玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(3)

2015年04月29日 | ゴシック論
 E・T・A・ホフマンの多くの作品において特徴的なのは、その幻想的な場面の奇想天外さと迫真性である。ホフマンの破天荒な想像力は他に比肩するものがないほどの幻想描写を可能にしている。
『悪魔の霊酒』においてもそれは例外ではなく、いくつかの幻想的場面があるが、なかでも凄いのは、小説後半で罪を悔いたメダルドゥスが贖罪の苦行を果たしながら、時折見る悪夢の場面だろう。ホフマンの真骨頂である。
「騒ぎはますます気違いじみていき、さまざまな姿の化け物たちは、いっそう奇怪で奇抜な形に化け、人間の脚をして踊りまくる小さな小さな蟻から、ぎらぎら光る目をもつ長い長い胴体の馬の骸骨まで、それはさまざま。この馬の骸骨の皮はそれがそのまま鞍敷そのものになっていて、光を放つ梟の頭をした騎士が乗って跨っている」(第二部第三章「贖罪の苦行」より)
 ほとんどシュルレアリスム絵画を思わせるような描写であり、グリューネヴァルトの〈聖アントニウスの誘惑〉の世界そのままである。ホフマンはグリューネヴァルトのこの作品を見ていたのだろうか。
 ホフマンが手本にしたルイスの『マンク』にはこのような幻想的な場面はないし、あったとしてもルイスの力量ではこれだけの破天荒な迫真性を持った描写をは不可能だっただろう。
 だから他にもいくつも『悪魔の霊酒』が『マンク』を凌駕している要素はたくさんあるのだが、その一つがホフマンの奇想天外な想像力にあることは間違いない。
 ところで、ホフマンの幻想描写には、いつでも滑稽味がつきまとう。暗くおどろおどろしいだけではなく、ある種の軽妙さがそこには感じられる。それこそホフマンの言う“カロ風”の味わいなのである。『悪魔の霊酒』に先だって書かれた『カロ風幻想作品集』という作品もあり、ホフマンは『悪魔の霊酒』に「カロ風幻想作品集著者の編纂によりて」というサブタイトルを付けている。
 ゴシック的ということとカロ風ということとはイコールではないだろうが、それらが共鳴しあうことは可能である。そうした共鳴の姿を我々はベルトランの『夜のガスパール』に見たばかりである。


E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(2)

2015年04月28日 | ゴシック論
 ちくま文庫版『悪魔の霊酒』上巻のカバーにはドイツ16世紀の画家マティアス・グリューネヴァルトの〈聖アントニウスの誘惑〉という作品が使用されている。聖アントニウスの誘惑をテーマに描かれた作品は美術史上多数あって、ヒエロニムス・ボッシュやミケランジェロ、ルドンなどの作品が有名だ。20世紀になってもマックス・エルンストやサルバドール・ダリがこれをテーマに描いている。
 しかしグリューネヴァルトの〈聖アントニウスの誘惑〉ほどに、グロテスクで醜怪な作品は他にはない。聖人を誘惑する(というよりも攻撃する)化け物どもの奇怪な姿だけではなく、実際に伝染病にかかった皮膚の人間らしき者も描かれていて、そのリアルな描写は他に類を見ない。
 さて、ホフマンの『悪魔の霊酒』は聖アントニウスを誘惑するために悪魔が使ったとされる霊酒が修道院に残されていて、それを飲んだメダルドゥスが悪の道へ陥っていくという物語であり、“聖アントニウスの誘惑”が重要なモチーフになっているので、筑摩書房がグリューネヴァルトのこの作品をカバーに使った意図は十分に伝わってくる。
 ちなみに下巻のカバーに使われているのもグリューネヴァルトの作品で、こちらも〈イーゼンハイム祭壇画〉に含まれる〈天使の奏楽〉という作品。こちらは天国のイメージを持った対照的な作品で、メダルドゥスの救済を象徴するものとして選択されたのだろう。
 では、なぜグリューネヴァルトかと言えば、『悪魔の霊酒』はホフマンが影響を受けた『マンク』以上にグロテスクで醜怪な作品であるからであり、世に多くある〈聖アントニウスの誘惑〉の中で最もグロテスクなグリューネヴァルトの作品でなければならなかったのだろう。
 後で詳しく書く予定だが、『悪魔の霊酒』は『マンク』に比べてより濃密なゴシック性をもった作品である。『マンク』には歴史的な奥行きはないが、『悪魔の霊酒』は聖アントニウスの伝説を踏まえて、より遠い時代の反響を届かせている。
 また、登場人物の重層性において『悪魔の霊酒』は『マンク』を遙かに凌いでいて、主人公からその祖先までの年代は五世代にも亘っている。ゴシック的であるという意味の一つに“因縁”ということがあると思うが、主人公メダルドゥスは四世代前の先祖の“因縁”に縛られているのである。つまり血縁のゴシック性が『悪魔の霊酒』の主要な背景になっているのだ。


グリューネヴァルト〈聖アントニウスの誘惑〉部分


グリューネヴァルト〈天使の奏楽〉部分

E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(1)

2015年04月27日 | ゴシック論
 E・T・A・ホフマンの作品を“ゴシック的”と言うことはできない。ホフマンは“ゴシック的”というよりも、ドイツロマン派の多くの作家の作品がそうであるように“メルヘン的”な作品を主に書いた作家である。 
 しかし『悪魔の霊酒』だけは例外的に“ゴシック的”と言う他はない。なぜならホフマンは『悪魔の霊酒』をあのマシュー・グレゴリー・ルイスの『マンク』の影響のもとに書いたのだからである。
 修道士が悪徳の主人公であるという設定も同じ、スペインとドイツの違いはあれ、どちらも舞台をカプチン会修道院としているところも同じ、情欲に狂った修道士が殺人を犯すところもそっくりだし、近親相姦まがいの男女関係はあるは、幽霊の出現はあるは、『悪魔の霊酒』はホフマン版『マンク』に他ならないのだと言ってもよい。
『マンク』の影響のもとに書かれたという証拠は、今挙げた両作品の類似に求められるが、ホフマンは女主人公アウレーリエの書簡の中で、彼女が兄の部屋で『マンク』の翻訳本を見つけて読む場面を描いて、自らその影響を暴露してもいる。
『マンク』が悪徳の主人公アンブロシオの熱狂的な説教の場面から始まるように、『悪魔の霊酒』もまた、主人公メダルドゥスが町を宗教的狂熱に陥れんばかりに能弁な説教を行う場面を巻頭近くに設定している。
 この場面については訳者深田甫の訳註が付いていて、なぜかこの註がまったく『マンク』に言及していないことに疑問を感じないわけにはいかない。ツァハリアス・ヴェルナーであるとか、ジロラモ・サヴォナローラであるとか、歴史上の修道士には言及するが、『マンク』のアンブロシオにはまったく触れていないのである。
 訳者の深田甫は多分ルイスの『マンク』を読んでいないとしか考えられない。解題ではルイスの『マンク』に触れているのに、なんということだろう。昔の学者さんは自分の専門以外の国語の作品を読まなかったのだろうか。
 それに、深田甫の訳註は衒学的に過ぎていけない。「霊酒」Elixirについての訳註が最初にあるが、それだけで文庫本で3頁もある。ホフマンを読むときに衒学的な解説は不要である。
エルンスト・テーオドール・アマデーウス・ホフマン『悪魔の霊酒』上下(2006年、ちくま文庫)深田甫訳


アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(9)

2015年04月23日 | ゴシック論
 なぜモーリス・ラヴェルが新「スカルボ」ではなく、原「スカルボ」の方を作曲したのかということについて、「複雑と単純」ということを言ったが、むしろそのことよりも新「スカルボ」に比べて原「スカルボ」の方が“叙景的”であるためということは言えるだろう。
 新「スカルボ」はスカルボと“私”との対話で成り立っていて、その内容は経帷子をめぐるやりとりであり、かなり観念的なものである。原「スカルボ」の方はスカルボが現れ、消えていくまでを、まさしくOndineが出現し、消えていくまでを描いているように、スカルボの動きを捉えて叙景的であり、絵画的である。
 絵画的な作品の方が作曲に向いているのは言うまでもないことで、とりわけラヴェルの曲には絵画的な作品が多い(〈展覧会の絵〉のオーケストラ編曲も含めて)。原「スカルボ」をラヴェルが選んだ理由と言えるだろう。
 では原詩を。

                    SCARBO

Il regarda sous le lit, dans la cheminée, dans le bahut ; — personne. Il ne put comprendre
par où il s’était introduit, par où il s’était évadé.
HOFFMANN. — Contes nocturnes.

Oh ! que de fois je l’ai entendu et vu, Scarbo, lorsqu’à minuit la lune brille dans le ciel comme
un écu d’argent sur une bannière d’azur semée d’abeilles d’or !

Que de fois j’ai entendu bourdonner son rire dans l’ombre de mon alcôve, et grincer son ongle
sur la soie des courtines de mon lit !

Que de fois je l’ai vu descendre du plancher, pirouetter sur un pied et rouler par la chambre
comme le fuseau tombé de la quenouille d’une sorcière !

Le croyais-je alors évanoui ? le nain grandissait entre la lune et moi comme le clocher d’une
cathédrale gothique, un grelot d’or en branle à son bonnet pointu !

Mais bientôt son corps bleuissait, diaphane comme la cire d’une bougie, son visage
blémissait comme la cire d’un lumignon, — et soudain il s’éteignait.

 序詩を省略していない。E・T・Aホフマンはジャック・カローを愛し、代表作『悪魔の霊酒』には「カプチン会修道士メダルドゥスの遺稿、カロ風幻想作品集著者の編纂によりて」(普通“カロ”と表記するが、『夜のガスパール』の訳者及川茂は“カロー”と表記している)というサブタイトルが付されている。『夜のガスパール』もまた「レンブラント、カロー風の幻想曲」の副題を持っていたことを思い出してもよい。特にこの「Scarbo」はその軽妙でいたずらっぽい夢魔の性格から、最もカロー風の作品と言ってもよい。
 だからラヴェルもカロー風に仕上げている。ベルトランはScarboの変幻自在な動きを言語化しているが、ラヴェルも洪水のような細かい音の連続でScarboを表現している。予測不可能な音の連続はScarboの予測不可能な動きに対応している。
 スカルボの幾分剽軽で目まぐるしい動きをよく表しているのは第三連だろう。この辺りがラヴェルのアクロバティックな細かい旋律で非常に的確に表現されている。また、le nain grandissait entre la lune et moi comme le clocher d’une cathédrale gothiqueの部分をラヴェルは、大胆なクレシェンドとffやfffで再現している。(nainはこびとの意。スカルボは頻繁にnainとも呼ばれる。)
 ところでle clocher d’une cathédrale gothiqueを及川は「カテドラルの鐘楼」と訳しているが、なぜベルトランが偏愛したgothiqueの部分を省略して訳したのか理解できない。
 最後はet soudain il s’éteignait.「そして突然消え失せた」で終わるのだが、〈Ondine〉がelle s’évanouitで終わるのに似ている。ラヴェルはこちらは和音で終わらせず、上下する七音で終わらせて変化をつけている。
(この項おわり)



アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(8)

2015年04月20日 | ゴシック論
 詩人ベルトランにとっては聴覚現象も視覚現象も、詩的感受性に受け止められるときには同じ現象の違った現れに過ぎない。ボードレールの言うコレスポンダンスの世界である。ベルトランが『夜のガスパール』で、絵画に触発されて作品を書いたことは前に言ったが、ベルトランはそこで視覚的現象を言語的現象に置き換えているわけである。さらにモーリス・ラヴェルはベルトランの詩を聴覚的現象に翻案しているわけだから、二人の目的としたものには、諸感覚の意識的な混交であると言ってもいいだろう。
 ラヴェルの曲はその多くが“色彩感覚”に溢れていると言われている。オーケストラ曲はむろんのこと、ピアノ曲で最も“色彩感覚”を感じさせるものの一つがこの〈Le Gibet〉ではないだろうか。
 ラヴェルの〈Le Gibet〉の始まりに戻る。不吉で不安を掻き立てる変ロ音に対応しているのはla cloche qui tinteである。これは「Le Gibet」の最終連に出てくる言葉であり、ラヴェルは〈Ondine〉の場合のように最初からベルトランの詩句をなぞっていくわけではない。
しかしラヴェルが鐘の音を主調音にしたことは、この詩編に対する深い理解があったからこそと言うことはできる。ce que j’entends?という自問に対する解答が最終連で与えられているのであり、それを主調音とすることはラヴェルにとって当然のことであっただろう。
 曲は変ロ音にからみつく主題のヴァリエーションによって彩られる美しい旋律によって特徴づけられる。変ロ音とは違って場違いなほど美しい主題であって、それがこの曲における美と醜との相克を演出している。対立する二つの要素、不安を駆り立てる変ロ音のゴシック的音素と主題のロマンティックな美しさが、この曲にあっては二律背反的に共存しているのである。
 主題の変奏は原詩のce que j’entends?という問いへの様々な答えに対応している。その変奏が“色彩”を感じさせて止まない。ラヴェルの天才が可能にした“諸感覚の混交”というものを我々は感じ取らなければならない。

アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(7)

2015年04月19日 | ゴシック論
「絞首台」Le Gibetもまた、原「スカルボ」と同様『夜のガスパール』本編に入れられなかった作品である。その理由は原「スカルボ」の場合と同じであろう。どちらもロマンティックな“私”の苦悩を描いて、『夜のガスパール』が真に目指したものとは違う部分を持っているからである。
 第一に『夜のガスパール』本編には原「スカルボ」や「絞首台」のように一人称で書かれた作品は第三の書「夜とその魅惑」La Nuit et ses prestigesのいくつかの作品を除いて全くないのである。このことはベルトランが一人称で語られる“魂の叫び”のようなものを目指したのではないことを証明している。
 ところでモーリス・ラヴェルは〈夜のガスパール〉の中にベルトランがはずした〈絞首台〉と原〈スカルボ〉の二曲を入れた。これが何を意味しているのかについては原「スカルボ」と新「スカルボ」の比較で見なければならないが、やはりその単純明快さが理由の一つであったことは明らかであろう。「絞首台」も原「スカルボ」も一人称で書かれた分かりやすい作品である。あまり複雑な内容では作曲が難しくなるからということもあっただろう。
 では原詩を(序詩は省略)。

                 LE GIBET

Ah ! ce que j’entends, serait-ce la bise nocturne qui glapit, ou le pendu qui pousse un soupir sur la fourche patibulaire ?

Serait-ce quelque grillon qui chante tapi dans la mousse et le lierre stérile dont par pitié se
chausse le bois ?

Serait-ce quelque mouche en chasse sonnant du cor autour de ces oreilles sourdes à la fanfare des hallali ?

Serait-ce quelque escarbot qui cueille en son vol inégal un cheveu sanglant à son crâne
chauve ?

Ou bien serait-ce quelque araignée qui brode une demi-aune de mousseline pour cravate à ce
col étranglé ?

C’est la cloche qui tinte aux murs d’une ville, sous l’horizon, et la carcasse d’un pendu que
rougit le soleil couchant.

ラヴェルの〈Le Gibet〉は執拗に繰り返される変ロ音に支配されている。最初から最後までこの不吉で不気味な音が鳴り響く。この音に対応するのは何かと言えば、最終連にあるla cloche qui tinte aux murs d’une villeなのであり、それは同時にla carcasse d’un pendu que rougit le soleil couchantでもある。ここで聴覚的な現象が視覚的な現象と同類のものとされていることに注意しなければならない。
(〈Le Gibet〉つづく)

アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(6)

2015年04月17日 | ゴシック論
 私は若い頃、モーリス・ラヴェルとヨハン・セバスチャン・バッハ以外の音楽をまったく聴かないという3年間を過ごしたことがある。バッハはともかくとして、ラヴェルの曲は声楽を含めて殆ど聴き尽くした。
 その中でも〈夜のガスパール〉は特別な曲で、今でも大好きなピアノ曲である。ということで、ベルトランの原詩とラヴェルの曲とを読み比べ、聞き比べてみることにした。音楽は素人なのでご容赦を。
 まずはベルトランの「ONDINE」から(序詩は省略する)。

                    ONDINE

— « Écoute ! — Écoute ! — C’est moi, c’est Ondine qui frôle de ces gouttes d’eau les losanges sonores de ta fenêtre illuminée par les mornes rayons de la lune ; et voici, en robe de moire, la dame châtelaine qui contemple à son balcon la belle nuit étoilée et le beau lac endormi.

» Chaque flot est un ondin qui nage dans le courant, chaque courant est un sentier qui serpente vers mon palais, et mon palais est bâti fluide, au fond du lac, dans le triangle du feu, de la terre et de l’air.

» Écoute ! — Écoute ! — Mon père bat l’eau coassante d’une branche d’aulne verte, et mes
sœurs caressent de leurs bras d’écume les fraîches îles d’herbes, de nénuphars et de glaïeuls, ou se moquent du saule caduc et barbu qui pêche à la ligne. »

Sa chanson murmurée, elle me supplia de recevoir son anneau à mon doigt, pour être l’époux d’une Ondine, et de visiter avec elle son palais, pour être le roi des lacs.

Et comme je lui répondais que j’aimais une mortelle, boudeuse et dépitée, elle pleura quelques
larmes, poussa un éclat de rire, et s’évanouit en giboulées qui ruisselèrent blanches le long de mes vitraux bleus.

 第1連は極めて抒情的である。それが最終連とのギャップを用意しているのだが、それはラヴェルの〈Ondine〉でも変わらない。〈Ondine〉は音の雫のような細かい高音の連続で始まるが、原詩の方はÉcoute ! — Écoute !というオンディーヌのいささか強い響きの呼びかけに始まる。ここはラヴェルが“水の精”の登場を描写している部分であり、この相違はやむを得ないものだと思う。大きな違いは冒頭の部分だけで、ラヴェルは原詩に極めて忠実に作曲していると言える。
 Écoute ! — Écoute ! — C’est moi, c’est Ondine……の部分が第1主題として左手で演奏される。それが様々に展開されていき、やがて第2主題が現れてくるが、それはオンディーヌが“私”を湖の底にある水のお城へと誘う科白に対応しているようだ。
 原詩では第3連にÉcoute ! — Écoute !が再度現れるが、それに対応しているのが、第1主題の再現ということになるのだろう。それにしても間断なく続く高音の細かい連続が、水そのものの振る舞いを思わせて美しい。
 ラヴェルの水にまつわる曲は〈オンディーヌ〉の他に〈水のたわむれ〉Jeux d’eauと〈海原の小舟〉Une barque sur l'oceanがあるが、いずれも高音の細かい連続において共通している。ただし〈Ondine〉は他の2曲と比べて、低音部が強調されて不気味な雰囲気が表現されているように思う。ラヴェルもまた〈Ondine〉を単に抒情的でロマンティックなだけの曲に終わらせていないのである。
〈Ondine〉のコーダはベルトランの原詩の最終連に対応している。オンディーヌは“私”に嫌われてしまうと、elle pleura quelques larmes, poussa un éclat de rire……。この部分も〈Ondine〉を聴いていると手に取るように分かる。ラヴェルはベルトランの原詩にあくまでも忠実なのである。
 コーダの最後に右手で軽くたたく和音。唐突に曲は終わる。それは詩句s’évanouit(消え去った)に対応している。原詩はbleus(青い)で終わるが、音楽は時系列的に進行せざるを得ないからここもやむを得ないだろう。見事な終わり方である。





アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(5)

2015年04月15日 | ゴシック論
 新「スカルボ」に対して原「スカルボ」は詩人の苦悩を歌って、あまりにもロマンティックであり、レンブラント風でもなければカロー風でもない。一方新「スカルボ」はといえば、“私”というものが背後に退き、スカルボが前面に出てゴシック的であり、カロー風でもある。特に最後の連は「ゴチック部屋」と同様に、極めてゴシック的であると言える。
「そして聖ベニーニュの薄暗い地下の納骨堂に、お前を壁によりかからせたまま葬ってやろう。そこでお前は気の向くままに、地獄で泣く子供たちの声を聞くことだろう。」
 ところでなぜ「オンディーヌ」が本編に残され、原「スカルボ」がはずされたのかについて考えてみよう。オンディーヌはヨーロッパの民間伝承に伝わる“水の精”であり、後期ドイツロマン派のモット・フケーが『ウンディーネ』(オンディーヌのドイツ語読み)という大変ロマンティックな物語に仕立てたことで知られている。フケーのウンディーネの物語は水の精と人間との恋の物語であり、ウンディーネは人間への愛を貫くが、ベルトランのオンディーヌはそうではない。
 オンディーヌは“私”に「夫となって湖の王として、ともにその宮殿を訪れよう」と誘うが、“私”が「自分はやがて死ぬ運命にある人間の女の方が好きだ」と答えると、
「機嫌を損ね恨みを胸に、幾雫かの涙を流したかと思うと、突如喊高い声をあげ、青い窓ガラスに白々と流れる水滴となって消え去った」
のである。
“オンディーヌ”というロマンティックなイメージとは逆に、フケーとは違ってあまりにも散文的であり、ある意味でカロー風でもある。『夜のガスパール』でベルトランが目指したのがそのような世界であるということは、それが旧来からの韻文定型詩で書かれず、散文詩として書かれたことからして当然のことでもあった。
「絞首台」Le Gibetもまた原「スカルボ」と同様ロマンティックに過ぎて、本編に残されなかったことを考えると、ベルトランが目指したものが見えてくる。
ロマン主義全盛の時代にはロマンティックとゴシックということが分かちがたく結びついていたのだが、ベルトランはゴシック的であることを保持しながら、ロマンティックなものから遠ざかろうとしていたのだということが。
『夜のガスパール』はベルトランの死後、ボードレールによって発見、再評価され、ボードレール自身の散文詩の試みにつながっていく。散文詩集『パリの憂鬱』Le Spleen de Parisがそれである。
ボードレールにおいてさえ『悪の華』はロマン主義の残り香を漂わせているが、『パリの憂鬱』によって初めて、ロマン主義が目指したものとはまったく違う“現代性”Modernitéを獲得することができた。
 ベルトランはボードレールのように“現代性”を追求したのではなく、中世やゴシック建築にこだわり、ゴシック的なもののうちに止まったのではあるが、その散文詩という形式は極めて新しいものであった。それこそベルトランが生前まったく理解されなかった大きな理由であったろう。


フケーの『ウンディーネ』



アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(4)

2015年04月14日 | ゴシック論
 悪夢の精スカルボは「ゴチック部屋」の他にもいくつかの詩編に登場する。もちろん第三の書二番目の「スカルボ」にも。しかし本編に置かれた「スカルボ」は、本来は「スカルボ」ではなく原題は「死衣」Linceul(経帷子だと思う。訳者は注で「死衣」と書いているが、本文に何度もlinceulが出てくる)だった。
 内容的にもスカルボが“私”の死後「経帷子のかわりに蜘蛛の巣を着せ、蜘蛛と一緒に埋葬してやろう」と言うのに対し、“私”が抗議するというものになっている。せめて“白楊の葉” une feuille du trembleを経帷子として欲しいと“私”は言うのである。だから「Linceul」のタイトルがふさわしい。
 もともとの「スカルボ」は原稿から除外されて、遺稿として発見された作品で、『夜のガスパール』では巻末の「作者の草稿より抜粋したる断章」の中に収められている。モーリス・ラヴェルが曲にしたのは原稿からはずされた「スカルボ」の方で、こちらの「スカルボ」の方がロマンチックな苦悩を描いていて分かりやすい。
 たとえば原「スカルボ」は
「ああ! 幾度私は奴の声を聞き、奴の姿を見たことか、スカルボを! 黄金の蜂を散りばめた紺青の旗の上に、月が銀の楯のように輝く真夜中に!」
と始まり
「しかしまもなく奴の身体は蝋燭の蝋のように青ざめ透きとおり、その顔は燃え残りの炎のように青白く、――そして突然消え失せた。」
と終わる。
 新「スカルボ」と比べて単純であり、ゴシック的要素も少ない。ベルトランが捨てた理由も、ラヴェルが拾った理由もよく分かろうというものだ。
 他にもスカルボは「白痴」Le Fouと「小人」Le Nainという作品にも出現していて、第三の書全体の残酷なトーンを支配している。そして第三の書の中で最もゴシック的な作品と言えるのが「夢」Un rêveという作品であろう。
「それから次に私の見たままを語れば、――喪を告げる鐘の音とそれに応える独房の啜り泣き、――小枝の葉っぱの一枚一枚をおののかせる哀しい叫びと惨忍な哄笑、――刑場に引かれる囚人につきそう、黒衣の告解僧の唸るような祈りの声」
 まるで『マンク』や『放浪者メルモス』の一場面を思わせるような一編である。しかしこれもまた“夢”である。ベルトランにとってゴシック小説は見果てぬ夢であったのである。



アロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』(3)

2015年04月13日 | ゴシック論
 第1の序「夜のガスパール」の次には、この詩集の二つの性格を宣言する第2の「序」が控えている。この「序」の署名は「夜のガスパール」。しかし当然のことながら、そこにはベルトラン自身が意図したものこそが語られている。次のように。
「芸術は常に相対峙する二つの面を持っている。言ってみれば、片面はポール・レンブラントの、もう片面はジャック・カローの風貌を伝える、一枚のメダルのようなものである」
 レンブラントの名前を“ポール”と書いているのはベルトランの間違いで、正しくはもちろんレンブラント・ファン・レインであり、あの〈夜警〉で有名な17世紀オランダの画家である。一方ジャック・カローはやはり17世紀イタリアの版画家で、軽妙で戯画的な作品を多く残した。つまり芸術というのは重厚沈着で厳粛な要素と、軽妙洒脱かつ猥雑な要素の両方を併せ持つと言っているのである。
 そしてこの散文詩集で実現されているのも、この二つの要素、あるいはそれらが絡み合ったものということになる。またこの序で名前の挙げられている、アルブレヒト・デューラー、ブリューゲル父子、ムリロ、フュゼリなどの絵画作品にインスピレーションを得て書かれた作品があることも、ここで示唆されている。
 詩集は第一から第六の書に分かれている。第一の書「フランドル派」École Flamande、第二の書「古きパリ」Le Vieux Paris、第三の書「夜とその魅惑」La Nuit et ses prestiges、第四の書「年代記」Les Chroniques、第五の書「スペインとイタリア」Espagne et Italie、第六の書「雑詠」Silvesとなっている。
 ここで、前に取り上げたイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』もまた、第一歌から第六歌までの構成であったことを思い出してもよい。デュカスが同じ散文詩である『夜のガスパール』を参照しなかったはずはないので、影響関係を探ることは可能と思うが、今は触れない。
 集中、最もロマン主義的で、ゴシック的意匠に彩られているのは第三の書「夜とその魅惑」であろう。最初の作品は「ゴチック部屋」と題され、いきなり“スカルボ”のオプセッションが現れてくる。“スカルボ”はベルトランが創造した“悪夢の精”であり、それは「私の首に噛みつき、かまどで真っ赤に焼けた鉄の指を差しこんで、血まみれの傷口を焼き切ろう」とするのである。


レンブラント〈テュルプ博士の解剖学講義〉


カロ〈二人の道化師〉