この休刊号を発行するにあたって、書いておきたいことがある。まず四本の連載について。渡辺和裕氏の「感覚のルネッサンス~災害と社会あるいは文学について」の連載は五十六回を数えた。東日本大震災と福島原発事故の直後から開始されたこの連載は、「決して終わらない」と宣言されていた。
震災や原発事故を風化させるべく、東京オリンピックの開催決定や、景気回復最優先、つまりは経済至上主義に同調する総選挙などが行われたが、文学的精神にとって、それは忘れることを許されぬ事件であって、だからこの連載は「決して終わらない」のである。
徳間佳信氏の「中国新時期文学連載」も二十六回にわたり、今号の最後には「この項続く」と記されている。中国の現代文学について通観するこの論考は、日本で初めての試みであり、おそらく中国本国においてもなされていないものかも知れない。
前人未踏のこの論考に対して、紙面を提供する必要があると判断して始めた連載であり、最後まで貫徹させてあげられなかったことを申し訳なく思っている。いずれ一本にまとめられ、中国現代文学を学ぶ日本人にとって必須の文献となることを願っている。
また、木島次郎氏の「柏崎を変革した男たち」も、大河内正敏と彼に関わる四人の人物について、まだ二人目が登場したばかりであり、今後どこまで続くのか予想もできない。
私自身の「大岡昇平」についても、まだ『武蔵野夫人』について論じただけで、タイトルの「“明晰”という隘路」によって言いたいところまで辿り着いていない。これもまた「つづく」とした所以である。
まだ何も終わっていないのである。休刊であって廃刊でもなければ終刊でもない。ただし新聞としての発行は、この号が最後になる。来年になったら、少し休ませていただいて、別の形での「越後タイムス」の続行について模索したいと考えている。
休刊を惜しむ声がたくさん寄せられていて、申し訳ないと思うと同時に嬉しい気がしないでもない。熱烈に愛読してくださった方がたくさんいることが分かるからだ。
そんな方々に最後のお願いがある。越後タイムス五代目編集発行人・柴野のことを「タイムスを終わらせた男」ではなく、「タイムスを十五年間延命させた男」として記憶していただきたいというお願いである。でも、まだ終わりではない。
震災や原発事故を風化させるべく、東京オリンピックの開催決定や、景気回復最優先、つまりは経済至上主義に同調する総選挙などが行われたが、文学的精神にとって、それは忘れることを許されぬ事件であって、だからこの連載は「決して終わらない」のである。
徳間佳信氏の「中国新時期文学連載」も二十六回にわたり、今号の最後には「この項続く」と記されている。中国の現代文学について通観するこの論考は、日本で初めての試みであり、おそらく中国本国においてもなされていないものかも知れない。
前人未踏のこの論考に対して、紙面を提供する必要があると判断して始めた連載であり、最後まで貫徹させてあげられなかったことを申し訳なく思っている。いずれ一本にまとめられ、中国現代文学を学ぶ日本人にとって必須の文献となることを願っている。
また、木島次郎氏の「柏崎を変革した男たち」も、大河内正敏と彼に関わる四人の人物について、まだ二人目が登場したばかりであり、今後どこまで続くのか予想もできない。
私自身の「大岡昇平」についても、まだ『武蔵野夫人』について論じただけで、タイトルの「“明晰”という隘路」によって言いたいところまで辿り着いていない。これもまた「つづく」とした所以である。
まだ何も終わっていないのである。休刊であって廃刊でもなければ終刊でもない。ただし新聞としての発行は、この号が最後になる。来年になったら、少し休ませていただいて、別の形での「越後タイムス」の続行について模索したいと考えている。
休刊を惜しむ声がたくさん寄せられていて、申し訳ないと思うと同時に嬉しい気がしないでもない。熱烈に愛読してくださった方がたくさんいることが分かるからだ。
そんな方々に最後のお願いがある。越後タイムス五代目編集発行人・柴野のことを「タイムスを終わらせた男」ではなく、「タイムスを十五年間延命させた男」として記憶していただきたいというお願いである。でも、まだ終わりではない。
(越後タイムス12月25日号「週末点描」より)