玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ピーター・バナード「つた つた つた」(4)

2017年08月21日 | ゴシック論

 ところで、バナードの文章の中心テーマはサブタイトルに言う「折口信夫と日夏耿之介との越境的ゴシシズム」であるので、日夏耿之介について触れなければバナードの文章について論じたことにならない。
 ところが私は、日夏の骨董的文体が好きではない。前にも取り上げたことがあるが、日夏はエドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」を以下のように訳している。冒頭部分を示すが、古色蒼然たる訳文は全編を貫いている。

「その歳の秋の日、鈍(にび)いろに、小闇(ぐら)く、また物の音(ね)もせぬひねもす、雲低く蔽い被さるがことくにみ空にあるを、われは馬上孤り異(こと)やうにすさまじき縣(あがた)の廣道を旅してありつるなり」

 ちなみに「アッシャー家の崩壊」の原題はThe Fall of the House of Usherで、一般的な翻訳のタイトルは直訳に近いが、日夏のつけたタイトルは「アッシャア屋形崩るるの記」というのである。そこにも日夏のこだわりが窺える。
 日夏はゴシックを「過去との特殊な関係による」文体において、日本に移植しようとしたのである。また詩人としての日夏耿之介はそのような文体によって、ゴシック詩を自ら書いた。バナードは日夏の「儂が身の夜半」を紹介している。

「夜の暗闇(くらやみ)のふかみより
己(おの)が苦惱の生體(しやうたい)を刳(ゑぐ)りいだし
やがてその鮮(あた)らしい墳墓(ふんぼ)の上に
血紅色(けつこうしよく)の滿月(まんげつ)の光を沃(そそ)ぐ
――儂(わ)が身の夜半(よは)
都(ああ) 美しい夜景(やけい)である」

 好き嫌いは別にして、この詩は紛れもなくゴシック的である。バナードは「中世らしい玄い風景と、「形式的には」限りなく錯綜した言葉遣い」と言っているが、日常的な文体から限りなく遠ざかり、漢字と時に奇態なその読みとが言葉の迷宮を作り上げている。
 日夏はヨーロッパやアメリカの「ゴシック」から直接に影響を受けていて、バナードの言う「越境的ゴシシズム」をそのようなものとして理解することはできる。しかし、折口信夫の徹底した和文的文体に「ゴシック」からの直接的影響を見ることはとうていできない。
 バナードの結論はだから、かなり苦し紛れなところがある。「題目と発表当時の表紙から古代エジプトを通して日本の太古を普遍的なゴシック・ミスティシズムに繋げる『死者の書』も、このような越境的な役割を果たす」と、バナードは言うが、もうこれは本来の意味の「ゴシック」からは大きく離れてしまっている。
( 折口の『死者の書』というタイトルは、エジプトの『死者の書』のタイトルと同じであり、初版にはエジプトの『死者の書』に描かれた、人間の頭を持った鳥の図が使われていた。その鳥は"ba"といって人間の魂を表しているという)

 やはり日夏と折口を「越境的ゴシシズム」で括ることには無理がある。ゴシックの定義を際限なく拡げていくことによってしか、それは可能とはならない。
 あるいは日夏は狭義の意味でのGothicであり、折口は広義の意味でのgothicであるとでも言うしかない。
(この項おわり)

 

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新村さんの本は北書店に

2017年08月20日 | 玄文社

新潟市在住の松井まゆみさんからコメントで問い合わせがありましたので、お答えします。
玄文社発行の新村苑子さんの2冊の本について。
『律子の舟』は7月8日の若松英輔氏の講演会の時点までは、20部ほど残っていたのですが、当日の販売で売り切れてしまいました。現在、玄文社にも著者の新村さんのところにもお売りできる部数がございません。
『葦辺の母子』についても講演会での販売でかなり売れましたが、14部売れ残りがあり、新潟市役所前の「北書店」様に委託販売で置かせていただいております。早めに「北書店」様にお出でになれば手にはいるはずですので、よろしくお願い申し上げます。

 

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ピーター・バナード「つた つた つた」(3)

2017年08月19日 | ゴシック論

「「ゴシック」は「過去」との特殊な関係による美的態度である」という、バナードがパンターの『恐怖の文学』から引き出しているテーゼは当たっていると思う。ゴシック・ロマンスが18世紀の啓蒙思想に目を背け、ひたすら中世の暗黒の世界への憧憬を語ったのは事実だからである。
 しかし、バナードの言う「特殊な関係」ということを掘り下げて考えるとすれば、それが単なる憧憬ではなかったということは指摘されなければならない。『ゴシック短編小説集』を編集したクリス・ボルディックの言うように「ゴシック」は「反ゴシック」でさえあったのである。
 中世的なものへの憧れは、中世的な抑圧に対する抵抗を内包していた。つまり「ゴシック」にとって、中世的なものは憧れの対象であると同時に、告発の対象でもあるという、極めてアンビヴァレンツな精神性をもっていた。そこにバナードの言う「特殊な関係」を見るとすれば、折口の『死者の書』にそうしたアンビヴァレンツな精神性を読み取ることはできない。
しかし「ゴシック」の最大の特徴はそこにあると思う。それは空間的には閉所恐怖と閉所愛好という矛盾を孕み、時間的には呪われた血統への恐怖と愛好という矛盾を孕んでいる。この「ゴシック論」で何回も引用しているクリス・ボルディックの以下のような定義は、「ゴシック」に我々が接するときの基本的な認識でなければならない(以下の引用でボルディックはアンビヴァレンツな精神性について触れているわけではないが、「ゴシック」自体の両義性を主張したボルディックにおいて、そこにアンビヴァレンスを読み取るのは自明のことである)。

「ゴシック的効果を獲得するために、物語は、時間的には相続することを恐れる感覚に、空間的には囲い込まれているという閉所恐怖的感覚に結びつけられるべきで、こうした二つの次元は、崩壊へと突き進む病んだ血統という印象を生み出すために、お互いを強め合う。」

 閉所恐怖はゴシック小説のほとんどすべての作品に該当するものであって、それは古城や地下牢、迷路や地下埋葬所への幽閉の恐怖という形を取る。それは石造建築のヨーロッパに独自の幽閉装置であって、まったく日本的なものではない。『死者の書』は墓の中で覚醒する滋賀津彦の亡霊の独白から始まっているが、閉所恐怖に呻吟するこの亡霊はしかし、『死者の書』の主人公ではない。
 また、呪われた血統への恐怖=相続恐怖は、キリスト教世界の原罪意識に根を持っていて、それはゴシック・ロマンスの掉尾を飾ったチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』の主要テーマをなしているし、E・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』の主人公メダルドゥスを苛み続ける最大の要因であった。
 こうした原罪意識ほどに日本の文学に馴染みの薄いものはない。もちろん折口の『死者の書』にそれを読み取ることはできない。だから、バナードも言っているように「日本的「ゴシック」が存在するかどうかという問題」が成り立つのである。
 つまり言葉の本来の意味での「ゴシック」は日本においては存在し得ないし、もし「ジャパニーズ・ゴシック」というものがあり得るとしても、それはヨーロッパやアメリカにおける「ゴシック」とは似て非なるものと言わなければならない。
 だからヨーロッパ文学の影響をほとんど受けることのなかった泉鏡花のような作家が「ジャパニーズ・ゴシック」の代表だとしても、彼は語の本来の意味におけるゴシック作家ではない。
 話はわき道にそれるが、バナードが折口の『死者の書』における泉鏡花の影響を言っていることは正しいと思う。オノマトペの問題一つとっても、鏡花の作品には膨大な量のオノマトペが出てくるし、それが折口のオノマトペの使い方に影響を与えていることは明らかだと思う。
 ただし、鏡花のオノマトペは折口のそれのような奇態なものではなく、一般的に使われる類のものである。バナードは「つた つた つた」というタイトルをこの評論につける時に、日本幻想文学におけるオノマトペの系譜について考えていたのに違いない。

 

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ピーター・バナード「つた つた つた」(2)

2017年08月16日 | ゴシック論

 ピーター・バナードという人はこの「つた つた つた」を日本語で書いていると思われるが、ほぼ完璧な日本語で、まずそのことに驚かされる。編集部の手が入っているとは思うが、それにしても素晴らしい。時たま日本語になっていない部分も散見されるにしても、28歳でここまで自在に日本語を扱うことができるとなれば、末恐ろしい。
 そればかりでなく、この評論で折口と比較されている日夏耿之介や、後で出てくる泉鏡花などに対する読解についても、本当にアメリカ人なのか? と思わせるほどであり、その読書範囲についても驚かされる。しかし、私など読んだこともない平井呈一の「真夜中の檻」や、幸田露伴の「観画談」などに触れているところを見ると、この人が日本の幻想文学に対するマニアックな嗜好をもっていることが見えてくる。
 でも、こういう人がいてもいいだろう。今回ジェフリーさんによって日本の幻想文学の中で五本の指に入るだろう『死者の書』が、英語圏の読者に初めて紹介されたわけだが、日本幻想文学の頂点とも言うべき泉鏡花の作品が、まだ代表作を除いてはほとんど海外に紹介されていないことを残念に思うからである。
 さて、本題に入ろう。バナードは『死者の書』のジャンルとしての位置づけに、私と同じように大きな興味を示している。ジェフリーさんは『死者の書』を、黒岩涙香、泉鏡花、村山槐多、江戸川乱歩につながる「ジャパニーズ・ゴシック」というジャンルに位置づけているのだが、バナードはこれに疑問を呈している。
 本家のゴシック・ロマンスがデイヴィッド・パンターの『恐怖の文学』によれば、「〝過去〟との特殊な関係による美的態度」であるとすれば、「ジャパニーズ・ゴシック」が「時間的要素を軸としない」限りにおいて、「物語の深層に「古代」という時間的在り方を追求する」『死者の書』は、「ある程度しかそれに当て嵌まらない」と、バナードは言っている。
 確かに泉鏡花はひたすら〝現在〟を書き続けた作家であり、過去を舞台とした作品はほとんどない。白山信仰などの民間信仰が過去のものとして描かれるとしても、それは現在にまでつながっているものと捉えられている。
 一方、折口の『死者の書』は現在からは隔絶された過去=古代の世界を舞台としている。本家のゴシック・ロマンスが中世への憧れによって特徴づけられるとしたら、折口の『死者の書』は「ジャパニーズ・ゴシック」よりも本来のゴシック・ロマンスに近いのかも知れない。
 以上のようなことをバナードは書いているのだが、いかにも歯切れが悪い。「ジャパニーズ・ゴシック」や「ゴシック・ロマンス」あるいは「ゴシック」ということそのものの定義がうまくなされていないからである。
「ゴシック」の定義についてバナードは、デイヴィッド・パンターの『恐怖の文学』での定義を使っているが、パンターの〝恐怖〟を軸としたゴシックの定義は、まったく表面的なものでしかない。バナードが挙げている部分ではないが、以下のようなゴシックの定義がそれである。ちなみに、バナードは日本語版の『恐怖の文学』を参考文献に挙げていて、研究書まで日本語で読んでいる徹底ぶりを見せている。

「なかでも重要なものは恐怖の念を呼び起こすものの描写に重点をおくこと、古めかしい設定を一様に強調していること、超自然の使用が目立つこと、かなり型にはまった登場人物が出てくること、文学的サスペンスの技巧を効果的な使用によって完成させようと試みること」

「ゴシック」をこのように定義すると、それは「恐怖小説」の定義とまったく同じものになってしまう。パンターの定義は恐怖小説のそれにすぎず、「ゴシック」の重要な要素をまるで無視するものにしかなっていない。
 恐怖(あるいは恐怖horrorと崇敬reverence)を軸として、『死者の書』のジャンルを確定しようとしても、それは「恐怖小説」に近づくだけで、決して「ゴシック」に近づくことはない。
「つた つた つた」の場面は藤原南家郎女が、恐怖と期待のない交ぜになった感情をもって、天若御子の跫音を待つところであるが、それを「恐怖小説」の根拠とすることはできても、「ゴシック」の根拠とすることはできない。


 

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ピーター・バナード「つた つた つた」(1)

2017年08月15日 | ゴシック論

「三田文學」の夏季号は「アメリカの光と影」と題した特集を組んでいて、巻頭にジェフリー・アングルスさんの「内陸に」という詩を配している。私はそれを読むために「三田文學」を購入したのであったが、私が雑誌を注文したことをジェフリーさんにメールで伝えると、同じ号に、あるアメリカ人がジェフリーさんの『死者の書』の翻訳について書いていて、それは原作である折口信夫の『死者の書』がゴシック小説であるか否かについて、長々と論じたものだという。
 実は私がジェフリーさんの『死者の書』の翻訳の序文について、この「ゴシック論」で紹介したときに、私は『死者の書』はゴシック小説ではないと断定したのに対して、ジェフリーさんは異論をもっていたらしい。
 その件で後日ジェフリーさんから、英語では大文字でGothicと書くときは狭義のゴシック小説を指し、小文字でgothicと書くときは幻想小説全般を指すので、そこに認識の違いがあるのではないかというメールをいただいた。
 日本でゴシック小説と言うときには、まずは18世紀のイギリスに始まるゴシック・ロマンスと、その伝統の流れの中にある作品を指しているし、幻想小説全般をゴシック小説と呼ぶことはないからである。
 確かにジェフリーさんが言うように、翻訳版『死者の書』の裏表紙には小文字でgothic romanceと書かれているのだ。とすれば、私の疑問も、ピーター・バナードの疑問も、たいした意味を持たないことになるのかも知れない。
 だいたい折口信夫の『死者の書』がゴシック小説かどうかなどという問題は、一般的にはどうでもいい問題かも知れないが、三年間にわたって「ゴシック論」を書いてきた私にとってはそうではない。ゴシック小説というジャンルを定義することは、ゴシック小説に対する視座を確定することであり、大きくその読み方に関わってくる問題だからである。
 そのことはツヴェタン・トドロフが『幻想文学論序説』で、幻想文学というものの定義に大きく時間を費やしていることと共通する背景をもっている。トドロフは幻想文学の範疇から、寓話とお伽噺を排除する。そうしなければ幻想文学というものの、近代における位置を確定できないからだ。
「三田文學」にはジェフリーさんが言うとおり、ピーター・バナードという人の「つた つた つた」という評論が掲載されていたので、早速読んだのであった。「つた つた つた」というのは、折口の『死者の書』に出てくる特徴的なオノマトペの一つで、これは主人公藤原南家郎女が當麻の地に蟄居する中で、天若御子(あめわかみこ)の跫音を恐怖と期待とをもって聴く場面の主調音となっている。
 ところでピーター・バナードという人は1989年マサチューセッツ州生まれだというからまだ28歳。ハーバード大学の院生である。そんな人が「つた つた つた」などというおかしなタイトルを付けるはずもなく、当然それにはサブタイトルがある。いわく「折口信夫と日夏耿之介との越境的ゴシシズムについて」。
 バナードの文章について考える前に、「つた つた つた」をジェフリーさんがどう訳しているか見ておこう。それはTssuta tssuta tssuta。オノマトペはすべてイタリックで表記されているが、ここは日本語の音をそのまま使っている。
 冒頭の有名な「した した した」については、A barely audible sound――shhh――followed by something that sounded like punctuation――ta. Shhta shhta shhtaと、オノマトペというものをほとんどもたない英語圏の読者にも分かるように、解説的な文を付け加えているが、ここではそうではない。
 また11章の鶯の鳴き声の見事なオノマトペ「ほほき ほほきい ほほほきい――。」はどうなっているかというと、こうだ。Hohoki,hohokiii,hohohokiiiiii...。他にも17章の若人たちが足踏みをして邪気を払うときの掛け声も、「あっし あっし」がそのままasshi,asshiとなっている。
 オノマトペを翻訳することは不可能なのだ。音に価値をもつオノマトペがその音を変えられてしまえば、翻訳の意味がない。外国人にとっては分かりづらいかも知れないが、音として感受してもらうしかないのだし、折口のオノマトペの独自性を聞き分けることは諦めてもらうしかない。
で、ピーター・バナードが何で折口のオノオマトペをタイトルにしたかは、後ほど理解されることになる。

「三田文學」2017年夏季号(三田文学会)

 

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うれしい贈り物(4)

2017年08月13日 | 玄文社

 中村龍介はわたしと同じ1951年生まれで、1973年に処女詩集『世界の片隅で』を出版し、1978年12月26日、経田さんが「師走、信濃川/歩いて歩いてあんたは入ってった」と書いているようにして自殺した。
 中村は分裂病者であった。彼の存在と言葉は私には重荷であった。彼が死んだ後に私は、死者というものは甦るものであるということを初めて知った。死者はキリストの復活のように甦る。ただし、肉体としてではなく、言葉として。私の胸の内に。
 そんなわけで中村の死の二年半後、私は彼の残した詩編をまとめて『中村龍介詩集』を編集し、出版した。
 経田さんはこの『中村龍介詩集』を読んで、作品を書いたのであろう。「死者をあがめてはならない」という言葉は、中村の「火の祭」という作品の冒頭の一行である。そして経田さんもまた、中村の甦りについて書くのである。

「生誕の夜、
死者は
水底から還ってきた、
ことばのために」

 しかし、そんなことばもむなしく消えていくものであることを、経田さんは残酷にも指摘する。

「雪に刻んだ、あんた、最後のことばも
 もう消えてしまったよ。
 それっきりさ。」

 もはやここに、経田さんの皮肉や底意地の悪さを見ることは出来ない。自分もまた死ねば、「最後のことばも消えてしまって、それっきり」だという認識を読み取るべきである。そこにはだから経田さん流の深いペシミズムがある。ペシミズムは他者に向かい、自己にも向けられる。37人のさまざまな死に方をした死者たちがいる。しかし、自分自身もまた未然の死を生きているのにすぎない。
 だから「死者をあがめてはならない」のだ。経田さんの37人の死者に対するスタンスは一貫しているが、そこに軽重があるのもまた事実である。
 3頁以上の長い作品を挙げれば、経田さんが深く傾倒している対象が分かるだろう。ジャック・ケルアック(アッケル・クヮジャ)、パウル・ツェラン(ウル・パツェンラ)、田端あきら子(コアラ・キタタバ)、シモーヌ・ヴェイユ(シモーヴェ・ユイヌ)、ヴィンセント・ゴッホ(セント・ヴィ・ゴホンツ)、アルチュール・ランボー(チューラン・アルルボー)、ジャニス・ジョプリン(ニジャ・J・プリンス)、ガルシア・ロルカ(ルルシカ・ガロア)の8人である。
 1970年パリのセーヌ川に死体の上がった、パウル・ツェランについての詩は、重厚で沈鬱、いささかも皮肉は感じられない。ナチスによるユダヤ人虐殺をテーマに詩を書いたツェランへの陰鬱なオマージュである。

「耳は夜の受話器にかしいでいる
声を待つ
骨つぼからばらばら砂が落ちる
声を待つ
焼死した
声を」

 さらにスペイン内乱で銃殺されたガルシア・ロルカについての詩は、手放しの讃辞に近い。最終連を引く。

「ルルシカよ
 あなたの死は
 何百万という無名の死の
 一つにすぎない
 しかし あなたの詩は
 わたしたちにとり
 稀有な 高潔な
 大きな謎なのだ」

 ヘロイン中毒のため27歳で死んだブルース歌手、ジャニス・ジョプリンをテーマにした作品が入っているのも経田さんらしい。ジャニスは我々日本人にとっても真実のスターだった。ロック・ミュージシャンの死の中で、彼女の死ほど惜しまれたものはない。
 ミュージシャンでは他に、ジミ・ヘンドリックスやチャーリー・パーカー、ジョン・コルトレーンなどが取り上げられている。いずれも麻薬や癌で夭逝した人たちである。

『洪水と贈り物』の紹介はこれで終わりにするが、この詩集がたった限定200部しか発行されていないということが信じがたい。なんということだ。
(この項おわり)

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うれしい贈り物(3)

2017年08月12日 | 玄文社

 最後の章、第4章「踊る死者たち」は、洪水とは無関係な37編の詩で構成されている。「舟」という詩誌に1976年から1980年にかけて発表されたものだ。
 タイトルは有名あるいは無名の詩人・作家・画家・ミュージシャンたちの名前のアナグラムになっていて、すぐにはそれが誰だか分からない。経田さん自身が巻末に真名を挙げているので、ようやくそれと分かる。
 なぜこんな手の込んだことをするのかと思うかも知れないが、さまざまな死に方をした詩人や画家、ミュージシャンに対する言葉が、愛憎のように錯綜していて、ストレートに示すことが出来なかったのだろう。そしてアナグラムもまた、修辞的技法のひとつであり、経田さんの死者に対する複雑で錯綜した意識を、そのまま反映しているのかも知れない。
 たとえばアルチュール・ランボーは、チューラン・アルルボーと表記され、ジャニス・ジョプリンはニジャ・J・プリンスと呼ばれる。村山槐多はマタイ・カラヤム、宮沢賢治はケヤミ・ジンザワと換えられているから、それが日本人なのかどうかさえ分からない。
 経田さんは私なら批評の言葉で書くであろう、死者に対する思いを詩の言葉で書く。批評の言葉で書くときと同じように、その死者に対する思いが希薄なケースでは作品は短くなり、それが濃い場合には作品が長くなる。
 だから、37編の中で短い詩編を挙げてみれば、経田さんの思い入れの浅い対象が見えてくる。1頁しかない詩編が5編。アメディオ・モジリアーニ(ジオメニア・アデリモ)、西一知(トモニシ・カズ)、中原中也(ハカナヤ・ラウチュ)、ウラジミール・マヤコフスキー(フルスコラージ・ミヤマウスキー)、ヴェイチェル・リンゼィ(ルヴェイ・チェゼーリン)の5人をテーマにした作品である。
 特に中原中也はたった6行しかないので、そっくり引用しよう。

「此の男、詩しか書けなくってまるでダダッ子。顔まで詩人らしく気取り、酒を飲めば一等先に酔っ払いいっそう詩人らしい振る舞いだ。詩を書き、詩を食べ、詩に食べられ、死んでしまった。不幸な日々も不幸な人も在りき。詩の花冠は結核性脳膜炎らしい。もう先はない。」

 私が詩人だったらこんな風に書かれたくはない。経田さんの皮肉は「此の男」に対して最も厳しい。中原は詩人を気取り、不幸を気取った人であった。中原の友人であった大岡昇平は中原が言う「詩人は不幸でなければならない」という考え方を真っ向から否定しているが、不幸な人間が詩人であることはあっても、すべての詩人が不幸でなければならないというような考え方は、完全に倒錯している。
 このような倒錯した考え方を、日本の結核文学と言われるジャンルも受け入れたのであったが、中原は結核で死んだのであり二重に倒錯していた。だから「もう先はない」のだ。

 マヤコフスキーはどうか。こちらは11行。部分的に引く。

「赤い乱痴気革命パーティのさなか
 声を限りに語り語り 騙り
 魂の真実とやらに耳をいれすぎ
 痩せた両手で両耳押しつぶした」

「愛も革命も詩も
 行き過ぎは魂消える
 そして 一発
 それっきり」

マヤコフスキーは〝行き過ぎた〟愛情関係の末に、拳銃自殺を遂げている(他殺説もあるが)。死者に対してなんと無慈悲な言葉であろう。しかし、我々はすべての死者に対して慈悲深くあることを許されていない。
 私のかつての友人であり、信濃川で入水自殺した詩人・中村龍介は「死者を あがめてはならない」と書いたのだったが、経田さんはその中村についても一編をものしている。

 

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うれしい贈り物(2)

2017年08月05日 | 玄文社

 第2章は「おお 水よ」で、この章が直接的に洪水をテーマとする。追記に言う。

「哄笑が爪弾く。わが五十嵐川の洪水史は氾濫だらけである。花子も赤ん坊も消えた近代および現代にも五十嵐川は破堤を繰り返した。」

 いきなり「哄笑が爪弾く」ときた。洪水でなく〝哄笑〟なのだ。この章に収められた詩編は、冗談や駄洒落、地口、言葉遊びを総動員した戯れ歌なのだ。
 洪水のような哄笑、哄笑のような洪水。不謹慎である。しかし、これこそが経田さんの真骨頂であろう。あの吉岡又司論のずっと前から、経田さんはこんな詩を書いていたのだ。

 ほむらたつ草むら
 村の女たち 阿亀たち眠る
 火魔羅たつ肉むら
 火吹き男たち眠る    (Ⅰ 発端は雨だった)

また、卑猥で卑俗な表現も頻出する。

 川があふれ
 土手を越える
 肥えた土手を越える
 女たち 夏を笑って
 腹を叩き合う
 土手が切れたぞ!
 男たち土手を走った
 踊る男根 縮む金玉    (Ⅱ 洪水たち)

 かと思えば、見事なエロティックなイメージ。

 花子の
 はった乳房の丘から
 空を撃つ白い噴水
 アアッ流れ星! ひとつ!
 髪がくねるいびつの丘よ
 痩せた丘を谷を荒れた髪が長くはう  (Ⅱ 洪水たち)

 さらには土俗的な村人たちの方言まで。

 おとと、どこら
 手探りすらんだろも
 闇が深っこうて
 おととがいねえ
 燃えて燃えて燃えて燃えて
 おらぁ眠らんねえんだてばァ
 おらを灰にしてくらっしゃい      (Ⅱ 洪水たち)

 花子とは誰か? 「花子も赤ん坊も消えた近代および現代」とあるから、それは近代以前の村落共同体の母系的心性を意味しているのだろうか? あるいは豊饒の大地のイメージを?
 しかし、花子も赤ん坊も洪水によって流され、大地に帰る。そして村人たちは花子を捜しに森に入り、牧場の塩の窪に赤子を発見するのである。
 この物語が何を意味しているのかはっきりとは分からない。しかし、少なくとも前近代的な村落共同体の死と再生のイメージを持っていることは感じ取れる。経田さんは洪水を通して五十嵐川流域の地誌を書いたのだと言える。
 しかし、地誌が戯れ歌やファルスになってしまう、あるいは意図的に戯れ歌やファルスとして地誌を書こうとすること自体、経田さんの前近代的なものへの距離の取り方を示しているように思う。でなければもっと真面目にそれは書かれなければならない。
 その距離の取り方のあり方はこの章の「序詩」に示されている。最終5行を引く。

 少年よ いでよ
 夏の舌もつ声もって
 美しい災厄あってこそ
 光の世界が到来する
 ああ 八月の夜の空が
 闇にふるえて

「美しい災厄」などというものはあり得ない。災厄はいつでも酷薄で、残酷で、酷い。しかし災厄が夏の舌もつ少年の声で語られるとき、それが美しいもに姿を変えるということはあり得る。そこには現実と語られる現実との間の表現論的な背理がある(しかし語られない現実とはいったい何なのか?)。
「夏の舌もつ少年」たる経田さんは三条の洪水の歴史に代表される災厄の表現において、光と闇の背理の実践に賭けているのである。

 

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うれしい贈り物(1)

2017年08月03日 | 玄文社

 拙著『言語と境界』をいろんな方にお送りしているが、お返しにその方の著書をいただくことがある。三条市の詩人・経田佑介さんから、今年7月に出たばかりの詩集『洪水と贈り物』が届いた。
 経田さんは私の著書を半分まで読まれたところで、「ソシュールは相当勉強しましたが、ずっとことばをつかうことの方がおもしろくてやってきました」と書いている。『言語と境界』は後半がベンヤミン論で、その「言語一般および人間の言語について」の解読については、ソシュールの言語論を参照しているので、経田さんはそのことを言っているのである。
 経田さんの言うように言語理論を理詰めで追究していくよりも、「ことばをつかうことの方が」面白いのは至極当然のことだが、多くの詩人たちが「おもしろくてやって」いるわけでは必ずしもない。苦汁の末に絞り出して無理やり書いたような詩が多くある中で、経田さんの作品はそんな苦労を微塵も感じさせないものなのである。
 経田さんは多作な人である。1939年生まれだから私よりひとまわり年上だが、これまでに詩集、訳詩集、短編集など20冊ほどの著書を持っている。私はもともと現代詩のよい読者ではなく、経田さんの詩についてもそれほどよく読んできたわけではない。
 しかし、わが「北方文学」の創始者・吉岡又司が亡くなったときの、追悼の文章には目を見張らざるを得なかった。ひたすら吉岡詩の修辞的部分、とりわけ地口や駄洒落について書かれた文章だったが、それが吉岡詩の本質を見事に突いていたのだ。実践なくして書き得ない文章であった。
『洪水と贈り物』にも私はまいってしまった。この詩集は「羊水の海で」「おお 水よ」「クルミ割り」「踊る死者たち」の四つの章に分かれているが、「羊水の海で」は次のように始まる。

「昨日ははげしい雨にうたれていた。あなたはぐっしょり濡れた下着のぬかるみのまま一本の樹をめざしていた。はげしく幹を叩く音がした。
今朝の戸口の熱いノックをあなたは聞いたのだったか。
冷たい雨粒が顔を叩くのだ。旅人は衣服を小川のほとりで脱ぎすてたのではなかったか、あるいは熱い肉体から衣服はすべり落ちて溶けてしまったのだ。」
 
〈あなた〉とは何か? 〈樹〉とは何か? 〈旅人〉とは誰のことを言っているのか? そんなことを考える余裕すら与えず、〈あなた〉は〈女〉へ、〈樹〉は〈裸の樹〉へ、〈旅人〉は〈わたし〉へと変奏され、さらに〈女〉は〈宙吊りにされた女〉へ、〈樹木〉は〈燃える樹〉へ、〈わたし〉は〈夜の鳥〉へと変奏されていく。
 水の流れのように固定化されないイメージ、洪水のように溢れるイメージ、時に奔放に、時にシュルレアリスティックに、時には確固とした断言として、自在に変奏されるイメージの連鎖。
 散文詩である。誰がいったいこの半世紀の間に、次のような詩句を書き得たか?

「わたしは石を抱いた。
わたしは石を抱いた。爪で石を掻き、傷をつけた。水がわたしの胸を撃った。ワタシヲ洗エ。毛髪ヲ、スベテノ毛ヲ、クボミヲ、スベテノ管ヲ洗エ。石に胸を叩きつけ、腿をこすりつけ、祈った。やがてわたしの肉から赤い涙が流れ出した。溢れ出るもので石を包み、わたしは失われた。
消滅よ。すべて意味あるものの消滅よ。わたしは光を失った。鼻を失った。口を失った。耳を失った。皮膚を失った。一匹の盲目の小魚となって、石の周囲を泳ぐのだった。」

 言葉の意味よりも経田さんが刻んでいく言葉のリズムを味わえばよい。そして「消滅するわたし」を前に、未然の死を生きるものとして、その言葉におののくことができればそれでよい。
 最新詩集だが、発表年は1976年から2016年。最後の「追伸」の2016年を除けば、1981年までの5年間に発表された作品を再構成したのである。
 おそらくかなり手を入れているのだろう。なぜこれだけの作品が詩集としてまとめられることなく、放置されていたのだろう。そしてこの作品を貫いている、はげしい雨と洪水による災厄のイメージが、なぜ今日甦ることになったのだろう。
 三条市を流れる五十嵐川は繰り返される氾濫の歴史に彩られている。私が知っているだけでも2004年の7・13水害、そして2010年にも三条市は水害に見舞われている。
 直接的に水害をテーマにしているのは第2章「おお 水よ」の3編の詩編であるが、私にはむしろ「羊水の海で」の方が、災厄としての洪水のイメージをよく伝えているような気がする。
『洪水と贈り物』は〝多時間的集合体〟だと経田さんは言う。それはこの詩集を構成する四つの章が独立して発表されたものであることからきている。しかし、「羊水の海で」の断片的に発表されてきたとしても、深く関連づけられた12の詩編の連鎖のあり方をこそ、〝多時間的集合体〟と呼びたい気がする。
 それにしてもなぜに、あの大きな水害の前に書かれたこれらの詩編が、三条市の歴史的災厄を予兆できたのだろうか?

詩集『洪水と贈り物』経田佑介(ブルージャケットプレス 〒955-0832三条市直江町1-5-54 tel&fax0256-32-3301)

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