玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(4)

2015年12月29日 | ラテン・アメリカ文学

 前回、アルチンボルディに接近する役はアマルフィターノが引き継ぐと書いたが、正確には、なにやらアルチンボルディが関係しているらしい、例の連続女性強姦殺人事件へと接近する役割を引き継ぐと言わなければならない。 
 第二部「アマルフィターノの部」は、五つの部の中で最も短いものでしかないのだが、アルチンボルディを除いた登場人物の中では最も強い印象を残す。さらにアマルフィターノは、第一部と第三部「フェイトの部」にも登場しているから、部をまたいで登場する人物という意味でも、アルチンボルディ次ぐ重要性を持っていると言える。
 第一部で批評家達は彼の印象について否定的にしか見ていない。ペルチエは「挫折した男、なかんずくヨーロッパで暮らし、教えたために挫折した男、硬い殻で身を守ろうとするものの、内面の繊細さがその事実を暴いてしまう男」を見るし、ノートンは「急速に生命力が衰えつつあり、彼らにその街を案内する役目を果たすことが最後の望みであるという、なんとも悲しい男」をしか見ない。
 確かに放浪癖のある妻ロラ、精神病院に収容されている詩人を追いかけ回し、ヨーロッパ各地をヒッチハイクで巡り歩くロラに対する関係は、まったく無関心としか言いようがなく、アマルフィターノは現実との精神的結びつきをまったく欠落させているのである。
 アマルフィターノは自身の正気を疑っている。バルセロナから契約切れでサンタテレサの大学にやってきた彼は、まるでサンタテレサの瘴気に冒されたかのように狂気の淵に落ちていく。
 彼は自宅の中庭のもの干場に、ロープで一冊の本を吊しているのだ。それはマルセル・デュシャンの発想に倣っているのだが、娘のロサに対しては「ただ吊るしたいから吊るしているだけさ。ここの気候に、この砂漠みたいな環境にどれだけ耐えられるかと思ってね」と説明している。
 しかし、アマルフィターノは毎日義務のようにして、その吊された本を確認しないではいられない。砂漠の環境に曝されているのはアマルフィターノ自身であり、吊された本は彼自身の暗喩でもあるのだ。彼は毎日、自己確認のようにして本の崩壊過程を見ることで、自身の崩壊過程を観察しているのだ。
 幻聴もまたアマルフィターノの狂気の徴候である。"声"は彼にホモセクシュアルについての議論や、友情や愛、勇気についての議論を吹きかけるが、それだけでなく警告をも与えようとする。
「用心することだ、いいか、ここじゃ何もかもが白熱しているらしいから」
あるいは
「声を荒げないこと。汗をかかないこと。無駄な動きをしないこと」
などと"声"はアマルフィターノを救おうとしているようにも思われる。
 第二部にはこの他にも、アマルフィターノの無意味な哲学的思弁や、チリの先住民アウラコの民が持っていたテレパシー能力についての詮索など、様々な狂気の徴候が見られる(1回目で私はボラーニョがチリのことにまったく触れていないと書いたが、誤りであった。"まったく"を"ほとんど"に修正しておきたい)。
 ただそれらは横に並列的に並べられているのみで、遡及的に語られることがない。まるで思弁の旅を続けているかのように。
 『2666』では多くの登場人物が旅をする。第一部の批評家達も、そしてチリに生まれ育ち、スペインの大学で教え(ピノチェトのクーデターで自主的亡命をしたらしい)、今はメキシコの不吉な町で教えるアマルフィターノも旅をする。彼の妻ロラも放浪の人生を送る。何を置いてもアルチンボルディこそは旅する作家に他ならないではないか。
 私はだから、『2666』という小説の基調にあるのは"旅"ということではないのかと考える(重要な根拠があるのだが今は言わない)。アマルフィターノが故国チリの先住民に思いを馳せる時も、その思いは並列的に流れていく。カルロス・フエンテスの場合のように遡及的に探究されることはないのである。
 故国から出ることは"越境"として意識されていない。それはあくまでも"旅"なのであって、故国もまた"旅"の対象にすぎないのである。

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(3)

2015年12月28日 | ラテン・アメリカ文学

「批評家たちの部」は、四人の批評家達がアルチンボルディに接近していく過程を描くと同時に、アルチンボルディの謎を一層深めていくために置かれる部分である。
 彼らはアルチンボルディとメキシコで出会ったという人物の情報を求めて、メキシコシティに向かう。情報提供者のエル・セルドという男と出会い、アルチンボルディことハンス・ライターが、メキシコシティのホテルに一泊し、その後サンタテレサへ向かったことを知る。
 なぜ80歳を超えた老アルチンボルディが、これまで一度も訪れたこともないメキシコなんかにやってきたのか、そしてなんのためにサンタテレサに向かったのかということが大きな謎となるが、この謎は第五部「アルチンボルディの部」まで解明されることはない。
 第二部、第三部、四部と、翻訳書で450頁あまりもの間、この最も重要と思われる謎が、放り出されたままにされるのである。読者はその代わりにサンタテレサで起きている連続女性強姦殺人事件の謎の方へと引きずり込まれていく。そこにはしかも、様々な不吉な徴候と、狂気とが附随していく。
 夢の場面が多く描かれる。三人(モリーニは同行していない)がサンタテレサに着いてから、夢はほとんど悪夢と化していくだろう。それはサンタテレサという町そのものと関連している。エル・セルドによって「工場があります。でも厄介な問題もあります。きれいな場所だとは思いませんね」と、アルチンボルディに説明されるサンタテレサの町は、三人に不快で不吉な悪夢を見させることになる。
 ペルチエは浴室に大便が落ちている夢を見る。これはホテルの不潔な環境から来るもので、さほど重要なものではない。エスピノーサは砂漠を描いた絵の夢を見る(サンタテレサは砂漠の中の町)。絵は動いていて声も聞こえる。こんな風に……。
「かろうじて聞こえるその声は、初めは音素だけ、砂漠の上に、そしてホテルの部屋と夢のなかの空間の上に隕石のように放たれた短いうめきだけだった。彼は断片的な言葉をいくつか聞き取ることができた。早さ、緊急、速度、軽快さ」
 彼らの見る夢はもちろん、サンタテレサという町がもたらす彼らの精神に働きかけてくる不吉なイメージに起因するのであろうが、作者の立場からすれば問題は逆である。ボラーニョは三人に恐ろしい夢を見させることで、サンタテレサという町に不吉なイメージを纏わせていくのである。
 リズ・ノートンが見る夢はもっと恐ろしい。彼女は夢の中で、二つの鏡に映った分身の姿を見る。その分身の首の血管は今にも破裂しそうに膨れあがっている。そして……。
「女性は彼女と同じ目をしていた。頬、唇、額、鼻。ノートンは悲しみか恐怖がこみ上げ、泣き出した。あるいは泣いたと思った。わたしと同じだわ、と彼女は思った。でも向こうは死んでいる。女性は微笑みを浮かべ、ほとんど間を置かずに、恐怖に顔を歪めた。ノートンはぎょっとして振り向いたが、後ろには壁があるだけで、誰もいなかった」
 これは連続女性強姦殺人事件の被害者の姿なのだろうか? しかし、まだ三人はその事件のことを知らされていない。ゴシック小説にみられる予兆表現がここにはある。
 ボラーニョは夢だけではなく、現実のエドウィン・ジョーンズの死、あるいは批評家達の死の予感、さらには新たに登場する人物アマルフターノ(アルチンボルディの専門家)の狂気など、あらゆるものを総動員してサンタテレサの町を死の色に染め上げていく。こうしてボラーニョは読者を圧倒的な不安の中に陥れていく。まさにゴシック的な手法である。
 ある時、三人は地元の若者が連続女性殺人事件のことを話すのを聞く。それも「批評家たちの部」も終わり近くになってから。四人の批評家たちはしかし、第一部であっさりと姿を消す。まるで旅人達が去っていくように。アルチンボルディへの接近の役割は、アマルフィターノに引き継がれるだろう。奇妙な形で。

 

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(2)

2015年12月27日 | ラテン・アメリカ文学

 第1部「批評家たちの部」は、ベンノ・フォン・アルチンボルディというドイツ人作家についての謎の提示によって始まる。アルチンボルディは謎の作家である。ノーベル賞候補とされながらも、誰も素顔を知らず、どこにいるのかさえ分からない。
 四人の批評家達が登場する。フランス人ジャン=クロード・ペルチエ、スペイン人マヌエル・エスピノーサ、イタリア人ピエロ・モリーニ、イギリス人リズ・ノートンがそれで、四人とも学者でありアルチンボルディの文学に深く傾倒している。
 いきなりこの小説の国際性が明示されるわけで、彼らはヨーロッパやアメリカ各地で開かれるアルチンボルディをめぐる学会で顔を合わせるようになり、次第に友情で結ばれるとともに、リズ・ノートンをめぐって三角関係あるいは四角関係を繰り広げることになる。しかし、多分このような愛の物語はどうでもよいことなのであって、ボラーニョは彼らの愛の帰趨に特別拘ることなく、ひたすらエピソードを積み重ねていく。
「批評家たちの部」全体というよりは、一つひとつのエピソードに注目せざるを得ないのであって、私もまた、ボラーニョが繰り出す様々なエピソードについて断片的に語ってみることしかできないだろう。
 スイスの精神病院で批評家たちが出会う、エドウィン・ジョーンズという画家のエピソードがある。「その画家は、自分の右手、絵を描く方の手を切り落とし、防腐処理を施すと、一種の多重自画像にそれをくっつけたのだった」と紹介されるその画家は、なんとアルチンボルディの本を所有していたのである。
「何という偶然だ」とモリーニは言うが、作者並びに読者にとってはそんなものは偶然でも何でもない。これは批評家達が謎のアルチンボルディに接近していくためにどうしても必要な"偶然"なのであって、作者がそう仕掛けているだけなのだ。もう一つ重要なことは、この画家とアルチンボルディを狂気の領域の中で結びつけようとする作者の意志に他ならない。
 エドウィン・ジョーンズは"偶然"について次のような演説を行うのだが、それは明らかにボラーニョの小説論の断片として読まれなければならない。
「偶然は法則に従わないし、仮に従うとしても我々はその法則を知らない。偶然とは、譬えて言うなら、この地球において、絶えず意思表示を行う神のようなものだ。不可解な自分の創造物に向かって不可解な身振りを行う不可解な神だ」
 神を小説家と読み替えればよい。小説家とは神のような完全なる自由において、偶然を支配するのであるし、不可解な登場人物に向かって、不可解な偶然を差し向ける不可解な神なのである。ジョーンズのこの言葉を『2666』のエピグラフとして読むことも可能なのだ。
 モリーニは「自分の手を切り落としたのはなぜですか?」とジョーンズに問う。ジョーンズは「私にそれを訊くことにどんな意味がある?」と返すのだが、最後にはモリーニとペルチエに対して耳打ちして何かを話す。しかし、ボラーニョはその言葉を読者に洩らそうとはしないし、二人に話したことが同じなのかどうかについても語ろうとしない。
 作者は偶然を支配すると同時に、大事なことを語らずに黙したままでいることもできる。この応答はそのことを示している。小説において何も語らないことは、何かを語ることよりも重要な結果をもたらすことができる。
 ボラーニョは870頁もある、ほとんど饒舌と言ってもいいこの『2666』の中で、何も語らない権利を十二分に行使している。重要なことは何も語られない小説なのだ。だから読者はその掴み所のなさに、時に不安さえ覚える。そうでなければ、謎のドイツ人作家アルチンボルディをめぐるこの長大な物語に、読者がついていくことなどできはしないだろう。
 ところで、批評家達がアルチンボルディの手がかりを求めてメキシコへ向かう直前、モリーニだけが出発を取りやめる場面がある。モリーニはそれを、フランス19世紀の作家マルセル・シュオッブが、敬愛するスティーヴンスン(『宝島』の作者)の墓をサモアに訪ねる旅で、健康状態のこともあったが、「死んでいない人間の墓参りをする必要はない」という理由から(スチーヴンスンは彼の中に生きているのだから)、墓参りを取りやめたという理由に帰している。
 今年国書刊行会から出版された『マルセル・シュオッブ全集』のリーフレットには、シュオッブに影響を受けた作家達として、ヴァレリー、ジード、ボルヘスの他にボラーニョも挙げられている。本当か? あのフランスの幻想文学作家が書いたものに共通する部分を、私は『2666』の中に発見できないが、他の作品にはそれが見られるのだろうか? 知りたいところである。

マルセル・シュオッブ『マルセル・ショオッブ全集』(2015、国書刊行会)大濱甫/多田智満子/宮下志朗/千葉文夫/大野多加志/尾方邦雄 訳

 

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ロベルト・ボラーニョ『2666』(1)

2015年12月26日 | ラテン・アメリカ文学

 よやくロベルト・ボラーニョの『2666』に辿り着いた。しかし、読み終わって一か月ほど経っているので、細部については忘れてしまっている部分もある。しかもA5判2段組、870頁という恐るべき大冊であって、全部覚えていられるものではない。
 同じチリの作家としてホセ・ドノソを、同じメキシコを舞台に書いた作家としてカルロス・フエンテスを参照するのみであるが、ドノソの『別荘』を読んだあとのような、人生の難局を乗り越えたような虚脱感のようなものは、まず感じることはない。そしてフエンテスの『ガラスの国境』にあるような、感動的なコーダとしての終局もない。
『2666』を一回読んだだけで、ボラーニョという作家を理解することなどできないのだろうが、まず掴みどころがないということは言える。第一部から第四部まで読み進んでもなお、「この作家はいったい何を書きたいのだろうか?」という疑問を感じるばかりであったことを告白しなければならない。
 とにかく、部ごとに一つの小説として読んだ場合に、様々なエピソードが並列的に叙述されていくばかりで、そこに伏線が張られているわけでもないし、大きな起承転結があるわけでもない。叙述は淡々としていて、まるでハードボイルド小説を読んでいるような感じである。
 特に第四部「犯罪の部」は、メキシコ北部のマキラドーラの町サンタテレサで起こる、200件もの連続女性強姦殺人事件を、犯罪調書のように執拗に連ねていく構成になっていて、「この偏執狂的な執念はいったい何なんだ?」という気持にさえなる。
 一つ確認しておかなければならないことがある。ドノソやフエンテスはいわゆる「ラテンアメリカ文学のブーム」の第二世代にあたる作家であるが、ボラーニョはそれ以降の、言ってみればブームの後の世代に属するということである。
 そして、ドノソやフエンテスには(他の多くのラテンアメリカ作家に共通することだが)故国への反語的な愛着が抜きがたくあるのに対し、ボラーニョにはそれがまったく感じられないということも言っておかなければならない。ボラーニョは故国チリのことにはほとんど触れないし、メキシコで育った者としてメキシコに対する反語的名愛着を持っているわけでもない。
 ホセ・ドノソは『ラテンアメリカ文学のブーム』の中で、"国際化"ということについて次のように書いている。
「固有の文学的父親の不在というこの事実ほど、われわれの世代を豊かにしたものはないと私は思う。われわれは大きな自由を与えられ、先に述べた空白が、いろいろな意味で、イスパノアメリカ小説の国際化を可能にしたのである」
 つまり、ラテンアメリカの作家達は故国の文学に規範を持つことなく、ヨーロッパやアメリカの文学にそれを求め、それだけでなく多くが故国を離れて(政治的亡命や自主的亡命をも含めて)ヨーロッパやアメリカで生活したために、豊かな国際性を与えられたのである。しかし、その国際性は自らの出自としての故国への強い愛憎と深く結びついていた。
 カルロス・フエンテスのすべての小説にその痕跡が窺える、と言うよりも彼はそれをこそ生涯にわたる文学のテーマとした。政治的には無関心であったホセ・ドノソでさえ、故国の政治状況に強い関心を持たざるを得ず、それが『別荘』という傑作に結実したということは、彼らがある国際性をもって故国を凝視したことを意味している。
「ラテンアメリカ文学のブーム」と呼ばれる世代の作家達は、皆そのような体験を持っている。故国から越境することで真に故国について語ることができたのである。だから、ラテンアメリカ文学こそは"越境の文学"と呼ばれなければならない。そして、そのためには"越境"が"越境"として意識されていなければならない。
 しかし、そのような事情はロベルト・ボラーニョには当てはまらないように思われる。ボラーニョは『2666』で、アメリカやヨーロッパのあらゆるところを舞台にしてみせる。フエンテスのような"国境"に対する拘りはないのである。
 ボラーニョは"越境"を"越境"として意識しない、真の意味での国際的作家として位置づけられるのであろう。

ロベルト・ボラーニョ『2666』(2012,白水社)野谷文昭・内田兆史・久野量一訳

 

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カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(4)

2015年12月24日 | ラテン・アメリカ文学

『ガラスの国境』が単なる短編小説集ではないということを最初に書いた。それをよく示しているのが最後の一編「リオ・グランデ、リオ・ブラーボ」という作品である。
 リオ・グランデとはアメリカ、コロラド州に源を発し、ニューメキシコ州を貫いて、テキサス州ではメキシコとの国境を形作って、メキシコ湾に注ぐ川であり、リオ・ブラーボはそのメキシコ名である。つまり現在ではこの川が、アメリカとメキシコの国境の代名詞ともなっているのだ。
「リオ・グランデ、リオ・ブラーボ」は一方ではこの川の太古から現代までの歴史を語り、もう一方では前八編の登場人物達のその後について、あるいは国境に関わる新たな登場人物達についても語っている。
 しかし、川の歴史というものは存在しない。人間が存在しないところに歴史は存在しないのだから、リオ・グランデの歴史と言うよりは、リオ・グランデが凝視してきた、インディオ達、スペイン人達、征服者達、インディオ達のスペイン人達への抵抗、グリンゴ達、グリンゴ達によるメキシコ領のアメリカ領への割譲などの歴史と言うべきだろう。
(ちなみに、アメリカ・メキシコ戦争(1846-1848)までは、現在のカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州の全域と、アリゾナ州、コロラド州、ニューメキシコ州、ワイオミング州の一部は、1821年にスペインから独立して以来、メキシコ領であったのである)
 新たなる登場人物、特にハーレー・ダビッドソンに乗って国境地帯を往来する作家ホセ・フランシスコのイメージは鮮明に読者の心に残るだろう。ホセはアメリカ人でもなければメキシコ人でもない。英語でも書けば、スペイン語でも書くチカーノ(メキシコ系アメリカ人)なのだ。「特に何かに同化する必要はない。俺だけの物語があるんだ」と言うホセは、「どうやら内部に独自の国境を持っているらしい」。フエンテスはさらに続ける。
「国境地帯は豊かな物語の宝庫で、カリフォルニアからテキサスまで、地下に葬り去られることなく生き続ける数多の物語が、いつ語ってもらえることか、いつ文字にしてもらえることかと待ち続けている。ホセ・フランシスコは色々な話を集め始めた」
 ホセはバイクで「チカーノの手稿をメキシコへ、メキシコの手交をテキサスへ運ぶ」だろう。両者の理解を深めるために。彼は国境の検問に対しても動じない。彼は国境であらゆる手稿を風に飛ばすだろう。
「フアレス川で十字に腕を広げて抗議する者たちの姿が目に入り、彼らが腕を伸ばして宙に舞う紙を掴み取っていくのを見ると、ホセ・フランシスコは勝利の雄叫びを上げて、国境のガラスを永遠に打ち砕いた……」
 フエンテスは文学の理想の形態について語っている。国境を自由に越えることのできる文学、あるいは国境を破壊することのできる文学。それをフエンテスは文学のあるべき姿と考えている。
 そしてまた、文学への希望についても語っている。ホセは手稿について「政治文書か?」と訊ねる検問に対して、「あらゆる書き物は政治文書です」と答え、「それでは危険なものなのだな」との問いに対しては、「あらゆる書き物は危険です」と答えるのである。フエンテスは文学というものの本質的な意味を正確に理解しているのである。
 登場人物のその後についても語られている。「リオ・グランデ、リオ・ブラーボ」の中で、「痛み」に登場したフアン・ペレスは、銃撃に倒れ、「脳みそを飛び散らせた」レオナルド・バロソに医師として対面するだろう。国境は様々な人間が交叉し、様々な悲劇が起こる場でもあるのだ。
 この作品は『ガラスの国境』全体の中で、音楽におけるコーダのような役割を持っている。様々な作品の旋律がここで一堂に会して響き渡り、徐々に速度を上げて終局に向かう。この作品がなければ『ガラスの国境』の価値は半減していたかも知れない。最後にホセ・フランシスコの手稿が風に舞う。
 
 リオ・グランデの北、
 リオ・ブラーボの南、
 偉業、戦闘、名前、記憶、敗北、勝利、色、その一つひとつを象徴する羽がある
 リオ・グランデの北、
 リオ・ブラーボの南、
 言葉よ、翔べ、
 哀れなメキシコ、
 哀れなアメリカ合衆国、
 これほど神から遠く離れ、
 これほど隣り合っているとは

(この稿おわり)

 

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カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(3)

2015年12月23日 | ラテン・アメリカ文学

「賭け」という作品だけが、アメリカでもなくメキシコでもないスペインを舞台としている。貧困から抜け出せないメキシコ人レアンドロ・レジェスは、レオナルド・バロソの運転手となることで生活を改善させ、メキシコで出会ったスペイン女性と一緒になろうとする。しかし、ある老人(父親かも知れない)に車を使った賭けを強要され、事故で死ぬことになる。レアンドロはアメリカだけでなく、新大陸にも受け入れられない運命にある貧しいメキシコ人を代表している。
 表題作「ガラスの国境」は、かなり図式的ではあるが、美しいイメージを持った作品である。この作品では"ガラスの"という言葉が、比喩的な意味ではなく物質的な意味を持っているのだが、その物質性自体が隠喩に帰っていくという複雑な比喩構造を示している。
 リサンドロ・チャベスというメキシコ人は、破産した両親を助けるために、レオナルド・バロソに雇われ、ニューヨークで働くことになる。リサンドロは白人のインテリで(ガルシア=マルケスの読者でもある)、バロソによれば他の労働者達とは"一味違う青年"なのである。
 リサンドロはメキシコシティ-ニューヨーク直行便でJFK空港に着き、高層ビルの窓の清掃の仕事にまわされる。彼は独りボードに乗せられて、ガラス張りのオフィスビルの40階に吊り上げられる。そのビルの内側には広告会社のエグゼクティブであるアメリカ女性のオードリーがいる。二人は視線を交わす。オードリーはリサンドロに、普通の男性にはない品格を見て取り、「私に足りないものが欲しい」と心から思う。
 彼女はガラスに自分の名前audreyを口紅で書く。リサンドロはそれに対してmexicanという国籍だけを書く(どうやって書いたのだろう?)。メキシコ人であることに対する卑下の気持からである。そして最後の場面が美しい。
「彼はガラスに唇を近づけた。彼女には何のためらいもなかった。ガラス越しに二つの唇が一つになった。二人とも目を閉じた。数分経ってから彼女はようやく目を開けた。ようやく視界を取り戻したとき、すでに彼の姿はそこになかった」
 フエンテスはここで、物質的な意味でのガラスを登場させ、それが透明ではあるが超えられない国境であるという暗喩に変換する。ガラス越しのキスなど映画にもあるありふれた場面であるが、それが全面ガラス張りのアメリカのオフィスビルの40階であること、そして40階の外にいるのは白人ではあれ、貧しいメキシコ人労働者であることで、独自の象徴性を帯びるのである。
「マキラドーラのマリンツィン」という作品が、『ガラスの国境』の中で最も分かりやすい作品だろう。マキラドーラというのは次のように説明されるメキシコ北部の工場のことである。
「マネージャーたちの言う産業団地、いわゆるマキラドーラでは、グリンゴたちが、アメリカ合衆国で作った部品をもとに、繊維製品、玩具、モーター、家具、コンピューター、テレビ、その他あらゆるものを、国内でかかるコストの十分の一で組み立て、その後付加価値分への課税さえ済ませれば、再び国境の向こう側にある北米市場へ出荷することができる」
 マキラドーラというのは1965年に制定された保税加工制度で、北米からメキシコに輸入される部品等の関税をなくして、メキシコの安い労働力を活用しようとする意図でメキシコ北部に作られた工場群なのである。
 つまりマキラドーラは、グリンゴ達(よそ者、メキシコではアメリカ人のこと)の資本によって作られたグリンゴ達のための工場であり、そこではアメリカ国内賃金の十分の一でメキシコ人達(主に女性)が働いているのである。
 フエンテスはそこで働く女工達の姿を実に丁寧に描いている。彼女たちの夢と希望、幻想と喜び、幻滅と不幸、混乱と堕落をも。登場人物によればマキラドーラは1970年代に増え始め、80年代90年代に飛躍的に数を伸ばし、20万人もの雇用を生み出しているという。
 このことを頭に入れておくと、ロベルト・ボラーニョの『2666』の舞台となるサンタテレサという町の置かれている現実や、そこで起きる連続女性強姦殺人事件の背景もよく分かってくるのである。

 

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カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(2)

2015年12月22日 | ラテン・アメリカ文学

 まずこの『ガラスの国境』に何度も登場する、ドン・レオナルド・バロソという人物について触れておかなければならない。このバロソはマキラドーラの社主であり、ディズニーランディアと呼ばれる大豪邸に住み、プライベ-ト機を保有する大富豪である。
 このドン・バロソを中心として、多くの登場人物達が彼と直接的、間接的な関係をもっている。すべては金銭的な関係である。それを否定するにせよ、肯定するにせよ。またそれを知っているにせよ、知らないにせよ。
 フエンテスの『アルテミオ・クルスの死』は、この人物に似たアルテミオ・クルスという人物を主人公にした作品である。フエンテスはメキシコ革命の混乱に乗じて財産を築き、成功者として人生を送り、今はむなしく死の床に横たわるアルテミオ・クルスを通してメキシコの歴史そのものを描いている。
『アルテミオ・クルスの死』は過去を三人称で、現在を一人称で、未来は二人称で書くという実験的な作風をもち、フエンテスはそこでメキシコにおける大資本家の運命を、象徴的な手法で描いているのである。
『ガラスの国境』にはそのような意図はない。フエンテスはレオナルド・バロソの人物像を描こうともしないし、その内面に立ち入ろうともしない。バロソは単なるメキシコ人資本家であって、その周辺に登場する人物をこそフエンテスは描こうとする。フエンテスが『アルテミオ・クルスの死』で言う"凌辱された女"としてのメキシコとの関連において……。
 一人は「首都の娘」におけるミチェリナ・ラボルデ。この娘はバロソを代父とする絶世の美女で、金のためバロソとの関係を続けるために、バロソの息子と結婚さえする女である。彼らはリンカーン・コンチネンタルで、あるいはプライベート機で、自由に国境を越えるだろう。国境は自由に往還できる幻の膜にすぎない。
「メキシコとアメリカ合衆国を隔てるガラスの膜、幻でしかないガラスの敷居をぶち破って、その北側に伸びるもっと立派な高速道路を走り続ければ、行き着く先は魔法の町、光り輝く砂漠の誘惑……(後略)」
 もう一人は医学生フアン・サモラ。レオナルド・バロソの金銭的な支援で、ニューヨークのコーネル大学に留学し、そこで学ぶ不器用な若者である。彼が登場するのは「痛み」という作品だが、メキシコでは「痛い」は「恥ずかしい」とほぼ同義語なのだそうで、結局"恥のように痛い"作品として書かれている。
 フアン・サモラは読者に背を向けたまま自分のことを語る。恥ずかしいからである。彼をニューヨークで迎えたのは、米軍に不当な高額で商品を売って儲けるタールトン・ウィンゲートという男である。フアン・サモラは死体解剖の実験で一緒だったジムという学生と同性愛の関係となるが、ある日ジムに家主のことを批判される。
 恥=痛みはいろんな意味を持っている。ひそかに同性愛を続け、唾棄すべき人物の世話になっていること、ひいては同性愛を受け入れず、金だけを至上のものとするアメリカ的価値観に対する恥=痛み。フアン・サモラは留学を切り上げて、メキシコシティの貧民街に帰るだろう。
 この作品にウィンゲート一家が好奇心でメキシコシティのフアン・サモラの住居を訪ねてみようとする時の運転手が登場する。レアンドロ・レジェスというこの男は「賭け」という作品の主人公として、再び登場するだろう。
 フエンテスはフランスの大作家バルザックの「人間喜劇」の向こうを張って、「時間の年代」というメキシコの歴史と社会を総合する小説群を構築しようとした作家である。同じ登場人物が違った作品に出てくるのは「人間喜劇」の特徴であり、フエンテスもそれを真似ているのである。
 総体的にフエンテスがそのような壮大な試みに成功しているのかどうかは、作品を少し読んだくらいの私には分かるはずもないが、『ガラスの国境』は登場人物の出し入れに関してはかなり成功している作品だと思う。

 

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カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(1)

2015年12月21日 | ラテン・アメリカ文学

 ホセ・ドノソの『別荘』の後に読んだのは、同じチリの作家ロベルト・ボラーニョの『2666』であり、カルロス・フエンテスの『ガラスの国境』はその後に読んだので、本来ならボラーニョの『2666』を先に取り上げなければならないのだが、そうしないのには訳がある。
ボラーニョの『2666』は五つの部から成っていて、それぞれ独立した小説として読むこともできる。フエンテスの『ガラスの国境』の方は九つの短編から成る短編集であるが、それぞれが関連していて、連作短編集と呼ぶこともできるし、ひとつの長編として読むこともできる。
『2666』には五つの部を通して共通する人物が出てくるし、テーマもある一つのことに収斂していくという構成になっていて、『ガラスの国境』もまた同様である。ただ長さが圧倒的に違っているので、『ガラスの国境』を連作短編集と呼ぶなら、『2666』は連作長編集と呼ばなければならない。
 共通点はそれだけではない。『ガラスの国境』とはアメリカ合衆国とメキシコ合衆国の透明ではあるが強固な国境を意味していて、舞台は主にメキシコ北部の国境地帯に設定されている。『2666』の主要な舞台もまたメキシコ北部のサンタテレサという町に設定されているのである。
 さらに『ガラスの国境』では、アメリカとメキシコとの間の国境を越えた往還が、登場人物達が辿る軌跡であるのであり、それは『2666』にも共通している。
 またサンタテレサという架空の町は、1965年にできた保税加工制度(後ほど詳しく説明する)によって、メキシコ北部の都市に乱立したマキラドーラと呼ばれる工場群のある工業都市であり、そこで起きる事件が中核になっているのが『2666』という作品である。
 同じように『ガラスの国境』にも、マキラドーラとそこに勤める女工達が登場している。マキラドーラはアメリカとメキシコの国際的矛盾の象徴として捉えられていて、その点でも『2666』と共通しているのである。
 ロベルト・ボラーニョの『2666』という巨大で錯綜した作品を読む時に、カルロス・フエンテスの『ガラスの国境』は極めてよい手引きとなるだろう。フエンテスはメキシコ人であり、ボラーニョはチリに生まれメキシコで育った作家であった。『2666』が刊行されたのは、ボラーニョの死後の2004年、『ガラスの国境』の方は、1995年でそれほどかけ離れた時期に書かれたものではない。
 ところで『ガラスの国境』を読む時に、まず我々が我々自身のうちに気づかされるのは、メキシコとメキシコの歴史に対する徹底した無知に他ならない。訳者の寺尾隆吉は小説に注を付けるのを好まないから、理解できないスペイン語や英語がたくさん出てくる。
 だから読み終わってから分からないスペイン語や英語(人名や地名であったり、食べ物の名前であったり、経済や政治に関わる用語であったり)を、インターネットで徹底的に調べてみる必要がある。特に我々はメキシコの歴史についてほとんど知らないから、歴史に関わる人命や地名については知っておく必要がある。本当は「メキシコ史」の類をきちんと読むに超したことはないのだが……。
 しかしインターネットによる調査だけでも、『ガラスの国境』についての理解は格段に深まるだろう。しかもそれはボラーニョの『2666』を読む上でも、非常に有益なものとなるのである。

カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(2015,水声社「フィクションのエル・ドラード」)寺尾隆吉訳

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『別荘』を終えて……

2015年12月18日 | ゴシック論

 ようやくホセ・ドノソの代表作の一つ『別荘』について、27回の連載を終えることができた。私の最終目標はドノソの『夜のみだらな鳥』と『別荘』について、ゴシック小説という観点から論じてみるというということであったから、ここで目標の一つを果たしたことになる。
『夜のみだらな鳥』については、もうじき水声社から鼓直による新訳が出ることになっている。過去に集英社の「世界の文学」(1976)と、同じく集英社の「ラテンアメリカの文学」(1984)のそれぞれ一冊として読んでいるが、同じ鼓訳であるのに、微妙に翻訳が違っている。特にタイトルの由来となっている作家ヘンリー・ジェイムズの父、ヘンリー・ジェイムズの手紙から取ったエピグラフの訳はかなり違っている。
 水声社の新訳は決定訳となるであろうから、それを待って読みなおした方がいいだろうと思っている。しかし、それが出るまで私はどうやって過ごせばいいのだろうか。
 ところで、『別荘』の前がフエンテスの『アウラ・純な魂』について14回、その前がドノソの『この日曜日』4回、『境界なき土地』3回、アレナスの『パースの城』2回、ドノソの『ロリア侯爵夫人の失踪』3回、ビオイ=カサーレスの『脱獄計画』8回と連続して3か月半ほど、ラテン・アメリカの作家の作品を取り上げてきている。
 それはドノソを最終目標として、そこに到達するための準備作業という意味もあったのだが、理由はそれだけではない。ゴシック小説発祥の地イギリス本国では、ゴシック小説の水脈がなぜか途絶えてしまい、むしろその水脈はアメリカ文学の方に流れていったということは前に示した。
 しかし、アメリカ文学だけではなく、ラテン・アメリカの文学にもゴシック小説の水脈は連綿と流れているので、そのことをドノソだけではなく、フエンテス、アレナス、ビオイ=カサーレスなどの作家の作品を通してみておきたかったのである。
アメリカ文学とかラテン・アメリカ文学と言うより、その両方を意味する新大陸アメリカ文学と言った方がいいのかも知れない。現在世界の文学で最も読むに値するのは、この両大陸の作家達による作品群であるということを私は疑わない。
 しかもこのところ、ラテン・アメリカ文学の諸作品がどんどん新たに翻訳されていて、日本ではラテン・アメリカ文学のブーム再来のような様相を呈している。かつて読みたいと思っていても翻訳がないために、読むことを断念せざるを得なかった作品も次々と翻訳されてきている。『別荘』もその中の一冊であった。
 現在私は、ラテン・アメリカの作家達の作品を集中して読もうと思っている。先日、チリの作家ロベルト・ボラーニョの『2666』という、A5判、2段組、870頁の超大作も半月がかりで読むことができた。
 ボラーニョの作品などにもゴシック的要素がないわけではないが、この2003年に50歳で亡くなった作家の作品に、それ以前の世代に濃厚にあったゴシック小説への愛好の姿勢を見ることはできない。
 そればかりではなく、ラテン・アメリカ文学全体をゴシック的と括ることなどできるはずもないし、そんなことをしたらラテン・アメリカ文学の重要な要素を見過ごしてしまうことは明らかであるからだ。
 したがって、ドノソの『別荘』をもって「ゴシック論」はしばらく中断ということにして、新しく「ラテン・アメリカ文学」というジャンルを立てて、さらに先に進めていきたいと思っている。
 よろしくご愛読のほどを……。

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ホセ・ドノソ『別荘』(27)

2015年12月17日 | ゴシック論

⑥―2
『別荘』のラストは、この"作り話にすぎない"物語にふさわしく、まったく奇想天外なものだが、これまで非現実的な登場人物や非現実的なストーリー、あるいは非現実的な時間設定などによって、ドノソの物語に馴致させられてしまった読者にとっては、ラストシーンは極めて切実なものとなる。おそらく、読者の想像力と作者の想像力が一つになる瞬間がやってくるのである。
 グラミネアの綿毛が嵐となって別荘に襲いかかってくる。子供達は一年前の経験から原住民達の智恵によって、そんな時どうすればいいのか分かっている。しかし、親達も使用人たちもそんなことはまったく知らない。
 もはや手遅れであることも知らず、フアン・ペレスとベントゥーラ一族の男達は、ぼろ馬車で別荘から脱出しようとする。彼らは荒野の綿毛に窒息して死ぬ運命にある。また暢気なことに、バラの花の様子を見に外へ出たセレステと、それを追って外に出たオレガリオもまた、綿毛に窒息して死ぬことになるだろう。
 やがて綿毛は別荘の内部にまで侵入してくる。そんな時、ウェンセスラオが言った「このマルランダで生き延びるために昔から取られてきた方法を、この地域について我々より詳しく知っている人々に教わればよい」という言葉は、どこまでも正しいことを証明するのだ。ウェンセスラオはそれを実践するだろう。
「原住民たち、そしてウェンセスラオとアガピートは、ダンスホールの真ん中へ集まった後、クッションに身を投げるスルタンよろしく、寝椅子でもない白黒の大理石の床にゆっくりと身を投げると、ビバークの形になって、互いに顔を胸や足の上に乗せ合って休み始めた」
 原住民達の智恵に従って、こうしてじっと動かず、必要最小限の空気をゆっくりと呼吸し続けることで、綿毛の嵐をやり過ごすことができるのだ。子供たちの間で一年間という時間が経過していることの、伏線としての機能がここで効いてくる。
 子供達は生き延びなければならない。歴史の暴力を超えて生き延びなければならない。チリのクーデターに触発されて書かれた『別荘』の最後の主張なのだろう。ドノソはここでチリの国民に対する希望を語っているのに違いない。最後の一節は次のように書かれている。
「だが、自分たちは生きていかねばならない。縦縞のマントを被った男が演壇から生存のリズムを奏で続け、その鈍い響きが彼らの耳にまで届いてきた。他に選択肢などなく、むしろ当然のことと受け止めていた彼らは、黙ってその指示に従った。すぐにダンスホ-ルには、原住民の女たちが編んだ縦縞のマントに身を包んだ大人、子供、原住民が入り混じって横たわり、クッションの間で互いに支え合うような恰好で彼らが息を潜め、眼を閉じ、口を固く閉ざし、ほとんど生命活動を停止させる一方、騙し絵(トロンプ・ルイユ)の壁画に描かれた人間たちは、優雅な姿でてきぱきと働き、綿毛で重くなった空気に人々が窒息してしまわぬよう気を配っていた」
 この一節で『別荘』は終わりを告げる。「原住民の女たちが編んだ縦縞のマントに身を包んだ大人」とは、アドリアノ・ゴマラを指しているのであろう。彼もまた生き延びる権利を与えられているのだ。
 しかし、彼らを助けようとする「騙し絵の壁画に描かれた人間」とはいったい何者なのだろう? 最後の場面で『別荘』は謎のような幻想性を見せて終わる。
 この人間達は第4章「侯爵夫人」で、フベナルが親達の武器を奪おうとする場面で、ダンスホールの天井や壁面に絵かがれている「騙し絵」の中の人物として登場していたことを思い出さなければならない。
 この天井や壁面に描かれていたのはおそらく、ベントゥーラ一族の遠い祖先、旧大陸の人間達の姿なのである。彼らは古い歴史の記憶を象徴し、それ故に旧大陸からやって来たのであろう、グラミネアの綿毛にも抵抗力を持っているのである。
 最後にあの「言葉の波が、登場人物、時間、空間、心理学、社会学を打ち砕いていく」というドノソの言葉を思い出しておこう。まるで、すべてのものを破壊し、なぎ倒していくグラミネアの綿毛を表現するような言葉ではないか。"語り"を主人公たらしめているのは、このグラミネアでありそれが放つ綿毛であると言った意味を読み取っていただきたい。
(この項ようやくおわり)

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