柏崎日報記者の品田正伸さん(56)が八月二十六日に亡くなった。取材が重なることもそう多くはなく、それほど接点があったわけではないが、悔しくてしかたがない思いがある。
品田さんとの接触は、もっぱら演劇にまつわる場面に限られていた。平成十六年に、劇団THE風FOUが二十周年記念で唐十郎の「盲導犬」を上演した時、私はその出来の良さに瞠目せざるを得なかった。品田さん演出による演劇を初めて見せてもらった貴重な機会だった。
演劇が大好きな人だった。東日本大震災直前の平成二十三年二月末に、タイムス創刊百周年記念で行った「鬼灯」公演の時には、いろいろ手伝ってもらった。打ち上げで実行委員だけで飲んだときも、深更に及ぶまで激しく飲んだ。「楽しくてしょうがないんだ」という言葉を忘れられない。
その後、三月十二日に反省会を行うというバカなことをした時も、付き合ってくれた。その時は、テレビの画面で福島第一原発1号機の水素爆発を一緒に目撃することになった。つらい日だった。
そういえば、「鬼灯」の公演は、東日本大震災の直前であった。その前に「鬼灯」の主人公である島秋人の歌稿が大量に発見された時にも、品田さんは私が預かった歌稿を見に来られたことを思い出す。
昨年四月に「游文舎」で阿藤智恵さんの「しあわせな男」(劇団THE風FOU)の公演をやった時も、またまた手伝ってもらった。打ち上げで劇の出来について的確な評価をされた言葉もまた忘れられない。
公演の翌日、阿藤さんも含めて市内某所の山菜の宝庫に案内した。品田さんは山菜採りなど初めてだったのか、えらく興奮していた。いくらでもあるゼンマイやタチシオデ、ネマガリタケやタラの芽に喜んでいる様子が手に取るように分かった。その時行った仲間の中で一番はしゃいでいた。
その後の五月二日に彼が書いた「柏崎抄」に、その時の興奮ぶりがよく表れている。今年のシーズンにも彼を連れてそこに行こうと思ったが、果たせなかった。来年こそと思っていたが、それも果たせなくなった。残念でならない。
ご冥福を祈りたい。
品田さんとの接触は、もっぱら演劇にまつわる場面に限られていた。平成十六年に、劇団THE風FOUが二十周年記念で唐十郎の「盲導犬」を上演した時、私はその出来の良さに瞠目せざるを得なかった。品田さん演出による演劇を初めて見せてもらった貴重な機会だった。
演劇が大好きな人だった。東日本大震災直前の平成二十三年二月末に、タイムス創刊百周年記念で行った「鬼灯」公演の時には、いろいろ手伝ってもらった。打ち上げで実行委員だけで飲んだときも、深更に及ぶまで激しく飲んだ。「楽しくてしょうがないんだ」という言葉を忘れられない。
その後、三月十二日に反省会を行うというバカなことをした時も、付き合ってくれた。その時は、テレビの画面で福島第一原発1号機の水素爆発を一緒に目撃することになった。つらい日だった。
そういえば、「鬼灯」の公演は、東日本大震災の直前であった。その前に「鬼灯」の主人公である島秋人の歌稿が大量に発見された時にも、品田さんは私が預かった歌稿を見に来られたことを思い出す。
昨年四月に「游文舎」で阿藤智恵さんの「しあわせな男」(劇団THE風FOU)の公演をやった時も、またまた手伝ってもらった。打ち上げで劇の出来について的確な評価をされた言葉もまた忘れられない。
公演の翌日、阿藤さんも含めて市内某所の山菜の宝庫に案内した。品田さんは山菜採りなど初めてだったのか、えらく興奮していた。いくらでもあるゼンマイやタチシオデ、ネマガリタケやタラの芽に喜んでいる様子が手に取るように分かった。その時行った仲間の中で一番はしゃいでいた。
その後の五月二日に彼が書いた「柏崎抄」に、その時の興奮ぶりがよく表れている。今年のシーズンにも彼を連れてそこに行こうと思ったが、果たせなかった。来年こそと思っていたが、それも果たせなくなった。残念でならない。
ご冥福を祈りたい。
(越後タイムス9月10日「週末点描」より)
そろそろ1年と思い、正確な日を探しておこうと貴殿の記事に当たりました。金大で盲導犬をやったとき、彼はフーテン役でした。演出もシナちゃん。
たくさんの芝居をいっしょにしましたが、おそらく一番いい作品だったかも。
今でも、納得しきれない彼の死ですが、何人もの人の心に生きていると改めて思い、少しうれしく、さらに寂しい思いです。
突然にすみませんでした。