玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

佐藤春夫『新編 日本幻想文学集成』より(1)

2022年01月31日 | 日本幻想文学

 国書刊行会は1991年から1995年にかけて『日本幻想文学集成』全33巻を発行したが、2017年に新たに『新編 日本幻想文学集成』を刊行している。一人の作家につき1巻だったものを、4から5人の作家をそれぞれ1巻にまとめ、旧版発行時以降に亡くなった安部公房・倉橋由美子・中井英夫・日影丈吉の巻を追加して、全部で9巻の叢書にまとめ直したのであった。
 ここまで日本の幻想文学を体系的にまとめたアンソロジーは他にはないので、私は老後の楽しみに全部読んでやろうという意気込みで購入したのだった。しかしこれまでに読んだのは安部公房と倉橋由美子だけで、すでに私の老後も黄昏が近づいているのだった。安部と倉橋について書こうと思ったのだが、倉橋についてはともかく、安部にはかなり失望してしまったので、その時は書けなかった。
 助走としてツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』を読んで、それについてまず書いたので、トドロフの本についてはこのブログの「日本幻想文学」の項目に入っているという、変則的な形になってしまっている。トドロフの本は極めて有益な議論を展開しているので、これからも参考にすることもあるだろう。
 今回、久しぶりに『新編 日本幻想文学集成』に取りついたのは、佐藤春夫を読むためであった。しばらく前に、東雅夫編の『日本幻想文学大全』というアンソロジーの、「幻妖の水脈」に載っていた「女誡扇綺譚」という作品を読んで、その見事な出来栄えに感心していたので、次に読む日本の幻想小説は佐藤春夫と決めていたのである。
 佐藤春夫が含まれる第5巻は「大正夢幻派」と題されていて、他に江戸川乱歩・稲垣足穂・宇野浩二が入っている。私は江戸川乱歩以外ほとんど読んだことがないので、これからも楽しんで読んでいけるだろう。
 最初の作品「指紋」を読んで私は、佐藤春夫についていくつかの基本的なイメージを?むことができたように思う。まず「指紋」はいわゆる「探偵小説」として読めるということである。初出は1917年「中央公論」だが、1920年創刊の「新青年」にこそ相応しい内容となっている。実際に佐藤は「新青年」に探偵小説を寄稿していたのであった。
「指紋」はR・Nという男を主人公とし、その友人の「私」(=佐藤)によって語られる彼にまつわる摩訶不思議な物語である。洋行していたR・Nはずっと「私」に手紙を寄越していたが、ある時から音信が途絶えてしまう。その後十数年ぶりに突然「私」の前に現れたR・Nは、健康を害しているように見え、「私をかくまってくれ」と懇願する。かと思うと突然長崎へ行くと言って、また姿を消してしまう。
 このように最初に奇態な謎を提示しておいて、それを徐々に解明していくというのが、「探偵小説」の手法であり、これはゴシック小説や恐怖小説に発する常套的な手法なのである。当時はジャンルが未分化であったから、幻想小説的なものも、推理小説的なものも総じて「探偵小説」と呼ばれた。探偵が出てこなくてもそれは「探偵小説」と呼ばれたのであった。
 謎は謎を呼んで、一緒に観た「女賊ロザリオ」という活動写真に対する彼の異常な反応が、さらにまた謎を呼ぶ。謎解きはかなり奇矯であり、強引ではあるが、一応合理的になされていて、超自然的な要素を含まない。
 だからこの小説は「夢幻」的な作品とは見なせないのだが、錯綜した謎の部分だけでなく、R・Nが阿片窟でみる夢の描写に幻想的なものがあると言える。そうした傾向を「新青年」的と言うとすれば、佐藤春夫は「新青年」的小説の先駆け的存在であったのかも知れない。そして、その夢は明らかにゴシック的な夢であって、これが阿片吸引がもたらす夢であるとすれば、それは佐藤本人の経験によるよりも、ド・クインシーの作品からの影響と見るべきだろう。こんな夢である。

「それは非常に静かで、最も碧く、?漠として居た。だが私はそれが湖水だといふことをよく知って居る。といふのは、その海のやうに曠漠とした平静な水面の対岸に、やはりそれと同じやうに巨大な建築物が見えるからだ。それは自然の風景を十二倍した位の巨大さだ。その?の風景は今も言ふとほり、湖水を前景にして自然を十二倍した巨大さで或る古城が現れた。その古城の未だ後には回々教の殿堂だと見えるドオムが、やはり少くとも自然を十二倍した位に、古城の凹凸のぎざぎざや銃眼のある城壁に半分隠されて重り合って居る。城壁の後に回々教の殿堂といふ対照は理智的に考へるといかにも飛び離れた組合せではあるが、夢のなかではそれが最も合理的なリズムで調和されて居た。さう。 それに明るい月光が照して居た――私は水さへ見ればきっと月を、月さへ見ればきっと水を見た。海のやうに広漠な水面の夢なのだ。」

 この場面が夢幻的だとしても、文章はあくまでクリアで明晰である。佐藤春夫という作家は幻想作家ではあるが、夢の描写において決して狂熱的な文章で書ける人ではなかったというのが、私の印象である。

・「新編 日本幻想文学集成」第5巻『大正夢幻派』の佐藤春夫 


コルム・トビーン『巨匠』(3)

2022年01月30日 | 読書ノート

 生涯結婚することのなかったヘンリー・ジェイムズは性的不能者であったとか、同性愛者であったとか言われているが、私は伝記を読んでいないので詳しいことは分からない。トビーンが挙げているレオン・エデル著の5巻本の伝記があるそうだが、そんなものを読む気はしない。
 ジェイムズの自伝も3巻本が翻訳されていて、私はそのうち1巻だけは読んだが、それを読むことで何も得るものはなかったというのが正直なところである。だから2巻と3巻は手つかずの儘になっている。私には作家がどのような人生を送ったか、などということにはほとんど興味が持てない。私に興味があるのは、その作家が作品を通して何を実現したかということであって、それ以外ではない。
 トビーンの興味は私とはまったく違っている。彼の興味はジェイムズが作品の裏に何を隠したかというところにあるようで、「日本語版に寄せて」で次のように書いている。

「ジェイムズの小説の最高傑作である『ある婦人の肖像』、『大使たち』、『鳩の翼』、『黄金の盃』には、性の秘密であることが多いのだが、暴露されたらそれこそ衝撃的であろう秘密が隠されている。これが筋だけでなく、秘密を隠す人物、それもエネルギーに満ちて巧みに隠す人物と、あるいは、ほとんど明らかなことに気付かない無垢な人物とを活気づけるものだ。」

 この文章の前段と後段の間にはトビーンの誤解による矛盾がある。ジェイムズ自身が作品において隠したものと、彼の登場人物が隠したものとの間には、層の違いがあるのであって、それを同一の位相で語ることはできない。彼の登場人物たちはお互いに、あるときは隠し、ある時は探るというように、相互に決して融和的であることがない。それがジェイムズの小説の特徴というだけではなくて、おそらく心理小説といわれるものの特徴なのだ。心理小説はもっぱら恋愛を描きながら、〝愛の不可能〟をこそ語るものだからだ。
 ジェイムズの隠された性の問題を言うのなら、そのことで充分ではないか。彼は〝愛の不可能性〟のもとで生きかつ書いたのであって、登場人物たちが彼らの秘密を隠すようにジェイムズが彼の秘密を隠したなどというのは、間違った考え方である。別に彼の秘密は作品の中で隠されてはいない。『ある貴婦人の肖像』のイザベル・アーチャーやラルフ・タッチエットも、『大使たち』のランバート・ストレザーも、『鳩の翼』のマートン・デンシャーも、『金色の盃』のアメリーゴ伯爵も、そうした生き方をするのであって、何も隠されてなどいない。
 性的不能や同性愛的嗜好が隠されているとトビーンは言うのかも知れないが、トム・ハモンドやヘンドリック・アンデルセンを登場させて、ジェイムズの性的な嗜好を描いたところで、それで」一体何が文学的に付け加えられるというのだろうか。そんなものに私は興味はない。
 この小説で重要な位置を占めるコンスタンス・フェニモア・ウールスンとの交際についてもそうである。年譜によれば、1887年からジェイムズと彼女との付きあいが始まり、1894年に彼女がヴェネツィア自殺したという経緯がある。年譜には「交わる」と書いてあるが、何もそれが性的交渉を意味しているとは限らない。
 彼女がジェイムズの冷淡さ故に自殺したという説をトビーンは採っているが、確かなことは誰にも分からない。だからトビーンも具体的なことは何も書いていないが、そこにジェイムズの不能が関係していたとしても、それもまた重要なこととは思えない。
 そう一つ致命的な欠陥が『巨匠』という小説にはある。それは1895年から1899年までの5年間に絞って書くと言い、そこに後期3部作に結実する重要な要素があると言っておきながら、小説のほとんどがそれ以前の時期への回想的な内容になっているところである。病気で夭折した妹との関係についてもそうだし、相思相愛の関係にあった従妹のミニー・テンプルとの関係についてもそうだ。大事なコンスタンスとの関係についてもそれは過ぎ去った事件に過ぎない。ヘンドリックとの同性愛と兄のウィリアムとの交流以外は、すべて過去のこととして語られているのだ。だからそこに後期3部作に結実する重要なモチーフを読み取ることが私にはできないのだ。
 私はこれからジェイムズを読んでいこうとする人に、この小説を薦めない。それは私がジェイムズのあの観念的な作品『聖なる泉』を薦めないのと同じ理由からである。つまりそれらの本を読むと、ジェイムズという人間が嫌いになってしまうであろうし、それが大きな損失であると私には思われるからである。
(この項おわり)


コルム・トビーン『巨匠』(2)

2022年01月28日 | 読書ノート

 確かに退屈な小説である。お話は『ガイ・ドンヴィル』上演の大失敗のことから始まるのだが、主人公ジェイムズの感情の起伏や心理の機微が見えてこない。トビーンはこの小説に、ジェイムズに倣って視点の方法を取り入れ、ジェイムズその人を視点人物として他の登場人物たちとの接触を描いていくが、ジェイムズの小説に見られる見事な分析力が微塵もない。
 ジェイムズの小説もある意味では退屈であり、それは彼の小説にどのような目を見張るドラマもなければ、破局的な事件も起きないからなのだが、しかしそこには心理のドラマが圧倒的に展開しているのであって、感情の激発や心理の動揺はこの上なく徹底して描かれているからだ。そんな意味で確かにヘンリー・ジェイムズは、それこそ〝巨匠〟と呼ばれるべき大作家であったのだという思いを強くする。だからある意味で、ジェイムズという作家を主人公にした小説を書こうなどという試みこそ、無謀なものと言わざるを得ない。
 この小説でジェイムズはいつも優柔不断で受動的な人間として描かれているが、それは次のようなトビーンの見方によっている。

「彼はよそよそしく、洗練されていて、大体において寡黙な人で、中年で、過去の人びとの影がまつわりつき、活気があるのは仕事のときくらいである、そういう人物に思われた。」

 これもトビーンが「日本語版に寄せて」で言っていることだ。外から見ればそのような人物であったかも知れないが、実際にそんなことはあり得ない。あれだけの人間心理に対する分析力を発揮した人間が、単に優柔不断で受動的な存在であったはずがないからである。絶えず観察し、他者の心理と自身の心理に分け入り、絶えることなく分析を続けた人間であったヘンリー・ジェイムズがこの小説に描かれたような人物であったはずはないのである。
 そういう意味でヘンリー・ジェイムズという人間を知るには、その伝記よりも、研究書よりも、おそらくは自伝よりも、彼の作品を読むに越したことはないのである。そこでは彼の観察力と分析力が躍動しているし、人間が外見によって測られるのではないとすれば、ジェイムズの人間性は彼の作品の中に極めて歴然と刻印されているのだし、それを見なければ何を見たことにもならないからだ。
 トビーンの小説はだから退屈極まりないものとなる。「もういいや」と思いながらも私はしかし、何か出てくるのではないかと期待して読み進め、結局最後まで読んでしまうのだった。作者は何を描きたかったのだろうか?
 この小説には実在の人物だけではなく、作者の創造した人物がおそらく一人だけ出てくる。失意のジェイムズを歓待するウルズリー卿の召使いで、退役軍人のトム・ハモンドという人物である。ジェイムズとハモンドの会話の途中に思わせぶりな場面が挿入されてくる。

「ハモンドが彼をまたじっと見ていた。不作法なくらい強烈に彼を観察していた。ヘンリーはできるだけ落ち着いて彼の凝視する目を見返した。沈黙があった。等々ハモンドが目をそらせた。思いにふけり、沈んでいるようだった」

 この場面はハモンドとジェイムズの間の同性愛的な感情を仄めかしたものであり、このパターンは小説の後半でもう一度繰り返される。今度の相手は、ローマにおける美貌の若き彫刻家ヘンドリック・アンデルセンである。二人の同性愛も同じようにジェイムズが見つめられることから始まっている。そして今度は仄めかしに留めることなく、明らかに同性愛関係に発展する場面をトビーンは描いている。
 ここでもトビーンはジェイムズの受動的な愛情のあり方を強調したかったのだろう。ハモンドは作者によって創造された人物であると明かされているが、アンデルセンの方はそうではない。だとすると、この男は実在の人物なのか? しかしこの男の人物像が『ロデリック・ハドソン』の天才彫刻家ロデリック・ハドソンに、あまりにも似ているために疑問を感じてしまう。人物像だけではなく、この男のおかれたシチュエーションまで『ロデリック・ハドソン』そっくりで、作者は『ロデリック・ハドソン』におけるハドソンとローランド・マレットとの間の関係に、ジェイムズの実際の同性愛嗜好を読み取っていて、それを虚構として紛れ込ませているのではないかとさえ思われてくる。


コルム・トビーン『巨匠』(1)

2022年01月27日 | 読書ノート

 コルム・トビーンなどというまったく知らない人の本を読むことにしたのは、その本の副題に「ヘンリー・ジェイムズの人と作品」とあったからだ。私はずっとヘンリー・ジェイムズの作品を追い続けてきたし、これまで数冊の研究書も読んできた。しかしその中には日本人の書いたもの以外は含まれていない。ならば、外国人の書いたジェイムズの研究書を読んでみようという気になったのも不思議なことではない。
 これまでに読んだジェイムズの研究書は、中村真一郎の『小説家ヘンリー・ジェイムズ』(これは研究書というよりは評論)、青木次生の『ヘンリー・ジェイムズ』、歿後100年を記念して日本で出版された『ヘンリー・ジェイムズ、いま』などで、『ヘンリー・ジェイムズ、いま』は酷い内容だったが、それ以外の本からは色々と示唆を受けることができた。特に昨年9月に出た大畠一芳の『ヘンリー・ジェイムズとその時代』は、とてもいい本で、啓発されるところ大であった。
 そんなわけで『巨匠』も読んでみようと書店に注文したのだったが、着いてびっくり。なんとこれはアイルランドの作家コルム・トビーンによる小説であったのだった。もちろん原題には「ヘンリー・ジェイムズの人と作品」などという副題は付いておらず、単にThe Masterという実に素っ気ないタイトルなのであった。
 一瞬失敗したな! と思ったが、トビーンがアイルランドの作家であることに注目した。ヘンリー・ジェイムズの祖父ウィリアム・ジェイムズが、アイルランドからの移住者であったからである。大畠の本にはその辺の事情が詳しく書かれていて、祖父ウィリアムの厳格なピューリタニズムが、その子ヘンリーに与えた屈折した影響、父ヘンリーが二人の息子、ウィリアムとヘンリーに及ぼした影響などについて書かれていたからだ。
 そうしたことが書かれているのではと期待したが、この本に付された「日本語版に寄せて」をまず読んでみると、まったくそうではないことが分かった。この小説は11の章からなっていて、それぞれ1895年1月から1899年10月までの日付が各章のタイトルとなっている。この5年間に絞って書かれているのは何故かといえば、その間にジェイムズの偉大な後期三部作『使者たち』『鳩の翼』『金色の盃』が、彼の中に胚胎されていくからであり、トビーンはそれを跡づけたいという意図を持っていたからだという。
 実際に『使者たち』が書き始められるのは1899年のことだし、1895年にジェイムズが書いた戯曲『ガイ・ドンヴィル』がロンドンで上演され、大失敗に終わったために彼が再び小説へと戻っていくことになったという時期は重要なものに違いない。この5年間にジェイムズが書いた作品は、私の好きな『ポイントンの蒐集品』と『メイジーが知ったこと』と、あの大傑作『ねじの回転』が含んでいる。
『巨匠』という作品が小説家を主人公としたものである以上、その作品についての情報が作中で語られるのは当然のことだが、この作品で最も頻繁に触れられているのは『ある貴婦人の肖像』であり、『ロデリック・ハドソン』であって、大事な後期三部作についてはほとんど触れられていない。『使者たち』について多少の言及があるに過ぎない。 
 そのことにまず疑問を感じないわけにはいかない。そう思いながら、退屈な人生を送ったヘンリー・ジェイムズの伝奇小説など、さぞ退屈極まりないものだろうと、予想を付けながら読み進めることにした。

・コルム・トビーン『巨匠』(2021、論創社)伊藤範子訳

 

 

 


鈴木創士『分身入門』(6)

2022年01月18日 | 読書ノート

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽が我々にもたらす快感、それも単なる快感ではなく、〝苦痛=快感〟と言った方が相応しいような、両義性を帯びた快感について、鈴木はややぎこちなくではあるが、うまく言い当てている。
 マゾッホが出てくるのは、彼らの曲にVenus in Fursがあるからで、マゾッホの主人公たちの「ひどい苦痛」が一面では快楽でもあるように、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音は、苦痛と快感において可逆的である。つまりは言葉の真の意味において倒錯的なのである。
 あの歪んだギターと調子の外れたヴィオラが、下手くそなドラムの上で執拗に同じ音を繰り返していくノイズ感溢れた曲に、普通なら苦痛を感じてもおかしくないのに、いつしかそれに快感を覚えるようになっていき、ついには中毒に到るという体験はヴェルヴェット・アンダーグラウンド以外にはあり得ないものではないだろうか。
 鈴木の言う「中心はいたるところにあって」「音の行方が不在」ということは、美術で言えばオールオーバーな表現に近いものがあって、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドをプロデュースした、アンディ・ウォーホルの作品とはまったく違っている。ウォーホルの作品には繰り返しはふんだんにあるが、絵の輪郭は保たれているし、形も不在ということはない。
 むしろヴェルヴェット・アンダーグラウンドの表現は、ジャクソン・ポロックのオールオーバーな絵画に似ているかも知れない。それは輪郭も、中心も、形すら持たず、無限の反復の中に、苦痛と快楽の両義性が胚胎されているからと言うことができる。
 鈴木はなぜかヴェルヴェット・アンダーグラウンドを論じて、いつの間にか「分身」のことを忘れてしまっているように思われる。「分身」という言葉も使われなくなるし、「イマージュ」という概念にも触れることがなくなっていく。しかし、いいのではないか。忘れてしまってもいいのだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音を聴いて、いったい誰がまともな理性を保ちうるだろう。それこそヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、今も生きていることの証拠だろう。
 だから彼らの音を聴くということは、分析的にではなく体験的にしか語り得ないものとなる。鈴木は二編目の「ヴェルヴェット共同体」で、次のように聴く主体としての体験を語っている。これ以上のことを語ることはほとんど不可能に近い。

「もう一度言おう。共同体は共同体から切り離さねばならなかった。それはあまりにも切実で、切迫し、焦眉の急を告げていた。笑ってしまうが、外では、すべては今日のお天気のように上々である。共同体のなかで自分が、つまり主体の「現れ」が確認され確保されるのではない。その反対である。微に入り細をうがって管理され管理するかわりに、あるいはずっと下の方で霊的ノイズの波が押し寄せる自殺者の断崖から飛び降りるのをためらうようにして、あるいはでたらめに、めくら滅法に、主体は自分に対して、厳密にはどんな風にしてかはわからないにしても、別様にしか生きることのできない分としか言いようのない自分を与え、自分の知らない自分を再構築し、再建し、つくり直すことによって、一般的に、つまり共同体的に言えば、堕落することによって、共同体を共同体から切り離すのである」

 鈴木の言う「共同体」とは一体何か? それはまず、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが一つの主体的なグループであったこと、少なくともルー・リードとジョン・ケイルとのある主張を持った集合であったことを意味しているだろう。それを鈴木は「政治的」と言っているが、政治的メッセージを発していたわけでもない彼らを「政治的」と言うのは、あらゆる共同体が政治的なものだからである。
 そして、それは「共同体から切り離されねばならなかった」というわけである。つまり政治的共同体から離脱した共同体として実現されなければならなかったのであり、それはヴェルヴェット・アンダーグラウンドにとっての命題であると同時に、彼らの音を聴くものにとっての命題でもあった。それはモーリス・ブランショの言う「明かしえぬ共同体」として実現され、そして消え去る運命にあったということなのだ。

この項おわり

 


鈴木創士『分身入門』(5)

2022年01月17日 | 読書ノート

 第Ⅱ部は「イマージュ、分身」と題され、そこにはもっぱら映画と音楽についてのエッセイが収められている。その中の「映画、分身」という一編は、映画と演劇の違いについて語っているが、「演劇の仕種は行為であり、映画の仕種はイマージュである」という一文からも分かるように、鈴木は映画こそがイマージュの芸術であるということを言っている。
 演劇では生身の肉体がそこにあるが、映画にはそれがない。あるのはイマージュであり、分身そのものである。当たり前のことだが、鈴木が演劇よりも映画を好む理由がそこにある。演劇ではまったく同じ動作が繰り返されることはないが、映画ではまったく同じ動作が分身達によって永遠に繰り返されていく。そのことを鈴木は次のようにまとめている。
 
「映画は何度も上映され、彼らは同じ動作を永遠に繰り返すだろう」
「同じ動作、分身の動作が繰り返される」
 
 では音楽はどうなのか。鈴木自身EP-4というバンドのキーボード奏者として活動していたことがあり、彼の場合音楽に対する親和性の方がおそらく強いのだ。私にも馴染みのヴェルヴェット・アンダーグラウンドについてのエッセイが二本ある。いずれも2013年に亡くなったルー・リードを追悼する雑誌の追悼特集に寄せた文章だが、実は彼はルー・リードのことを追悼などしていないし、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのことも追悼しているわけではない。
 鈴木はルー・リードのヴェルヴェット・アンダーグラウンド以降のソロ活動について、まったく評価していない。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードだけがルー・リードなのであって、それ以降のルー・リードはルー・リードではないと言わんばかりなのだが、私もそう思う。ルー・リードのソロの曲で聴くに値する曲が存在するだろうか? Walk on the Wild SideやPerfect Dayを、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代のHeroinやVenus in Furs、あるいはSister Rayと比較することなど誰に許されようか。ルー・リードはとっくの昔に死んでいるのだから、鈴木にとって追悼する対象ではなかったのである。
 ならばヴェルヴェット・アンダーグラウンドはどうなのか。それは生きている。現在も生きているし、将来も生き続けるだろう。とりわけVelvet Underground & NicoとWhite light/White heatの二枚のアルバムにおいて。だから鈴木はヴェルヴェット・アンダーグラウンドを追悼することもない。それが今も生きているからである。
 鈴木のヴェルヴェット・アンダーグラウンド論で、もっとも気に入った一節を引用しておこう。今回引用が長くなりがちなのは、彼の文章が論理的かどうかは別として、極めて美しいからであり、それはヴェルヴェット・アンダーグラウンドについての文章でとりわけ際立ったものになっている。

「ヴェルヴェット・ アンダーグラウンドの音の中心はいたるところにあって、点線でできた茫洋たる円周はどこにもなく、ある意味では中心などというものはこちら側にもあちら側にもなく、音の行方が不在であるという意味において、完全な不在のなかで決定的に宙に浮いたままである。
 当時のロックンロールの歴史においてヴェルヴェット・ アンダーグラウンドだけがこの高度に離人症的感覚を持ち得たということは、どうでもいいことなどではなかったのだ。たとえばろぼろのビロードを纏った肉体が、ヘロインの注射器が血管を求めるあまり、からだじゅうから一瞬だけ天罰のように消えてしまったみたいな静脈のなかをすでに駆け巡っている苦悩に、それともマゾッホの主人公たちがこうむったようなひどい苦痛にすでに冒されていたとしてもである!」

 


鈴木創士『分身入門』(4)

2022年01月16日 | 読書ノート

 ここから始まって、鈴木はニーチェ、夢野久作、ジャコメッティとジュネ、ベケット、サド、坂口安吾などを縦横に論じていくのだが、いつでもキーワードとなるのは「分身」である。

 ニーチェはワーグナーの妻コジマへの手紙に、自分がかつてディオニュソスであり、シーザーであり、ヴォルテールであり、ナポレオンであり、さらにあろうことか、あのキリスト(アンチ・キリストについて書いた人なのに)でもあったという妄想にも似た確信を書き綴っている。

 鈴木にとってそれは「絶対的分身」であり、「絶えず回帰する離接的綜合は、「イマージュ」のいってみれば物質的な絶対性、無軌道であまりにも幽霊じみた光と時間の物理学的関係を成立させているはずのもの」と言い得るものなのである。こうした言い方は序文での議論に共通していて、いかに彼がイマージュとしての分身という観念に囚われていたかということを証明しているように見える。

 しかし、鈴木の議論は坂口安吾についてのエッセイを例外として、ほとんどが難解であり、まるでジャック・デリダかジャック・ラカンを読んでいるような気持ちにさせられてしまう。とりわけ第Ⅰ部の中間点に位置する、「身体から抜け出す身体」というエッセイの難解さは度を越えている。このエッセイの背後にはアントナン・アルトーの「器官なき身体」という考え方があるのだが、私はアルトーについてはさっぱり知らないので、ほとんど追跡困難である。

 そうか! 「器官なき身体」ということを言ったのは、ジル・ドゥールーズではなくてアルトーだったのか。私にはその程度のことしか分からないのだ。しかし、鈴木の文章の中に理解のためのヒントはいくつもある。「器官なき身体」は「ひとつの充溢身体」と言い換えられているし、過呼吸の体験時に捉えられた身体は〝言葉の毒〟と関連づけられている。以下の一節が理解の鍵を与えてくれる。

 

「いままでずっと首と後頭部は鉄の鎧でできているみたいに感じていた。ボンノクボはさながら闇の鉄栓、裏返しになった暗闇の入口、その錆びついた堰門だ。ここから毒が下に向かって、からだの下方に重力の法則どおりに滴り落ちる。毒は何からできていたのだろう。たぶん「言葉」に違いない。そしてからだは一気に硬直する。痙攣なしの強直性痙攣。たまには痙攣したこともあったかもしれない」

 

 言葉は毒と捉えられていて、それは「器官なき身体」を硬直させるのである。だから「器官なき身体」とは言葉に侵蝕される以前の身体のことでもあり、あるいは言葉によって整序され損なった身体のことを指しているのかも知れない。次のような一節を読めば、言葉が身体に入ってくるときにタイミングを失してしまえば、そこに一切の器官は生成されないと鈴木が理解していることが判るだろう。

 

「だが、この瞬間をすかさずとらえなければ、私の身体がうまくその通路、円筒、チューブ、連通管になることはないだろう。なぜなら表現と内容は私にとってずっとただひとつの同じものでありながらも、結局私は私の存在と非存在の間で宙吊りのままの言語活動に引きずり回されることになるからだ。さもなくば、私はただのざわめきになってしまうだろう。ざわめきは最後には塊りとなるだろう。たぶん癌化はその一 例である」

 

 おそらく、アルトーに触発されたこの身体と言葉との確執の体験こそが、この本『分身入門』を成立させているものなのである。言葉の毒に侵蝕される身体もまた、分身の一種ということになるだろう。身体の恢復は言葉からの離脱にあるのだとしても、決して言葉を離脱することなどできるはずもない。分身は人間にとって、そのようにして宿命づけられているのである。

鈴木のこの本は、ある意味で分身という概念を人質にして、読者を脅迫しているようにさえ見えてしまう。我々は我々自身の分身(それは到るところに遍在する分身の一部であるわけだ)をネタに、鈴木によって身代金を要求されているわけである。これが鈴木の『分身入門』における戦略的方法でなくてなんなのであろうか。

 


鈴木創士『分身入門』(3)

2022年01月15日 | 読書ノート

鈴木は「抵抗する身体」ということを言うが、他者の言語に蹂躙されつつも、なおかつ残される中核の部分をそう名付けてもいいだろう。しかし、身体はそれ自体では思考され得ぬものなのであり、誤解を生じかねない表現ではある。それを私なりに言うならば、それはエルヴィン・シュレーディンガーが言った、単数形でしか存在し得ないものとしての「私」の意識ということになろう。
 こんなことを書いているといつまでも序文から抜け出せないので、鈴木が序文の最後に書いている一節を引用して、序文からの脱出を図ることにしよう。

「芸術は消え失せ、分身は残る。分身の歴史は禁断のモンタージュであり、歴史の言いそこなった断片でもある。それは書かれなかったのだ。私は分身を、幾人かの量子物理学者にとつて反物質がそうであるように、絶対的実在と見なしている。
 本書におさめたエッセー群は分身のとりあえずの実験である。書かれたもの、描かれたもの、撮られたもの……等々は、そもそも分身による実践である。
 それで分身入門である。
 まずは私自身が入門するというわけだ。分身入門にはじまるものがあるのだ」

 ほら、量子物理学のことが出てきたでしょう。反物質のことが話題になっているので、少しずれてはいるが、私が理論物理学者シュレーディンガーを持ち出す理由を分かってもらえればいい。20世紀において、量子物理学が認識論に与えた影響には大きなものがあったのである。鈴木は別の場所でゲーデルの不完全性定理にも触れているが、数学は物理学に直接隣接する学問である。
 とりあえず、分身は反物質のように実在し、芸術は消え失せても分身は残るのである。考えてみれば、情報というものもまた反物質なのであり、つまりは分身は情報として反物質的に永続するというわけだ。それが現代にあって、文学や芸術がおかれた条件なのであり、鈴木は序文でそのことを宣言しているのである。
 さて、ところでこの本は哲学的な論文集であるわけではない。様々な雑誌に掲載された文学や映画、音楽についてのエッセイを集めた本である。しかし、それらはすべて序文に表明されたスタンスに貫かれて書かれている。私は今まで、日本の書き手による作品ではこのような試みに出会ったことがない。それほどに鈴木の試みは画期的であるのだ。

「私の記憶違いなのか。そんな馬鹿な。何度となく通ったはずの道だ。間違うことなどあるはずがない。百歩譲って、それでも別の道を通ったということもあるかもしれない。だが近くにもう一本道があるなどとは気づきさえしなかったし、ありそうもないことだった。別々の自分がそれぞれ違う道を歩いていたのだろうか。だがそのたびにそこを歩き、その道のことをとりとめもなく思っていたのはそのときの「私」ただひとりだったのだし、そのことに考え及んだことすらなかった。そのつど歩いていたのはいずれにしてもひとりの、この自分である」

 第Ⅰ部「言葉、分身」の最初のエッセイは「誰でもない人――異名としてのフェルナンド・ペソアを讃える」と題されているが、直接にペソアについて語る部分は少なくて、主に鈴木自身の散歩、そして散歩しながら考えたことの文章化になっている。
 しかし、誰が、何について考えるのか? この自問自答のような文章にあっては、自分について考えることさえ問題とされてはいない。むしろ分身が「私」について考えること、あるいは「私」が分身について考えること、そして分身が分身について考えることに尽きているのである。
 だからこれはペソア論ですらないのだから、私がフェルナンド・ペソアについて何も知らなくてもほとんど関係がない。私は鈴木と鈴木自身の分身の思考を追っていくことができるだけなのである。


鈴木創士『分身入門』(2)

2022年01月14日 | 読書ノート

 引用した文章について、物の分身とはヴァーチャル・リアリティのことではないのか、だとすればなぜこの文章を〝説得的〟などと言い得るのか、と反論する声が聞こえる。しかし、分身はヴァーチャルでもあり得ず、そこに実体として存在する。この文に続くのは次のような一節である。

 

「いまやあらゆるイマージュはわれわれの暮らす世界のあちこちでアーカイブとして保存されている」

 

 あらゆる〝もの〟がデジタル情報として世界の到るところに格納され、あるいは再現されている。それらがデジタルである以上、模像にすらなり得ない実体なのである。それらは否応もなく実体であってしまうとさえ言えるだろう。

 そして鈴木が言うように、それらの情報を追体験すること、強迫観念に駆られるようにして追体験しようとすることは、精神病をしかもたらさず、「われわれは発狂するだろう」というわけである。古典的な分身が我々に死をもたらす不吉な兆候であるとするならば、分身が情報として拡散する世界は、我々に狂気をもたらすことになるだろう。

 分身の増殖・拡散の問題だけでなく、『ランボー全詩集』の訳者でもある鈴木創士は、「私」というものの他者性ということも問題として提起する。長くなるが、ここが肝心なところなので、省略なしに引用する。

「ところで、これらの文章を書いたのはほんとうに私なのだろうか。だがランボーのように、「私」は私ではない、とさまざまな場面で言うのは非常に難しい。社会はそれを許さないが、ここには少なくとも名指されない、あるいは名指されそこねて逆に「私」を名指そうとする抵抗する身体がある。それはもちろん社会的身体などではない」

「それに私は私ではないが、ここにいて語っているのは私だけであり、記憶のなかに見え隠れする

「私」のイマージュのように、時には私は私を選び、私を利用し、あるいは私を消すこともある。 だがそれでも聞こえた音が耳のなか以外のどこかに残存するように、「私」は何かの残滓でありながらも、私の所有権を奪うものとしてあるか、もともと所有関係というものを持ってはいないのだ。主体性はつねに「事物」を組織しているとしか言いようのない非主体性に送り返されるか、再びここに戻って来るしかない」

 

 鈴木がいきなり「これらの文章を書いたのはほんとうに私なのだろうか」と書き付けるのは、当然ランボーの言った「私は他者である」という言葉を想起しているからである。しかし、それがどうして分身の問題と関わるというのだろうか。

 それは、私が他者である限りにおいて、私もまた一個の分身であるからに他ならないからだ。私が他者であるのは、私(玄文社主人)に言わせれば、私の言語が他者の言語に深く侵蝕されているからであり、他者の言語をおいて他に私という物を形づくる何ものもないからなのである。

 だとすれば、私は私にとって分身であり、私の発言は分身の発言でしかない。そして分身というものが現在において、増殖・拡散するものだとすれば、私もまた増殖・拡散する。分身は私の模像ではないし、私が実体で分身が虚像であるとも言えない。もはや分身もまた実体なのである。

 こうした構造は、書く者としての鈴木を、途方もない不安に追い込むだろう。しかし、鈴木は書き続けるしかない。そのことによってしか「名指されそこねて逆に「私」を名指そうとする抵抗する身体」に近づくことも、それを維持することもできないからである。

 

 


鈴木創士『分身入門』(1)

2022年01月13日 | 読書ノート

「北方文学」84号にジェイムズ・ホッグの分身小説について書いた時に、私は〝分身論〟のようなものを参照することが全くなかった。世の中には数多くの分身小説があるから、分身について文芸評論的に、あるいは哲学的・理論的に書かれた本があるのではないかと思うが、なぜか私のアンテナに引っかかってこない。

 幻想小説についての理論的な書として評価の高い、ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』にも、分身について論じた部分はないし、ゴシック小説について書かれた何冊かの本にも、分身論を含んだものはなかった。もっとよく探せばあるのかも知れないが、とにかく私はホッグの『義とされた罪人の手記と告白』について論ずるときに、分身論というものをほとんど自前で構築するしかなかったのである。

 アントナン・アルトーの翻訳者として知られる鈴木創士の『分身入門』という本を見つけたとき、私はだから一も二もなく飛びついて読んだのだった。しかしこの本は、私の期待を大きく裏切るものであった。決して〝期待はずれ〟の本だったわけではない。そうではなく、鈴木の扱う〝分身〟の概念が、私のそれとはまったく違っているので、私の期待に〝そぐわなかった〟ということなのだ。

 鈴木の『分身入門』は〝分身〟というものを〝イマージュ〟として、鈴木なりに言い換えれば光の現象として捉えるという考え方に貫かれている。光が一面では物質であり、もう一面では波であるという性質を考えれば、イマージュとは物質的現象であると同時に、反物質的現象でもあるということになる。

 分身がイマージュであるならば、それはどこにでも出現し得る。それは光学的現象がどこにでも出現し得ることと同じことである。だから私が考えていた〝分身〟とはまったく違った概念であって、そういう意味でこの本は私の期待していたものとは別の領域で、分身論を展開するものであった。

 私の考えていた分身は、主に宗教が強いてくる性的な禁止が人間にもたらす分裂が必然化するものなのであって、私は分身を心理的な側面で捉えていたのだったと思う。特にホッグの『義とされた罪人の手記と告白』は心理的な要素が大きい作品であり、心理学の対象として分析されてもおかしくない小説なのである。私にとって分身はイマージュなどではなかったのだ。

 ところでイマージュがどこにでも存在し得るのは、それがいわゆる〝情報〟だからであって、情報としての分身ということが提起されるのであれば、それは極めて現代的なテーマだということになる。その意味で鈴木の『分身入門』が、文学から哲学、映画から音楽までをカバーしていることは納得のいくことである。

 では情報とは何か? 情報とはそれが物質ではないが故に、どこにでも瞬時に伝達可能なものだと言える。文字も画像も音も物質ではないが故に、光ファイバーや電波によって瞬時に伝達可能なものとなる。逆に味や臭い、傷みなどが伝達不可能なのは、それらが物質が直接知覚にもたらす現象であるからであって、それらが情報化されることはない。つまりはイマージュではあり得ないのである。

 鈴木はまた序文で、イマージュは模造ではないと言っている。つまり分身は模造ではない。情報が物質ではないものに関わる以上、それは模像ではなく実体なのである。以下の文章には極めて説得力がある。

 

「像は光でできているのだから、半分は物質であるし、それなら、物が像をもつのであれば、物にも分身があるということになるのではないか。だがそれは模像(シミュラクル)ではない。模像があるということは、ほんものの像があるということになってしまう。私の言う分身は、時間とは微妙に対称をなさない反時間のなかに「同時に」いるのだから、模像とは似て非なるものであり、模像よりもたぶん「実体」に近いだろう」

 

 ただし、彼の言う〝物〟とはむしろ〝もの〟であり、物自体について人間は何も考えることができないのだから、それは〝もの〟の反物質的側面を指すという留保を必要としている。

 

・鈴木創士『分身入門』(2016、作品社)