玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

荒れた年末年始

2010年01月15日 | 日記
 荒れに荒れた年末年始だった。年末には娘が東京から帰省したが、信越線が強風のため不通となっていたため、長岡駅まで車で迎えに行くはめになった。雪が最も激しく降っている時間で、車を運転していて、久し振りに目の前がほとんど見えないという恐ろしい体験をすることになった。
 荒れたのは天候だけではなかった。家にたどり着いた娘が、ぐったりしているので熱を測ると、三十九℃もあった。インフルエンザの疑いがあるので、病院に電話したが、すぐに診察してもインフルエンザかどうか判断できないとのことで、翌日の診察を待った。
 新型インフルエンザだった。車の中の密閉された空間に一時間近くも一緒にいたし、これからも一緒に過ごすことになる。多分自分も感染するだろう。もしそうなったら取材もできないし、新年早々の号は休刊にせざるを得ない。ほとんどあきらめの境地だった。
 ある人の務め先では、家族が発症した場合、三日間出勤を禁じているという。“そうか、三日間が目安なのか”と思い、まめに体温を測ることにした。三日間平熱が続いたが、何となく頭が重い。何をする気も起きない。しかし体温は上がらない。なんとかなりそうだ。
 四日目の昼に体温を測った時、一回目三十六・八℃、二回目三十七・一℃、三回目三十七・三℃で、“これはやばい”と思った。一時間ほどの間にどんどん体温が上昇している。“感染したな”と観念した。しかし、さらに一時間後に測ると、平熱に戻っていた。昼に食べた温かいうどんが体温を上昇させたらしい。
 すでに、娘の発症から五日を経過。本人も快方に向かい、自分の体調にも異変はない。頭の重さもなくなった。長く生きてきたから、多分免疫があったのだろう。“さあ、張り切っていこう”と思うが、相変わらず荒天は続いている。こんな正月は嫌いだ。

越後タイムス1月8日「週末点描」より)



鴻の巣主人奥田駒蔵のこと

2010年01月15日 | 日記
 静岡の川根本町にお住まいの奥田万里という方から、初めてお便りをいただいた。奥田さんの夫の祖父・奥田駒蔵という人は、東京日本橋にカフェ「メイゾン鴻之巣」を開いた人で、そこには明治末期の若き文士や画家たちが多く出入りしていたという。北原白秋、木下杢太郎、谷崎潤一郎、志賀直哉、芥川龍之介など、錚々たる文学者たちと交遊があったようだ。
 大正十四年に四十三歳で亡くなった時には、与謝野晶子が追悼歌十首を寄せているし、永井荷風は『断腸亭日乗』に追悼文を残している。なかなかの趣味人で、夭折の画家・関根正二の作品を所蔵していたこともあり、自ら絵筆をとることもあったという。
 万里さんによれば、駒蔵の残したアルバムに「越後タイムス」の切り抜きが貼り付けてあり、初めて「越後タイムス」の存在を知り、タイムスと駒蔵との関係について照会の手紙を寄こされたのだった。
 その記事は、大正十年八月二十五日に、柏崎尋常高等小学校で開かれた「第一回餘技展覧会」に関するもので、そこに、駒蔵の日本画が十数点出展されていたというのだ。駒蔵の作品について、吉田正太郎や吉田小五郎が書いた記事が、アルバムに貼ってあった。
 どういう人脈があったのか、万里さんは知りたいと言われる。しかし、新年号が片付くまでは、調べている暇がないので、しばらくお待ちいただくことにした。吉田正太郎は与謝野晶子の手紙を所蔵していたし、駒蔵の絵の推賞者でもあった北大路魯山人とも交遊があった。推測で言えば、そのあたりの紹介によるものだったのだろう。近く創刊百年を迎える「タイムス」にとっても、一つの発見であった。

越後タイムス1月1日「週末点描」より)



西舘好子さんと墓参り

2010年01月15日 | 日記
 画家・木下晋さんからの依頼で、六日に開かれた「子育て支援フォーラム」で、木下さんと対談を行った西舘好子さんを貞心尼の史跡に御案内した。まずは常盤台、洞雲寺の裏山墓地にある墓へ。
 柏崎に行ったら貞心尼の墓に参りたいというのは西舘さん一人の希望だと思っていたのだが、そうではなく、木下さん自身も貞心尼の大ファンだという。しかし、木下さんは何回も柏崎にお出でになっているのに、貞心尼が柏崎で亡くなったことをご存知なかったらしい。
 今回、そのことを知った木下さんは、“憧れの人に早く逢いたい”とでもいうように、一人でさっさと貞心尼の墓に向かうのだった。木下さんは「お墓が大好き」だという。意味深長な言葉だが、貞心尼の墓の前で、西舘さんとのツーショットにおさまった木下さんは、とても嬉しそうで、得意そうな表情を浮かべていた。
 西舘さんもとても嬉しそうで、感慨深いものがあったようだ。墓に刻まれた辞世の歌「来るに似て帰るに似たりおきつ波立ち居は風の吹くにまかせて」に感嘆しきり、「神のような境地ですね」とおっしゃるのだった。
 洞雲寺から西本町一丁目の不求庵跡へ。跨線橋を車で渡る時に、海の方向に虹が出ていた。貞心尼の墓前で手を合わせたお二人を祝福しているような、見事な虹だった。
 不求庵跡には標柱と案内板があるのみ。その後訪れた東本町一の釈迦堂跡も、ソフィアセンター駐車場脇の歌碑と像も、格別お二人の興味を惹くことはなかった。死んだ人間に想いを寄せるよすがとしては、“墓”にまさるものはない。西舘さんも木下さんも「墓参りできただけで十分」と言われるのだった。
 貞心尼が「蓮の露」を残さなかったら、良寛の歌が世に知られることはなかったかも知れないと言われている。貞心尼はそれほどの功労者なのだが、柏崎の人間としては、どうしてもローカルな存在と考えてしまいがちである。しかし、西舘さん、木下さんのようなファンがいることは、貞心尼が“全国区”になりつつあることを思わせるのだった。

越後タイムス12月11日「週末点描」より)



川上澄生と棟方志功

2010年01月15日 | 日記
 第一章は「創作版画の頃」のタイトルで、川上澄生の作品を先に十五点、その次に棟方志功の作品を十点展示してあるのだった。川上の有名な《初夏の風》などの初期の作品を見ていくうちに、自然と棟方の《星座の花嫁》シリーズに移行していく。
 キャプションを見なければ、その境目が分からない。それほどに川上と棟方の初期の作品はよく似ているのだ。“わだばゴッホになる”と言って二十一歳で上京した棟方は、一九二六年川上の《初夏の風》に感動して、版画家に転向したのだった。棟方は版画家としての出発点において、ほとんど川上作品の模倣といえるような作品を残している。
 長岡の県立近代美術館で「あふれる詩心~版画と陶芸~」と題して川上澄生、棟方志功、そして旧高田市で活躍した陶芸家・齋藤三郎の作品を紹介している。川上作品と棟方作品があまりに個性的で強烈であり、残念ながら齋藤の陶器はほとんど印象に残らない。
 棟方はすぐに川上の影響を脱して、独自の世界を切り開いていく。仏教的なテーマの中に、強烈なエロティシズムを発散させている棟方の作品を見ていると、いつも“眼がつぶれそう”になって、ものが言えなくなってしまう。“ぐーの音も出ない”というか、ほとんどギブアップの状態になって、呆けたようにさせられるのだ。
 一方、川上澄生の方は、いつでも遊び心をもって、見る者を楽しませてくれる。作品をつくることが“楽しくて楽しくてしようがない”という川上の気持ちが、どの作品を見ても伝わってくる。今回の「あふれる詩心」で初めて見る作品も多く、たくさん楽しませてもらった。
 ところで、川上作品のほとんどが柏崎の「黒船館」からの出品である。何で、柏崎にあるものをわざわざ長岡まで見に行かなければならないのかという疑問を感じると同時に、「黒船館」の至宝ともいうべき川上作品を、柏崎でもっとまとめて展示することはできないかという思いに駆られた。黒船館には四百点もの川上作品が収蔵されているのである。

越後タイムス12月4日「週末点描」より)