すべては平成二十二年の本紙新年号に、東京芸大名誉教授の新関公子さんが寄せられた「柏崎に品川牧場はありましたか?」という文章から始まった。その文章には、柏崎生まれの品川力、工兄弟のことが書かれていて、新関さんは二人が生まれた“品川牧場”が柏崎にあったのかと問うているのである。
実は品川力が亡くなった平成十八年に、読売新聞社友の松浦孝義さんからあるコピーをもらっていた。それは、品川力という柏崎生まれの名物書店主がいて、その死を悼む週刊誌のコラム記事のコピーであった。そこには自転車に乗って本を配達する力の写真も掲載されていた。
その時は“そんな面白い人がいたのか”と思い、そのうち調べてみようと思ったのだが、そのコピーを忙しさにまぎれて紛失してしまい、さらに紛失したことさえ忘れてしまうという最悪の事態となってしまったのだった。
あの時、調べ始めていれば新関さんの質問にも答えられただろうし、もっと早く、現在博物館と人物館で開かれている品川兄弟展が実現していたかも知れない。新関さんの文章の後、松浦さんに聞いてみようと思った時は、すでに松浦さんが病に倒れられたあとであった。
手がかりはないのかと思ったが、市立博物館の渡邉三四一さんに任せた方が早いと思い、兄弟展の実現を待ち望んでいたのであった。
五日の初日に、工の作品を所蔵する練馬区立美術館の上山陽子さんの講演があった。上山さんは集まった四十人ほどの聴衆に、「工を知っていた人、手を挙げて」と言われたが、誰一人手を挙げる人はいなかった。六日には力の次男である純さんが人物館でギャラリートークを行い、同じ質問があったが、やはり手を挙げる人はいなかった。
しかし、上越市の版画家である舟見倹二さんは、品川工と面識があったと言われるのである。しかも“美術の世界で知らない人はいない”とまで言われる。そんな重要な人を失念していたとすれば、柏崎人の文化レベルの低さを指摘されても仕方がないのではないか。私は自分自身を含めて“恥ずかしい”思いを禁じ得ないのである。
実は品川力が亡くなった平成十八年に、読売新聞社友の松浦孝義さんからあるコピーをもらっていた。それは、品川力という柏崎生まれの名物書店主がいて、その死を悼む週刊誌のコラム記事のコピーであった。そこには自転車に乗って本を配達する力の写真も掲載されていた。
その時は“そんな面白い人がいたのか”と思い、そのうち調べてみようと思ったのだが、そのコピーを忙しさにまぎれて紛失してしまい、さらに紛失したことさえ忘れてしまうという最悪の事態となってしまったのだった。
あの時、調べ始めていれば新関さんの質問にも答えられただろうし、もっと早く、現在博物館と人物館で開かれている品川兄弟展が実現していたかも知れない。新関さんの文章の後、松浦さんに聞いてみようと思った時は、すでに松浦さんが病に倒れられたあとであった。
手がかりはないのかと思ったが、市立博物館の渡邉三四一さんに任せた方が早いと思い、兄弟展の実現を待ち望んでいたのであった。
五日の初日に、工の作品を所蔵する練馬区立美術館の上山陽子さんの講演があった。上山さんは集まった四十人ほどの聴衆に、「工を知っていた人、手を挙げて」と言われたが、誰一人手を挙げる人はいなかった。六日には力の次男である純さんが人物館でギャラリートークを行い、同じ質問があったが、やはり手を挙げる人はいなかった。
しかし、上越市の版画家である舟見倹二さんは、品川工と面識があったと言われるのである。しかも“美術の世界で知らない人はいない”とまで言われる。そんな重要な人を失念していたとすれば、柏崎人の文化レベルの低さを指摘されても仕方がないのではないか。私は自分自身を含めて“恥ずかしい”思いを禁じ得ないのである。
(越後タイムス10月10日「週末点描」より)