大きな情熱が失われた。二十日、茨城県水戸市の「中村彝会」の会長である梶山公平さんの訃報が入ってきた。ついこの間、電話でお元気な声をお聞きしたばかりであったのに……。大正十五年三月のお生まれだから享年八十一歳であった。
梶山さんの中村彝に対する情熱には、すさまじいものがあった。茨城県立美術博物館前に彝の銅像を建てた。下落合に残る彝のアトリエを彝の故郷・水戸の地に復元もした。彝静養の地・平磯海岸に記念碑も建てた。多くの私財を投じてである。昭和六十三年には念願の著書『夭折の画家 中村彝』を出版した。
来柏されたのは平成十四年四月。その理由がすごい。彝会の元会長・故鈴木良三が、その著書で洲崎義郎について心ない文章を残した、そのことを柏崎の人たちに謝罪したいためというのであった。お詫びの印に梶山さんがタイムス社にお持ちになった彝の肖像レリーフを今も大切に保管している。
平成十五年に水戸市で大回顧展が開かれた時には、大変お世話になった。展覧会はもちろん、彝の墓や出身小学校にまでご案内いただいた。足が不自由でいらっしゃるのに、中村彝のこととなると、とことんやらなければ気が済まないのだった。
梶山さんが彝の話を始めると終わりということがなかった。柏崎でご一緒した時も、水戸でお会いした時もそうだった。まるで梶山さんの人生の全部を彝に捧げているようにさえ思えた。一人の画家に対して、梶山さんほどの情熱を傾けている人を、後にも先にも見たことがない。それほどの情熱であった。
東京新宿の「中村彝アトリエ保存会」とタイムスを結びつけてくださったのも梶山さんだった。梶山さんが茨城弁のイントネーションで「つねさんはねえ……」と話す時の、優しい表情を忘れることができない。書きたいことはまだたくさんあるが、紙面が足りない。
梶山さんの中村彝に対する情熱には、すさまじいものがあった。茨城県立美術博物館前に彝の銅像を建てた。下落合に残る彝のアトリエを彝の故郷・水戸の地に復元もした。彝静養の地・平磯海岸に記念碑も建てた。多くの私財を投じてである。昭和六十三年には念願の著書『夭折の画家 中村彝』を出版した。
来柏されたのは平成十四年四月。その理由がすごい。彝会の元会長・故鈴木良三が、その著書で洲崎義郎について心ない文章を残した、そのことを柏崎の人たちに謝罪したいためというのであった。お詫びの印に梶山さんがタイムス社にお持ちになった彝の肖像レリーフを今も大切に保管している。
平成十五年に水戸市で大回顧展が開かれた時には、大変お世話になった。展覧会はもちろん、彝の墓や出身小学校にまでご案内いただいた。足が不自由でいらっしゃるのに、中村彝のこととなると、とことんやらなければ気が済まないのだった。
梶山さんが彝の話を始めると終わりということがなかった。柏崎でご一緒した時も、水戸でお会いした時もそうだった。まるで梶山さんの人生の全部を彝に捧げているようにさえ思えた。一人の画家に対して、梶山さんほどの情熱を傾けている人を、後にも先にも見たことがない。それほどの情熱であった。
東京新宿の「中村彝アトリエ保存会」とタイムスを結びつけてくださったのも梶山さんだった。梶山さんが茨城弁のイントネーションで「つねさんはねえ……」と話す時の、優しい表情を忘れることができない。書きたいことはまだたくさんあるが、紙面が足りない。
(越後タイムス6月22日「週末点描」より)