玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(4)

2020年07月31日 | 読書ノート

 この小説の最初に出てくるのは印刷業界である。ダヴィッドの父ジェローム・ニコラ・セシャールは無学の印刷工で、フランス革命恐怖政治の時代に、死んだ親方の後を引き継いで免状を取得し、印刷屋の経営者となる。セシャールは貪欲でずるがしこい男であり、職人を酷使し、息子に対しても厳しい扱いをするのだった。

 

「学校の休みの日は《お前を育てるのに骨身をけずってはたらいた気の毒なおやじに恩がえしできるようにしっかり世渡りの道をおぼえろよ》といいながら、息子に活字ケースにむかってせっせと働かせた。」

 

 バルザックは印刷業界内部における階層についても詳しく書いている。印刷工は文字が読めなくてもできる仕事であり、文選工はそうではないから、自ずからそこにインテリジェンスの違いというものがある。確かに現代の日本においても50年くらい前までは活版印刷が主流であったから、文選工は印刷工を馬鹿にしていたし、印刷工は文選工に対してコンプレックスを抱いていたように思う。

 文選工は植字工を兼ねることもあったし、校正さえ自分でやっていたケースもあったから、頭の良いダヴィッドは父にとってこき使うのにはまことに重宝な息子であったに違いない。このように1775年頃のフランスの田舎の印刷業界も、それから200年後の日本の印刷業界もそれほど大きな違いはないということを、『幻滅』の冒頭部分は教えてくれるのである。

 活版印刷は15世紀にグーテンベルクによって発明された技術であるが、つい最近まで基本的にはテクノロジーに大きな変化はなかったのである。どんな業界でもそうであるが、画期的にテクノロジーが進展していくのは20世紀中頃からであり、それまでは労働集約型の産業が主流であったのだ。またその後、印刷業界は革命的なテクノロジーの進展の波に洗われることになるが、それをもたらしたのはもちろんコンピュータの進化であり、その点でも他の産業と大きな違いはない。

 いずれにしても『幻滅』の冒頭部分は、田舎の印刷業界の実体を手に取るように教えてくれるのである。セシャールのダヴィッドに対する言葉は、しかし尋常ではない。父親としての扶養の恩を働いてしっかり返せというのはわかるとしても、「気の毒なおやじ」という言い方には何か冷酷なものがある。しかも《しかり世わたりの道をおぼえろよ》というのだから、息子にも自分のように世渡りがうまくて商売上手な人間になれと言っているのである。

 このような父子の関係を、実は私も経験している。私の父も印刷屋の社長であって、世渡りがうまくて商売上手だった。印刷業というのは官公需が主体であったから、役人にうまく取り入って仕事をもらうというのが、印刷屋の経営者の最も重要な仕事であった(そこに飲食の接待も含まれるのは当然である。現在では許されないことだが、時効だろうからあえて書いておく)。

 したがって、学問などというものは無駄なぜいたくでしかなかった。ダヴィッドの父も学問を馬鹿にしていたが、高度な印刷術を学ばせるためにだけ息子をパリに修行に出す。私も印刷屋の手伝いを小学校3年生の時からやらされ、実業高校に進学するよう父に勧められたが、そんなあり方も19世紀のフランスの田舎の事情と大差はなかったのである。

 私は幸い普通高校に進学し、大学で文学を学ぶというまったくの無駄(あるいは家業のためにはマイナスであったかもしれない)な時間を与えてもらったが、家業を継いでからある時期までは、比較的従順に父親の言うことに従い、とても厭だった役人接待などの仕事もこなしてきた。私は世渡りはうまくなかったが、結構商売上手だったのである。

 しかしダヴィッドには実業の素質が全くと言っていいほど欠落していたし、父親との不当な契約によって高い家賃やおんぼろな機械の賃貸料を実の親に払うことを強いられ、経営は逼迫していく。この親父は『ウジェニー・グランデ』の父グランデ氏によく似ているが、グランデ氏が娘の将来を考えようとしない以上に、息子に足枷をはめ経営が成り立たなくさせてしまうのだから、こちらの方がたちが悪い。

 しかしダヴィッドは従順で気の優しい男である。次のような台詞は彼の素性をよく表している。

 

「《働こう》と、彼は心にいった。《とにかく、今のおれは苦しいが、親父だって、苦労したんだ。それに、自分のためにはたらくのじゃないか?》」

 

 

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オノレ・ド・バルザック『幻滅』(3)

2020年07月29日 | 読書ノート

 登場人物が多いということは、作品が長いということに当然帰結するのであって、『幻滅』は東京創元社版全集の中でもっとも長大な小説である。ということはバルザックの作品の中で最も長い小説ということになる。上巻232頁、下巻303頁で、合わせて535頁の大作である。全集で上下巻に分けて収載されているのは他に『浮かれ女盛衰記』しかなく、こちらは上巻372頁、下巻129頁で合計501頁である。

 二つの小説はリュシアン・ド・リュバンプレを主人公とする一つの小説とも見なされるから、両方合わせれば1000頁を超える大長編ということになる。『幻滅』は最後に、自殺をしようとするリュシアンを救うカルロス・エレーラの出現の段階で終わっているから、カルロスことヴォートランの活躍を待って初めて完結する一つの物語なのである。つまりこれは「人間喜劇」全体の縮図とも見なしうる一編なのであって、「人間喜劇」が追求したすべてのテーマを含んだ、それこそバルザックの代表作といっても間違いではない。

 しかし、取り敢えずは『幻滅』を一つの作品として考察することにしよう。なぜこの小説が長くなったのかについて考えてみたい。そこには長編小説にとって必要な複数のプロットというものが存在する。一つはダヴィッド・セシャールの物語であり、もう一つはリュシアン・ド・リュバンプレの物語である。ダヴィッドとリュシアンは『幻滅』の第一部で、「二人の詩人」として紹介されるが、この二人はアングレームという田舎の親友同士として出発し、対照的な生き方によって対照的な帰結を迎える。

 ダヴィッドの物語は、印刷所の経営者である父の跡を継ぎ、その強欲な父の犠牲となり、同業者との競争で金銭的な危機に直面しながらも、新しい製紙術の発明によってそれを乗り越え、幾多の苦難を経験し、リュシアンの妹エーヴと二人でささやかながら幸せを得ていくというというもの。

 一方リュシアンの物語は、バルジュトン夫人に才能を見出されパリでの成功に憧れて田舎を棄て、そこで文学サークルや貴族社会、そしてジャーナリズムの世界に足を踏み入れるが、その苛酷で欺瞞に充ちた社会のためにすべての野望を打ち砕かれ、親友のダヴィッドをも裏切って、自殺の瀬戸際まで追い込まれるというものだ。

 ダヴィッドとリュシアンは対照的に描かれているが、二人の物語が緊密に結びついて小説は進行していく。プロットが大きくは二つあるとしても、それらは複雑に絡み合っていて、テーマの拡散を感じさせない。私は『ウジェニー・グランデ』で、金銭のテーマと恋愛のテーマがうまくかみ合わずに拡散してしまっていることを指摘したが、そのようなことは『幻滅』において問題にはならない。

 長編小説にあっては短編小説のようにプロットが一つに収斂されるのではなく、複数のプロットが複雑に絡み合い、緊密に結びついて豊かな世界を現出することが求められるが、『幻滅』は正にそのような作品なのである。

 それにしてもこの小説にはさまざまな社会階層が描き出されていて、その点だけでも驚嘆すべきものがある。基本的には労働社階層、ブルジョワ階層、貴族階層ということで、宗教の社会は描かれていないが、最後にカルロス・エレーラが登場して、偽物ではあれ宗教の世界も垣間見せてくれる。

 もっと驚くべきことは、バルザックがさまざまな業界とそこに所属する人物達とを、徹底した取材によっていかにもそれらしく描いていることである。印刷業界、文学サークル、出版業界、新聞や雑誌のジャーナリズム業界、劇場と役者の業界、手形割引人の業界、代訴人の業界などなど、数え上げればきりがない。

 ヘンリー・ジェイムズはバルザックのこうした膨大な素材が、彼の想像力から生み出されたものだと言っているが、しかしこの〝本当らしさ〟は、バルザックが実際に体験したことへの優れた観察眼によって獲得されたものと思わざるを得ないのである。

 

 

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オノレ・ド・バルザック『幻滅』(2)

2020年07月28日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジエイムズは、1905年のバルザックをめぐる講演の中で、次のような発言を行っている。

 

「彼には他の大作家に見られぬ特徴があります。読者に好都合なように、ある特定の作品が群を抜いて他のものよりすぐれているということが言えないのです。」

 

 つまりジェイムズは、バルザックの作品は「人間喜劇」という大きな「一つのかたまり」であって、その中から特定の作品を取り出して優劣を言うことには意味がないということを言っている。「読者に好都合なように」とは、多くの作品を持つ大作家に接する時に、代表作だけを「好都合」に読んで済ませることができないということも意味していて、読書の効率ということを考えた時には、誠にバルザックという作家は読者にとって不都合な作家なのである。

 さらにジェイムズは次のように言う。

 

「作品の一つが傑出していて他のものを代表し、全体の象徴とすることがないという現象は、他の種類の作品との際立った類似性を暗示するからです。」

 

 結局次のようなことが言えるだろう。バルザックの「人間喜劇」に属する作品の一つを論じることは、それが90編あるとしたら「人間喜劇」を90分割したその部分を論じるに過ぎず、その部分が「人間喜劇」全体を代表し、象徴することがあり得ないならば、どの作品も他の作品と類似してくるのだし、どの作品が彼の代表作であるとか、最高傑作であるとか言うことができなくなる。

 バルザックが『ゴリオ爺さん』で人物再登場法を採用して以降、すべての作品はお互いに関連していて、大きな全体の部分であり、独立した作品ではあり得ない。最高傑作は「人間喜劇」であるとしか言えないのである。

 中には比較的独立性を保っている『絶対の探求』とか『谷間の百合』とかいった作品もあり、それらが輻輳したプロットを持たず、一本の強力な柱に貫かれているように見えることから、そのような作品を最高傑作と見なす向きもあるだろう。しかし、そのような観点自体に間違った方向性があるとすれば、我々はそれに与することができない。

 だからバルザックの最高傑作を云々すること自体が間違っているのだが、それでもバルザックの膨大な作品の中で、どれを最高傑作とするかという議論の誘惑に抗することは難しい。では『幻滅』がバルザックの最高傑作といわれることの意味はどこにあるのだろう。私はあえて禁忌を犯してそのことに言及してみたい。それが間違った議論であるにしても、『幻滅』の美点について何かを言うことが、まったくの無益とは思われないからである。

 第一に『幻滅』のスケールの大きさを挙げることができる。登場人物がやたらと多くて、数えてみることまではできないが、東京創元社版の全集に掲載されている「作中主要人物リスト」だけで二十人を数える。実数はこの三倍はあるだろうから、六十人は登場しているだろう(ちなみにこのリストには、主人公リュシアンの詩を最初に認め、彼の恋人となるバルジュトン夫人の名前さえ欠落している)。

 登場人物が多いということが直接その作品の美点となるわけではないが、『幻滅』では複雑極まりない階級構造、社会構造が描かれていくから、人物の多さは小説の性質上位必然的なものであり、もしそれが上手くいった場合には、その小説の価値を高めるものとなるのは当然である。

『絶対の探求』のように一本柱で構築された作品の場合には当然人物は当然少なくなり、作品に締まりを与えるかもしれないが、必ずしもそれは「人間喜劇」が本質的に求めたものとは違う。つまり『幻滅』の方がより「人間喜劇」らしいのである。

 

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(1974、東京創元社バルザック全集11,12巻)生島遼一訳

 

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オノレ・ド・バルザック『幻滅』(1)

2020年07月26日 | 読書ノート

 随分長いことこのブログから遠ざかっていたが、そろそろ復帰しなければならない。今年3月と4月は、「北方文学」にヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』についての論考と、「群系」にリービ英雄についての文章を書くことに費やした。5月と6月の大半は「北方文学」の編集に時間を取られていたから、7月になってようやく好きな本を自由に読むことができるようになった。

 5月から今月までにバルザックを三作読んでいる。最初に『百歳の人――魔術師――』。この作品はバルザック青年期の習作とも言うべきもので、はっきり言って出来はよくない。この作品は明瞭にチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』の影響が窺われ、出来そこないのメルモスといった印象しか受けない。『百歳の人』を読んで一番強烈に感じたことは、『放浪者メルモス』のマチューリンがいかに偉大であったかということに他ならない。

 その後『浮かれ女盛衰記』を読んで、カルロス・エレーラ神父ことジャック・コラン、またの名ヴォートランの、人間ばなれした活躍ぶりを堪能することができた。この小説ではリュシアンもその恋人エステルも魅力的だが、主人公は間違いなくヴォートランだと言ってよい。ヴォートランは『ゴリオ爺さん』にも出てくるから、既知の人物ではあったが、そこではまだ彼の力の片鱗しか見せていない。

 おそらく『浮かれ女盛衰記』において、ヴォートランに最も多くの活躍の場が与えられたのである。それほどにこの人物の印象は強烈である。ヴォートランは脱獄囚であり、底の知れぬ悪漢として登場するが、そこで思い出すのもまたマチューリンの『放浪者メルモス』なのである。ヴォートランの人物像は間違いなく、その系譜を『放浪者メルモス』に負っている。青年期の若書きとして不十分だった『百歳の人』の魔術師が、円熟の境地と共にヴォートランへと成長し、メルモスにも劣らぬ人物に発展しているのである。

 バルザックの創造した人物は2000人を超えると言われているが、主人公クラスの人物だけを取り上げて比較した時に、ヴォ―トランに比肩するような人物が他に存在するであろうか。多分ヴォートラン、つまりジャック・コランこそが、バルザックが創造した最も偉大な人物なのだと私には思われる。

『浮かれ女盛衰記』にはヴォートランがそのたぐいまれな能力、詐欺師的な謀略の力や他の登場人物を信服させる人間的な魅力を発揮する場面がふんだんに用意されているが、私にとって不可解だったことは、カルロス・エレーラことヴォートランは、プライドばかり強くてだらしのない男リュシアン・ド・リュバンプレに、なぜここまで肩入れするのかということであった。ヴォートランはリュシアンの金銭的危機に際しても、恋愛的危機に際しても、いつでも強大な力を発揮して彼を救い続けるのである。

『浮かれ女盛衰記』は大変に面白い小説であったが、そんな疑問が残ったために、『浮かれ女盛衰記』がその続編として位置づけられる『幻滅』を読まないわけにはいかなくなってしまったのである。『幻滅』は若い時に一度読んでいるのだが、今や全く忘れはて、その内容を覚えていない。このバルザックの最高傑作とも言われるこの作品の、重苦しい雰囲気だけは記憶に残ってはいたが。

 それにしてもこのところ19世紀フランスの小説ばかりを読んでいる。バルザック、フッローベール、スタンダールが中心で、ようやく私はフランス文学の主流をなす作家たちの作品に触れることができているのである。いわゆる19世紀的リアリズムということで括ることのできる作家たちである。フローベールは強烈なリアリズムとさらに強烈なロマン主義とに引き裂かれた作家だったから、作品の数から言っても本命はやはりバルザックということになる。

 面白い小説が読みたくなると、私はいつでもバルザックに立ち戻る。「困った時のバルザック」と言っていて、バルザックの小説を読んで後悔するということがない。そのスケールの大きさといい、登場人物達の魅力といい、ストーリーの面白さといい、いつでも安心して立ち戻ることのできる作家なのである。

 

オノレ・ド・バルザック『百歳の人――魔術師――』(2007、水声社、「バルザック幻想・怪奇小説選集」①)私市保彦訳

オノレ・ド・バルザック『浮かれ女盛衰記』(1975、東京創元社バルザック全集13,14巻)寺田透訳

 

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「北方文学」81号紹介

2020年07月04日 | 玄文社

「北方文学」第81号が発刊になりましたので、紹介させていただきます。80号に引き続いて今号も追悼特集を組むことになってしまいました。最後の創刊同人であった大井邦雄氏が今年1月に亡くなってしまったからです。大井氏は早稲田大学名誉教授であり、定年後もシェイクスピア研究をライフワークとして続け、2014年にはハーリー・グランヴィル=バーカーの訳述で日本翻訳文化賞特別賞を受賞しています。シェイクスピア研究の泰斗、大場建治氏はじめ、多くの同僚の方や弟子の方々から追悼文をいただきました。同人の追悼文も5本掲載しました。かなり詳細な略年譜も作成しました。

大井氏本人の作品も2編掲載しています。「北方文学」第2号掲載の詩「パンと恋と夢」と、第59号掲載のウィルフレッド・オーウェン論です。シェイクスピア研究に一生を捧げた大井氏の原点にあったのは詩であったのでした。

巻頭に中国人で日本語で書く詩人、田原氏より久しぶりに寄稿をいただきました。韓国の高名な詩人、高銀に捧げられた無題の作品は、詩の言葉が漢江の流れとともにどこまでも到達していく、普遍性への信頼を語っています。

 続いて館路子の長詩。災厄詩人として知られる彼女ですが、このところ動物をモチーフとした作品を書き続けてきました。今号の「夜半、雨の降る中へ送り出す」ではその動物がこれと特定されていません。何か得体の知れぬ気味悪いものであるところを見ると、新型コロナウイルスのことなのかもしれません。

 魚家明子の詩が2編続きます。「パン」と「春の夜」です。軽めに書かれていますが、夢が肉体を通して喚起するイメージが鮮烈に綴られていきます。天性の詩人ですね。

批評が5本続きます。これこそ「北方文学」の「北方文学」らしいところで、それぞれテーマはバラバラですが、批評精神は共通しています。今号は若手の映画論とロック論もあり、

サブカルチャーを本格的に論じることのできる人材を大事にしたいと思っています。

 最初は徳間佳信の「泉鏡花、「水の女」の万華鏡」の三回目、「銀短冊」についての論考です。「銀短冊」の前に、先々号の「沼夫人」への中国伝統劇の台本『雷峰塔伝奇』の影響について論じています。中国文学を専門にする徳間らしい指摘です。あまりこれまで論じられていない「銀短冊」についての分析で、徳間は鏡花の語りが幻想へと向かっていく構造を一般化している。語りの中で事実と暗喩との境界が定かでなくなっていき、そこに生々しいイメージを持った幻想が生まれてくるという指摘です。

 次は柴野毅実の連載「ヘンリー・ジェイムズの知ったこと」の4回目。『鳩の翼』を取り上げます。今回はあくまでも作品に寄り添い、作品分析を通してジェイムズの作品に迫ります。ジェイムズがしばしばテーマとした金銭と恋愛が、この作品において最も突出した到達点を示しているというのが柴野の考えです。バルザックの『ウジェニー・グランデ』との比較も行っています。

 榎本宗俊の「慰謝する風景」へと進みます。基本的な枠組みは短歌論ですが、いつものように仏教論でもあり、反近代論でもあります。いつも断片的な議論を展開する榎本ですが、今回はかなりまとまりがあります。

 次の岡嶋航「偶像破壊者スーパースター」はホラー映画の新鋭、アリ・アスター監督の「ヘレデタリー/継承」と「ミッドサマー」について論いています。ホラー映画における顔の破壊がテーマになっています。よく観ていますね。

 鎌田陵人の批評もサブカルチャーに関わるもので、日本のオルタナティヴロック、GEZANを論じています。ロックの原点がrebel(反抗)にあるという指摘は正しいと思いますが、鎌田の好きなのはパンク系なので、あまり一般受けするようなものではありません。

 以上批評、以下は研究ということになります。鈴木良一の大連載「新潟県戦後50年詩史」も始まってから10年近くたつでしょうか。今回は1981年から1985年を取り上げていて、「北方文学」のウエイトが大きくなっています。懐かしい名前がたくさん出てきます。ちなみに私はそのころまだ30代の若手でありました。

 福原国郎の井上円了についての論考は、現在彼が進めている県立長岡高校150年史編集のための資料読みから出てきたテーマに拠っています。東洋大学創立者の井上円了は現長岡市出身で、長岡高校の新潟学校第一分校・長岡学校時代の在籍者で、生徒会「和同会」の創設者でもありました。

 最後に小説が2本続きます。大ベテランの新村苑子の「再会」は、冤罪で20年の懲役後、冤罪のもととなった事件に責任のある元夫と苦い再会をする女の心情を描きます。こういう重いテーマで書かせたら、いい味を出します。

 まだ同人歴の浅い柳沢さうびの「砂漠へ行く」は、前2作に引き続いて新人とは思えない安定感を持った作品です。前2作のような幻想的な要素はありませんが、不可解で割り切れない読後の印象は共通しているかもしれません。それにしてもいいタイトルだなあ。

 

目次を以下に掲げます。

【追悼・大井邦雄】

大井邦雄*パンと恋と夢

大井邦雄*呪われた青春に捧ぐる讃歌――ウィルフレッド・オーウェンのこと

大井邦雄略年譜

追悼文・大場建治/野中 涼/冬木ひろみ/間 晃郎/廣田律子/樋口幸子/山内あゆ子/米山敏保/坪井裕俊/館 路子/霜田文子/柴野毅実

田 原*無題――高銀に

館 路子*夜半、雨の降る中へ送り出す

魚家明子*パン/春の夜

大橋土百*冬の虹

徳間佳信*泉鏡花、「水の女」の万華鏡(三)――描写と幻想の間、「銀短冊」の場合

柴野毅実*ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(四)――七、『鳩の翼』または金銭とセクシュアリティ――

榎本宗俊*慰謝する風景

岡島 航*偶像破壊者スーパースター

鎌田陵人*レベルミュージック2020 ――GEZAN『狂(KLUE)』を聴く――

鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史――隣人としての詩人たち〈15〉

福原国郎*井上円了在学中の新潟学校第一分校・長岡学校――「和して且つ同ず」とは

新村苑子*再会

柳沢さうび*砂漠へ行く

 

お問い合わせはgenbun@tulip.ocn.ne.jpまで。

 

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