東日本大震災から三年目の三月十一日、テレビでは多くの特集番組が組まれていたが、何も観なかった。ただし、当日東本町一の「あまやどり」で行われた合同追悼式を取材させてもらって、参加者の方々と一緒に黙祷した。
大熊町からの避難者の方と話すことができたが、「一年目、二年目はともかく、三年目には涙も出ない」とのことだった。柏崎への避難者は、帰宅困難区域に居住していた人達が多く、現在も九百四十一人(二月末現在)の方々が避難生活を余儀なくされている。
「いつ帰れるか分からないが、いつか帰れると思わなければ、とてもやっていけない」との大熊町の女性の悲痛な声に言葉もなかった。「あまやどりに集まって手芸を楽しんだり、柏崎の人と交流したりすること」だけを支えに、これまでの三年間を過ごしてきたという。
福島県から県外への避難者は二月十三日現在で四万七千九百九十五人を数え、県内避難者を含めれば、未だに約十四万人もの人々が避難生活を強いられている。原発関連死も千人を超えたという。歴史上、戦乱の時代を除いて、このような事態はまったく稀有なことであって、私どもはそのことを忘れてはならない。
それにしても「あまやどり」とは。一時的に雨露をしのぐ場所であったはずの場所は、この先何年続くことになるのだろう。避難者の中には永住を決めた人もいれば、福島県に帰っていく人もいる。帰るといっても故郷に帰れるわけではなく、いわき市などに移住せざるを得ないのだ。いわき市の人口は、この間二万人も増えたという。
「あまやどり」には各市町村の花や木が飾られていた。その中に「栴檀」があった。双葉町の木である。「栴檀は二葉より芳し」という諺からきている。福島県では栴檀はありふれた木で、その実を鳥達が好んで食べ、あちこちに種を撒く。だから至る所に芽を出すのだそうで、それほどに繁殖力の強い木であるらしい。
そんな話を聞いて、避難者の方々の生命力の強さと、そして現在置かれている立場について考えさせられたのだった。
大熊町からの避難者の方と話すことができたが、「一年目、二年目はともかく、三年目には涙も出ない」とのことだった。柏崎への避難者は、帰宅困難区域に居住していた人達が多く、現在も九百四十一人(二月末現在)の方々が避難生活を余儀なくされている。
「いつ帰れるか分からないが、いつか帰れると思わなければ、とてもやっていけない」との大熊町の女性の悲痛な声に言葉もなかった。「あまやどりに集まって手芸を楽しんだり、柏崎の人と交流したりすること」だけを支えに、これまでの三年間を過ごしてきたという。
福島県から県外への避難者は二月十三日現在で四万七千九百九十五人を数え、県内避難者を含めれば、未だに約十四万人もの人々が避難生活を強いられている。原発関連死も千人を超えたという。歴史上、戦乱の時代を除いて、このような事態はまったく稀有なことであって、私どもはそのことを忘れてはならない。
それにしても「あまやどり」とは。一時的に雨露をしのぐ場所であったはずの場所は、この先何年続くことになるのだろう。避難者の中には永住を決めた人もいれば、福島県に帰っていく人もいる。帰るといっても故郷に帰れるわけではなく、いわき市などに移住せざるを得ないのだ。いわき市の人口は、この間二万人も増えたという。
「あまやどり」には各市町村の花や木が飾られていた。その中に「栴檀」があった。双葉町の木である。「栴檀は二葉より芳し」という諺からきている。福島県では栴檀はありふれた木で、その実を鳥達が好んで食べ、あちこちに種を撒く。だから至る所に芽を出すのだそうで、それほどに繁殖力の強い木であるらしい。
そんな話を聞いて、避難者の方々の生命力の強さと、そして現在置かれている立場について考えさせられたのだった。
(越後タイムス3月25日「週末点描」より)