桜は散り際がいい。昨年に引き続いて、仲間と赤坂山公園の穴場とも言える一隅で花見を楽しんだ。そよ風がビールや日本酒を注いだビニールコップに、桜の花弁を運んできて散らす。なんと風流な趣だろう。
酔っているうちに、誰が始めたのか、死体の話になった。なんという悪趣味だ。せっかくの風流も台なしではないか。快晴に恵まれた花見日和にする話題ではない。話の発端は、博物館でやっている海岸で漂流物を拾う「渚の会」の参加者がいたため、先日海岸に打ち上げられた身元不明の死体の話になったのだった。
この手の話はエスカレートすることに決まっていて、「〓死体ほど気持ちの悪いものはない」だの、「轢死体の方がもっとひどい」だのという話が続き、死体の様子を描写する者もいた。少なからず皆、変死体を見た経験があるようで、中には、縊死による自殺者の死体を発見した体験を生々しく語り出す者さえいた。
「興をそぐからやめよう」ということになり、話は終結したが、誰が言うともなく「桜の花の下だもんね。こんな話も出る」と言われ納得した。梶井基次郎の「桜の樹の下には」を踏まえた言葉だ。梶井は、こんな気味の悪い文章を残している。
「屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちやくの食糸のやうな毛根を聚めて、その液体を吸っている」
だから、「桜の花はあんなに見事に咲く」というのが梶井が言いたかったことだ。美と醜の絶対的背反を見事に同一化してみせた。文学的な感性の伝統をつくり上げた。西行のいささか美的にすぎる願望を詠んだあの有名な歌よりも、重く響いてくる文章だ。
そして、少しばかり文学的な饗宴は、いつ果てるともなく続き、桜も屍体も忘れられて、「花よりダンゴ」に移行していくのだった。
酔っているうちに、誰が始めたのか、死体の話になった。なんという悪趣味だ。せっかくの風流も台なしではないか。快晴に恵まれた花見日和にする話題ではない。話の発端は、博物館でやっている海岸で漂流物を拾う「渚の会」の参加者がいたため、先日海岸に打ち上げられた身元不明の死体の話になったのだった。
この手の話はエスカレートすることに決まっていて、「〓死体ほど気持ちの悪いものはない」だの、「轢死体の方がもっとひどい」だのという話が続き、死体の様子を描写する者もいた。少なからず皆、変死体を見た経験があるようで、中には、縊死による自殺者の死体を発見した体験を生々しく語り出す者さえいた。
「興をそぐからやめよう」ということになり、話は終結したが、誰が言うともなく「桜の花の下だもんね。こんな話も出る」と言われ納得した。梶井基次郎の「桜の樹の下には」を踏まえた言葉だ。梶井は、こんな気味の悪い文章を残している。
「屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでゐて水晶のやうな液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のやうに、それを抱きかかへ、いそぎんちやくの食糸のやうな毛根を聚めて、その液体を吸っている」
だから、「桜の花はあんなに見事に咲く」というのが梶井が言いたかったことだ。美と醜の絶対的背反を見事に同一化してみせた。文学的な感性の伝統をつくり上げた。西行のいささか美的にすぎる願望を詠んだあの有名な歌よりも、重く響いてくる文章だ。
そして、少しばかり文学的な饗宴は、いつ果てるともなく続き、桜も屍体も忘れられて、「花よりダンゴ」に移行していくのだった。
(越後タイムス4月28日「週末点描」より)