する復讐でもあるのであって、そこでもテーマの一貫性は保たれている。『ウジェニー・グランデ』のウジェニーが独身を続け、世間体のために形ばかりの結婚をするのは、父親に対する復讐というよりもシャルルの心変わりへの復讐と言えるだろう。だからそこにもテーマの盤石性が感じられないのである。
以上見てきたように『ウジェニー・グランデ』と『ワシントン・スクエア』はストーリーがよく似ているが、目指すところはまったく違っているように思う。しかし、金銭と恋愛ということが二つの小説の軸となっていることは明らかで、この極めてバルザック的な要素を、ヘンリー・ジェイムズが受け継いでいることは見て取れる。ジェイムズは後に金銭と恋愛そのものをテーマとした『鳩の翼』を書くことになるのだから。
(この項)おわり