第五十一回柏崎書道院展で、白倉南寉さんの「すんまへん」というのが一際目を惹いた。正方形の紙の右から三分の一くらいの位置に、“す”の文字を置き、“すんま”までを横に書き、“まへん”を縦に並べてある。紙のほとんどの部分を余白が占める。白倉さん得意の余白の美を徹底して追求した書だ。
この書に寄せられた「貧しいから、あやまって歩くしかなかった」という言葉に“どきっ”とし、「なぜ大阪弁なんだろう」という疑問を抱いた。書道院展でいただいた記念誌「傷はきずでまだ途中│生活(くらし)の中の書│」のあとがきを読んで疑問は氷解した。
白倉さんは大阪道頓堀で「みをつくし」の話を聞き、自分の人生を振り返る。白倉さんは「希わくば、埋めてならして、ゼロがいい。南寉の汚したみちを消す決意。すんまへん」と書く。“すみません”でも“すいません”でもなく“すんまへん”。大阪弁独特の軽さのようなもの、あるいは親密なニュアンスが必要だったのだ。
記念誌は、柏崎書道院の記念誌というよりは、タイトルからも分かるように白倉さんの個人史のようなものである。昭和三十年代の柏崎で白倉さんの書いた文字が商店や食堂の看板になったものを撮った写真が見開きで並んでいるページがある。
十七軒の看板のひとつも残っていないという。現在も健在な店もあるが、すでに看板の文字は変わっている。石碑や額でないと、なかなか書は残らないことが分かる。でも、白倉さんにはそんなことは平気だろう。“埋めてならして、ゼロがいい”のだから。
この頃のことだろうか、白倉さんは「文字を書いても、謝礼として、リンゴ一個とか、ナシ一個しかもらえなかった。とても食ってはいけなかった。貧乏だった」と振り返る。そんな思い出が「すんまへん」の書につながっている。
今でも書だけで生計を立てることは大変なことである。白倉さんはそんな困難な道を歩いてきた人だ。
この書に寄せられた「貧しいから、あやまって歩くしかなかった」という言葉に“どきっ”とし、「なぜ大阪弁なんだろう」という疑問を抱いた。書道院展でいただいた記念誌「傷はきずでまだ途中│生活(くらし)の中の書│」のあとがきを読んで疑問は氷解した。
白倉さんは大阪道頓堀で「みをつくし」の話を聞き、自分の人生を振り返る。白倉さんは「希わくば、埋めてならして、ゼロがいい。南寉の汚したみちを消す決意。すんまへん」と書く。“すみません”でも“すいません”でもなく“すんまへん”。大阪弁独特の軽さのようなもの、あるいは親密なニュアンスが必要だったのだ。
記念誌は、柏崎書道院の記念誌というよりは、タイトルからも分かるように白倉さんの個人史のようなものである。昭和三十年代の柏崎で白倉さんの書いた文字が商店や食堂の看板になったものを撮った写真が見開きで並んでいるページがある。
十七軒の看板のひとつも残っていないという。現在も健在な店もあるが、すでに看板の文字は変わっている。石碑や額でないと、なかなか書は残らないことが分かる。でも、白倉さんにはそんなことは平気だろう。“埋めてならして、ゼロがいい”のだから。
この頃のことだろうか、白倉さんは「文字を書いても、謝礼として、リンゴ一個とか、ナシ一個しかもらえなかった。とても食ってはいけなかった。貧乏だった」と振り返る。そんな思い出が「すんまへん」の書につながっている。
今でも書だけで生計を立てることは大変なことである。白倉さんはそんな困難な道を歩いてきた人だ。
(越後タイムス11月14日「週末点描」より)