玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(6)

2018年01月31日 | 読書ノート

 ヘンリー・ジェイムズは「ミューヨーク版序文」の中で、「この少女との交わりが生む魔術的効果」ということを言っている。登場人物たちがそれぞれ勝手に不道徳な行為にふけっていても、メイジーとの関わりの中で彼らは変貌していく。
 特に母親のアイダが、娘に対して寛容の姿勢を見せ、金銭的な援助をし、小説の最後にはウィックス夫人と一緒にメイジーを引き取ることになるという変化は、ひとえにメイジーの〝知る〟という行為によってもたらされるものに違いない。
 ところでヘンリー・ジェイムズは「序文」の中で、次のようにも書いている。

「(わが主人公の魅力とは)この主人公の生来の本質となっているある強さ、ある持続的な抵抗力である。抵抗し抜くこと(つまり見聞と経験の攻撃に耐えること)とは、こんな年若い者にとっては、ただ瑞々しく、なお一層瑞々しくあり続けること、さらには人に頒ち得るような瑞々しさを持つこと以外にあり得ようか。」

 ここで「瑞々しさ」と記されているのは原文ではfreshnessという言葉である。ヘンリー・ジェイムズはここでもinnocenceという言葉を使わない。「無垢」が「知」の反対概念であるということは前に書いた。
 メイジーはfreshnessに満ち溢れているのである。ここで「瑞々しさ」という言葉は「知」を同伴するより積極的なあり方を示しているだろう。なにしろそれは「持続的な抵抗力」として表れてくるものなのだから。
 また「序文」の最後の方では、次のように書いて『メイジーの知ったこと』の核心に触れている。

「本当に良く見、良く表現することは混濁を助長する不断の力を前にしては、容易な仕事ではない。ただ素晴らしいことに、混濁した状態もまた、もっとも痛切な現実の一つであり、色と形と性格を有し、それどころか、しばしば豊かな喜劇性、玩味に値するものの持つしるしと価値の多くを有している。従って、例えばメイジーの魅力の本質、彼女の何物も害ない得ぬ瑞々しさ、換言すれば、汚染した大気の中で彼女に脈動を与え、不倫不徳の世界の中で彼女に華やぎを与える知性の活発さが、不毛な無感覚なもの、あるいはせいぜいとるに足らぬものと受け取られるかも知れぬ場合も起こり得たのだと思う。」

 ここで注目しなければならないのは、「瑞々しさ」が「知性の活発さ」に言い換えられていることである。ヘンリー・ジェイムズがメイジーに「無垢」などを想定していないことは、このことをもってしても明らかであろう。
「序文」の結論とも言えるこの部分は、主人公としてのメイジーに対する見解を述べているだけではない。当然それは『メイジーの知ったこと』で、ヘンリー・ジェイムズが意図したことについての言表でもあったはずだ。
 なぜヘンリー・ジェイムズは、メイジーのような年端もいかぬ少女に、大人たちの混濁した、あるいは汚辱の世界を覗かせなければならないのか。それはそのような世界が「もっとも痛切な現実の一つ」であり、「豊かな喜劇性」をもち、「玩味に値する」ものだからである。
 それを理解できるのは「瑞々しさ」であり、「知性の活発さ」以外のものではない。だからここでヘンリー・ジェイムズは、自身が小説を書く姿勢を高らかに表明してさえいるのである。それは「不毛で無感覚なもの」を掘り起こし、それを偉大なものに変えていく原動力なのである。
 スーザン・ソンタグの言葉を思い出す必要がある。
(この項おわり)


 

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ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(4)

2018年01月30日 | 読書ノート

 つまり、メイジーの前で他の登場人物たちは心理的な意味でも、経済的な意味でも裸にならざるを得ない。いくつかの例を挙げておきたいが、これはヘンリー・ジェイムズの他の作品では決してあり得ないことである。
 まずはサー・クロードがミセス・ビール(ファレンジ夫人というとアイダのことと紛らわしいので、以下このように呼ぶ。この二人はすでに、メイジーの義父と義母になっている)が接近するところ。

「新たな事態といえばどうやらこの子が、あなたとわたしをあわせてくれたということのようですね」(ミセス・ビール)
「この子があなたとわたしをあわせてくれました」(サー・クロード)

 二人はメイジーの前でこんなことを言うのだが、これはつまり、二人が惹かれ合っていることを公言するのに等しい。二人とも新婚直後にもかかわらず、お互いの配偶者に愛想を尽かし、新たな出会いを、メイジーの義父と義母としての新たな出会いを歓迎しているのである。
 そしてサー・クロードが妻アイダとの関係について、メイジーにあけすけに語る場面。

「わたしたちは離れ離れなのだよ」(サー・クロード)
「お母様は怖いの?」(メイジー)
「むろんだよ、君」(サー・クロード)

 普通大人は6歳の子供にこんな心情を吐露することはないし、とりわけヘンリー・ジェイムズの小説にあっては、大人同士でもこのようなナイーブさを見せることはない。
 母アイダがメイジーとサー・クロード、ウィックス夫人を前に、感情を激発させる場面は、この小説の中でも最も酷薄な部分であるが、そこには彼女のサー・クロードとメイジーの関係に対する嫉妬が隠されている。

「アイダはあやすように娘を腕の中に抱きながら、むごたらしいほど、取り返しのつかぬほど、この子はあたしから遠ざけられている、と言い、こんなひどいことをした張本人はサー・クロードだとわめき散らさずにはいられなかった。「この人がおまえをあたしから引き離し、あたしに刃向かわせたのよ、と叫んだ。「おまえを味方に引き入れ、おまえのいたいけな心に毒を注ぎ込んだんだわ! おまえはのこのこついて行って、この人とぐるになり、あたしに刃向かい、あたしを憎んでいるんだわ」」

 父ビールもまたメイジーに向かって残酷な科白をはくが、こちらも妻ミセス・ビールとサー・クロードの関係への嫉妬を隠している。しかし父のこの言葉は一面で真実を突いている。実際小説の結末は父の言う通りになるからである。

「「あいつらがおまえを化物にしちまったんだ。怖ろしいことだ。まったく。いかにもやつららしいことだ。分からないかい」とビールは続けた。「おまえをできるだけ怖ろしいもの――自分たちと同じくらい怖ろしいものに仕立てあげたら、さっとおまえを棄てるんだよ」」

 ウィックス夫人もまた、嫉妬の感情をメイジーにぶつける場面がある。メイジーの今後についてウィックス夫人、サー・クロードとミセス・ビールが保護者となってやっていくという構想が浮上するときに、ウィックス夫人はミセス・ビールを激しく拒絶する。

 ウィックス夫人はミセス・ビールの「不道徳」を責め立てるが、それは上辺の話で、本当は彼女はサー・クロードとミセス・ビールの関係に嫉妬しているのである。ウィックス夫人はメイジーに本心を明かす。

「あたしはあの方を熱愛しているの。ほんとよ」

 メイジーがこの言葉に対しなんと応えるかは興味深いところである。彼女はこう答える。

「ええ、知ってるわ」
 

注記:「熱愛している」は原文ではadoreである。「崇拝している」とも取れるが訳者は「熱愛している」と訳している。この場はやはり「熱愛」と訳すべきだろう。

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ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(3)

2018年01月28日 | 読書ノート

 まずは『メイジーの知ったこと』という作品のもつ酷薄さに触れておかなければならない。酷薄さや残酷性はこの作品に限ったことではなく、ヘンリー・ジェイムズの小説全般の大きな特徴ですらあるのだが、この作品の酷薄さは主人公がまだ6歳の子供であるという条件を考えれば、特に際立ったものだと言える。
 メイジーは離婚した両親がお互いに親権を譲らないので、「羽子板の羽根」(原語はバトミントンのシャトルだろうか?)のように、半年ごとに両親の間を行ったり来たりするという生活を強いられる。メイジーの位置は次のような文章によく示されている。

「母親の方は、父親が(彼女の言葉を借りれば)「見ることさえ」許すまいとした。父親の方の言い分は、母親が子供に手を触れるだけで、「汚れる」という。」

 父ビール・ファレンジと母アイダの関係は、修復のつかないところまで悪化しているどころではなく、離婚してもなお憎悪を投げつけ合わずにはすまないという状態にある。しかも直接ではなく、メイジーを通して憎悪の交換を果たそうとするのである。

「「パパはママに」と彼女は忠実に言った。「『ママはきたならしい、怖ろしいブタだ!』ってこと付けろって」」

 これはメイジーを迎えにきた母に対して、父がメイジーに言づけろと言って投げつけた罵倒の言葉なのである。またこの二人だけでなく、その周辺にいる人物同士も憎しみをぶつけ合う。母親の方にはウィックス夫人という家庭教師が、父親の方にはミス・オーヴァモアという家庭教師がいて、メイジーの面倒を見るのだが、この二人もお互いその所属するところに従って、互いに憎悪を隠さない。
 まったく子供にとってこれ以上ないほどに劣悪な環境であって、読者はメイジーの行く末を心配しないではいられなくなるであろう。この女の子はどのように育っていくのだろうか。
 物語は意外な展開をみせる。「怖ろしいブタ」のような女アイダも、「けだもののような」男ビールも、互いに新しい恋人を見つけて結婚するのである。アイダが結婚するのは人のよい家庭好きの青年サー・クロードであり、ビールが結婚するのは家庭教師のミス・オーヴァモアである。
 しかし、この二つの結婚がうまくいくはずもなく、メイジーの周囲を新しい憎悪の渦が取り巻いていく。サー・クロードは妻アイダを憎み、オーヴァモアことファレンジ夫人は夫ビールを憎悪するに至るだろう。
 さらにサン・クロードとファレンジ夫人との接近が起きる。そのきっかけを与えたのはメイジーその人であり、彼らはメイジーの〝無垢〟に乗じて接近し、愛し合うようになっていく。こうしてメイジーの周辺は愛憎渦巻く百鬼夜行のような世界へと変貌していくのだ。
 そこで注意を向けなければならないのは、登場人物の誰もが他の登場人物に対する憎悪や非難を隠そうとしないということである。もちろんすべてはメイジーの視点で書かれているのだから、メイジーの見聞の範囲でということになる。
 ヘンリー・ジェイムズの他の小説では、登場人物たちはお互いに自分の本心を見せない。だからこそ腹の探り合いが恒常的に起きてくるのだし、そこに心理小説が成立する根拠が形成されるわけである。
 しかし『メイジーの知ったこと』では事情が違っている。メイジーを除く登場人物たち同士がお互いに本心をさらすことがないにせよ、メイジーに対してだけは彼らはその本心を明かすのである。そのような場面は無数にあるというか、この小説は主にメイジーに明かされた登場人物たちの本心で形成されていると言ってもよい。
 ではなぜ? メイジーが無垢であるために彼らがその無垢に打たれて、語らずにはいられなくなるためだろうか。しかしそれだけではない。サー・クロードもファレンジ夫人も、メイジーを当てにしてお互いに接近しようとするのであり、ウィックス夫人に至っては、メイジーの家庭教師という立場を失ったら、生きていけなくなるために、メイジーに縋りつくしかないのである。

 

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ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(2)

2018年01月27日 | 読書ノート

『メイジーの知ったこと』という作品には、これまで読んできたヘンリー・ジェイムズの作品と同質な部分と、異質な部分とが混在している。それはこの作品がメイジーという6歳(小説の出発点での年齢)の子供を主人公としている点に関わる要素が大きいと思う。
 ヘンリー・ジェイムズが子供を登場させるのは、『ねじの回転』とこの『メイジーの知ったこと』の二編だけだと思うし、『ねじの回転』での二人の子供は主人公というわけではない。
 例の〝視点〟ということを考えれば『ねじの回転』は二人の子供、マイルズとフローラの視点から書かれているのではないが、『メイジーの知ったこと』はまさに子供としてのメイジーの視点からのみ書かれているのである。だから『メイジーの知ったこと』はヘンリー・ジェイムズの作品の中でも特別の位置を占めているように思う。
 ヘンリー・ジェイムズの文学は徹底して大人の文学である。爛熟した大人の文学と言ってもよい。そうでなければ登場人物同士のあの腹のさぐり合い、隠蔽と露出の駆け引き、前進と退却、攻撃と防御の繰り返しとしての心理的闘争は存在し得ない。彼の作品には〝無垢〟なものの存在は許されていないと言ってもよい。
 だからヘンリー・ジェイムズは子供を主人公にした作品を書き得ないのだが、たまたま彼は、この作品のプロットの元となるエピソードを与えられ、それを中心に想像力を膨らませているうちに、この作品の骨格ができたのだと、ニューヨーク版の序文で言っている。
 しかしメイジーは本当に無垢なのだろうか。タイトルは「メイジーの知ったこと」である。エデンの園の神話を持ち出すまでもなく、〝知〟は〝無垢〟ともっとも対立する概念であって、メイジーは小説の最初から何かを知り始め、大人たちの確執の中で知らなくてもいいようなことまで知っていく。
 つまり、メイジーは最初からほとんど無垢ではないし、小説の最後ではまったく無垢ではない。だが他の登場人物たちにとってメイジーは無垢な存在、あるいは無垢でなければならない存在であって、彼らはメイジーに仮託した無垢によって自らの生き残りを図るのである。
 メイジーは無垢ではない。彼女の周辺の人物があまりにも汚辱にまみれているからというだけではない。ある意味ではヘンリー・ジェイムズの小説に登場させられたことによって無垢ではないと言い得る。それは『ねじの回転』のマイルズとフローラでも同じことであって、この二人の子供たちもまた語り手の女家庭教師にとっては、悪霊に取り憑かれた恐るべき存在であるのと同様である。
 いや必ずしも同様ではない。二人の子供はヘンリー・ジェイムズの〝知への意志〟を仮託されているわけではないが、『メイジーの知ったこと』にあってメイジーはヘンリー・ジェイムズ自身の〝知への意志〟を全身で受け止めているからである。
 ヘンリー・ジェイムズはニューヨーク版の序文で、この小説をメイジーの視点からのみ書くこと、しかしながら子供の理解力ではわかり得ない部分があるから、それを作家としての視点から補填しながら書くというようなことを言っている。
 こうした姿勢は必ずしも『メイジーの知ったこと』だけに特徴的なことではない。他の作品でも〝視点〟という位置の取り方は、登場人物の視点だけではなく、作家の視点も含まざるを得ないのであって、そんなことは当たり前なことである。
 ただし、この小説がメイジーという6歳の子供の視点で書かれているということは、他の作品との大きな違いを予感させる。ヘンリー・ジェイムズという〝大人の〟作家が、6歳の女の子になりきることなどできるはずがないからである。
 だから『メイジーの知ったこと』には、ひとつの視点ではなく、二つの大きく異なった視点が輻輳して存在するという結果をもたらすであろう。ヘンリー・ジェイムズの意志がある意味で明瞭に露呈してくるはずである。

 

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ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(1)

2018年01月26日 | 読書ノート

 次は国書刊行会版の作品集に『ポイントンの蒐集品』と『檻の中』とともに収められている『メイジーの知ったこと』である。『檻の中』については、それが短編であるし、あまりに女主人公の妄想がたくましすぎて、一部よく理解できないところがあり、今回は取り上げない。
『メイジーの知ったこと』は2012年にアメリカで映画化されていて、私の知る限りこれがもっとも新しいヘンリー・ジェイムズ原作の映画だと思う。ジェイムズ原作の映画はこれまでにもたくさん製作されていて、これだけの数映画化されている作品をもつ作家もそう多くはないだろう。
 Wikipediaには1949年の「女相続人」(The Heiress『ワシントン・スクエア』が原作)から、2017年完成予定の「アスパンの恋文」(The Aspern Papers)まで12本が掲げられているが、このリストには「デイジー・ミラー」も「ポイントンの蒐集品」も欠けているから、まだまだ数は多いのではないか。
 とりわけ何度も映画化されたり、ドラマ化されているのは『ねじの回転』で、中にはマーロン・ブランド主演の「ねじの回転」前編というThe Nightcomersなどというものまである。また『ねじの回転』はベンジャミン・ブリテンによってオペラ化までされているという。
 私は1961年の「回転」(Innocents)しか観たことがない。これはデボラ・カー主演の映画で、原作にかなり忠実につくられているので、映画によって新たな体験をもたらされるということのない作品である。それがなければ映画を観る意味はほとんどない。
 しかも邦題が「回転」ではなんのことやら意味をなしていない。もともと『ねじの回転』という邦題自体わけの分からないもので、前に書いたようにThe Turn of the Screwというのは〝ひとひねり〟くらいの意味で、小説の中身に直接関わる題名ではない。「ねじの回転」という言葉に特別の意味を読み取ろうとする評者もいるから、気をつけた方がよい。
 ところで私はヘンリー・ジェイムズの代表作といわれる小説の映画化作品、「ある貴婦人の肖像」(The portrait of a Lady)、「鳩の翼」(The Wings of the Dove)、「金色の嘘」(The Golden Bowl)などを観たいとは思わない。「メイジーの瞳」(What Maisie Knew)も同様である。
「メイジーの瞳」(なんて厭らしい邦題だろう)は、原作のもつ酷薄さを大幅に薄めてつくられたもので、予告編を観ると、人のよい青年が両親に捨てられたメイジーをかわいがるところだけが強調されていて、原作の奥深さをまったく伝えていないとしか思えない。
 だいたい、ヘンリー・ジェイムズの作品の映画化などということがどうして可能なのだろうか。彼の登場人物に対する残酷さ、執拗な心理分析を前面に出してしまえば、それは多分映画として成立しないのであって(それが言葉にのみ大きく依存する形式であるから)、映画化の第一条件はそうしたヘンリー・ジェイムズという作家の中核にあるものを捨てることでしかあり得ないからである。
 ヘンリー・ジェイムズの作品はだから、その表面的な部分、ファミリーロマンスないしはメロドラマとしてしか映画化されないことになってしまう。ファミリーロマンスは心理小説の前提として必要とされているに過ぎないものであるのに、その前提だけが押し出されてしまう。
 それはヘンリー・ジェイムズという作家を大きく誤解することにしかつながらないのであって、私はそのような誤解による映画化作品を見たいとは思わないのである。
 ただし『ねじの回転』だけは少し条件が違う。『ねじの回転』ももちろん心理小説としての要素をもっているし、そこに二重の解釈を可能にするという特質をもっている。だがそれを純粋にホラー小説あるいはゴシック小説として読むこともでき、それだけでも世界でもっとも恐ろしい小説の三本の指に入るのだから、純粋にホラー映画としてつくられても私は許すことができる。
 マーロン・ブランド主演のThe Nightcomersは『ねじの回転』の裏側に隠された秘密、前任の女家庭教師ジェスルと下男クイントとのおぞましい関係を描いたホラー映画のようなので、是非機会があったら観てみたいと思うのである。

ヘンリー・ジェイムズ『メイジーの知ったこと』(1984、国書刊行会「ヘンリー・ジエイムズ作品集」2)川西進訳

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ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(4)

2018年01月20日 | 読書ノート

『ポイントンの蒐集品』にはフリーダとその父、妹、ゲレス夫人とその息子オーエン、モナとその母などが登場するが、主要な人物は4人でしかない。フリーダ、ゲレス夫人、オーエン、モナが有意味な登場人物である。
 だから、この少ない登場人物の間で心理小説特有の1対1の対決が展開されてもおかしくないと思うのだが、この小説はそのように作られていない。最初に一度に4人が登場するが、モナだけはこの物語の展開に間接的に関わってくるのみで、直接対決の場面に参入することはない。
 次第に1対1の場面が増えていくが、それは心理小説が基本的に1対1の場面を要求するからである。前にも書いたように、心理的な闘争の場は二人の人間の間で典型的に現れるのであって、複数の人間の間では起こりえないからである。
 しかし、この作品は短編として構想されたためであろう、1対1の複雑な組み合わせを描き分けることはない。フリーダとゲレス夫人の場合と、フリーダとオーエンの場合だけが描かれる。
 モナは最初から排除されているし、ゲレス夫人とオーエンの対決も直接的には描かれない。それはすべてフリーダを通して行われるのであって、そのためにフリーダが複雑な位置に置かれるという結果をもたらす。
 つまり、フリーダがゲレス夫人と対決するときには、ゲレス夫人の背後にオーエンがいることになるし、フリーダがオーエンと対決するときには彼の背後にゲレス夫人が控えているということになる。
 しかし本当の意味での対決=蒐集品の所有を巡っての対決は、ゲレス夫人とオーエンの間にあるのであり、フリーダはゲレス夫人とオーエンの利害関係の間にあって、二人の代理人としての役割をつとめるのに過ぎない。
 だから心理的闘争は、ゲレス夫人の場合、フリーダの言葉を通してオーエンの真意を探るという形をとり、オーエンの場合もフリーダの言葉を通してゲレス夫人の真意を探るという形になる。腹の探り合いは直接の対決ではなく、間接的対決を通して行われる。
 フリーダを介在させなければ物語も心理的闘争も、もっと単純なものになっていたであろう。小説自体もかなり短くなっていたはずである。しかしこの小説はフリーダ抜きには考えられない構造をもっている。
 フリーダのオーエンに対する恋心は、ゲレス夫人の使嗾によるものだからである。それはフリーダがゲレス夫人の〝誘いに乗って〟という意味ではなく、小説の構造的な問題としてという意味で言うことである。
 ゲレス夫人は蒐集品を守るために、フリーダとオーエンの結婚を願うのだし、フリーダの恋はゲレス夫人によって許され、モナの存在によって禁じられている。
 この許可と禁止の間で苦しむフリーダの姿こそ、この小説の読みどころであって、蒐集品の存在などは本当はどうでもいいものに過ぎない。だから、フリーダとオーエンの恋が終結し、小説が終わりを迎えるとき、ポイントンの蒐集品は、屋敷ごと焼失してしまうのである。

 ところで中村真一郎の言う、各節の終わり方の素晴らしさは、この作品にあってとりわけ際立っているように思う。後期三部作でも各節は次の節への予感を孕んで、見事な終わり方をする場面がたくさんあるが、『ポイントンの蒐集品』でそれが際立っているとすれば、それはなんと言ってもこの小説がラブロマンスの要素を強くもっているからだ。
 第6章(この小説は短いので章の下の節はない)で、偶然出会ったオーエンの「理解して欲しいんだ」という思わせぶりな発言に危険を察知して、フリーダが彼に「さようなら」を告げる場面は極め付きと言える。
 フリーダは逃げるように去っていき、隠れるように辻馬車に乗り込む。その場面はどう描かれるか。

「ともかくも彼女は逃げ切った――もっとも門までの道程は、広い遊歩道を不様に小走りに急ぎながら、そのひと足ずつが彼女の心を痛め、いつ果てるともなく長いものに感じられた。彼女はケンジントン・ロードで駐車場に止まっている辻馬車に、遠くから合図し、かきすがるようにしてやっと乗りこんだが、彼女の合図にさっと応えてくれたこの四輪馬車に身を隠せることが彼女には嬉しかった。そして二十ヤードばかり行ってから、彼女はガラス窓をがちゃりと閉めて、さあ、これで思うさま泣きくずれてもいいのだと思った。」

 心理小説の美しさの白眉がここにある。
(この項おわり)

 

 

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ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(3)

2018年01月19日 | 読書ノート

 スーザン・ソンタグの言葉でちょっと脱線してしまったが、これからも私は彼女の言葉に勇気づけられて、ヘンリー・ジェイムズの作品を擁護し続けることができるだろう。
 前にも書いたように、心理小説特有のカタルシスの瞬間というものがヘンリー・ジェイムズの小説にはあって、それが読者にいわば〝官能的な〟喜びを与えるのは確かである。
『ポイントンの蒐集品』にもそれはあって、オーエンの所在についてフリーダとゲレス夫人が思い迷っているときに、一瞬疑問が氷解して、すぐさま二人が行動を開始する場面には、〝曖昧さ〟を特徴とすると言われるヘンリー・ジェイムズの小説の中にも、クリアな時間が訪れるのだということの証拠がある。
『ポイントンの蒐集品』においてはそれはもはや手遅れであり、実効性をもたないことになってしまうのだが、それはまた別の問題である。ヘンリー・ジェイムズの小説が必ずハッピーエンドでは終わらないという習性をもっていることに、その問題は関係しているが、それについてはまた別の機会に考えてみなければならない。
 これまで『ワシントン・スクエア』と『金色の盃』を通して、ヘンリー・ジェイムズの小説の特徴が登場人物に対する残酷さや、登場人物同士を1対1で対決させる図式的な構図にあることを指摘してきたが、この『ポイントンの蒐集品』についてはどうなのだろう。
『ワシントン・スクエア』では父親の娘に対する残酷な処遇や評価について指摘することができた。それは『ポイントンの蒐集品』についても同様で、父娘の関係は母であるゲレス夫人の息子のオーエンに対する残酷な処遇や評価にそのまま移し替えられている。
 ゲレス夫人はオーエンのことをまったく評価しないし、オーエンが結婚の相手に選んだモナ・ブリグストックに対しては、馬鹿女呼ばわりしてはばからない。そして作者もその残酷な扱いに荷担する。ヘンリー・ジェイムズもまた、モナに対して情け容赦がない。モナは次のように紹介される。

「ブリグストック嬢は声立てて笑い、浮きうきと飛び跳ねるような真似までしていたが、だからといってその作りつけたような顔面に表情のかけらさえ浮かぶではなかった。すらりと丈け高く色白く手足も伸びのびと、ちょっと変わった花柄模様の服を着て立っていたが、目には何の表情もなく、その目鼻立ちの端ばしにもそれと看て取れるような意図は微塵も表れていなかった。その言葉が他になんの表情もしぐさもともなわない単なる音の発出に過ぎないという部類の女性であり、存在の秘密はその声に洩れ出ることはなく、他者のうかがい知り得ぬ埒外にあって安泰であった。」

 いくらなんでもこれは酷い。モナという女性がスタイルがよくてきれいな服を着た美人であっても、行動は軽薄で表情も貧しく、言ってみればなんの中身もない人間だと、ジェイムズはこき下ろしているのである。
 これはもちろん、ゲレス夫人のフリーダに対する評価、美術品をこよなく愛し、それを正しく評価することができ、教養もあり礼節もわきまえた、人間的に奥行きがあるという評価と対峙させるための描写であっても、ここまで酷く書くことはないだろうという気がする。
 またゲレス夫人のオーエンに対する評価は、息子にいい嫁を与えたいという親心からここまでストレートではないが、ある時にはモナとひっくるめて、「わたしは――あの異端の子らを救い、改宗させるためであれば――かどわかすことだって厭いませんよ! 自分が正しいとあれば火あぶりも辞せずです」とまで罵倒する。小説終盤では息子のことを「でくの坊」(原語はどうか調べてみたい)とまで罵るのである。
 オーエンが最後に、フリーダから一転してモナの元へ走る行動について、それが不可解だと中村真一郎は言うが、そうではなく母親の言う通りオーエンが「でくの坊」だとすれば、そんな行動も納得できないことではないのである。

 

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ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(2)

2018年01月18日 | 読書ノート

 昨日、玄文社の用事で新潟市の北書店を訪れた。北書店は新潟の恵文社(京都の有名な小規模書店。独自の棚作りで知られる)と呼ばれてもいる、人文系を中心とした個性的な書店で、私の『言語と境界』も置いてもらっているが、半年間で一冊しか売れなかった。
そんなことよりも、ここに来ると私は店主の佐藤さんの心意気に敬意を表して、必ず一冊は本を買うことにしている。棚を眺めていて、スーザン・ソンタグの本を見つけた。2016年に河出書房新社から出た『スーザン・ソンタグの「ローリングストーン」インタビュー』という本である。
 ソンタグの本は若い頃、『反解釈』と『隠喩としての病い』を読んで大いに刺激を受けた思い出があり、今は読むこともないが、いつも気になっている批評家である。
 彼女はロックミュージックなどのサブカルチャーに詳しく、それが『反解釈』には如実に出ていたと思う。私もロック愛好者の一人で、ソンタグの感性については大いに共鳴するところがあったのだ。
 前置きが長くなったがその『スーザン・ソンタグの「ローリングストーン」インタビュー』のインタビューアー・ジョナサン・コットによる序文の中に、スーザン・ソンタグがヘンリー・ジェイムスのことを、ほとんど手放しで評価している文章が引用されているのを見つけたのだ。まさかソンタグがヘンリー・ジェイムズに傾倒していようとは思いもよらぬことで、しかも『ポイントンの蒐集品』を読み終えたばかりだったので、この偶然にただならぬものを感じているのだ。
 その文章は次のようなものである。

「彼の使う言葉は事実、華やかさや、豊かさ、欲望、歓喜、エクスタシーに満ちている。ジェイムズの世界にはいつも、そこに表れている以上のものがある――それ以上のテクスト、それ以上の意識、余地、空間の複雑性、意識の中で味わうべき養分が潜在している。彼は小説の中に欲望の原理を入れ込んでいるがそれは私にとっては新しい試みに思える。それは認識論的な欲求、知りたいという希求であり、肉のレベルの欲求のようなものだ。それらはしばしば肉欲を模した顕れを見せるか、または、肉欲と対の関係にある。」

 さすが、ソンタグ! 知への欲求と肉への欲望との共通性を、いかんなく抉り出す。ヘンリー・ジェイムズの試みは新しい試みである。分析的知性がある種の官能性と結びつくという指摘は、血と肉との間で揺れ動きながら思考したソンタグにしかできないものではないか。
 確かに『聖なる泉』には、吸血鬼小説のもっているようなエロティシズムが、分析的記述の中に顕わになっていく部分があり、ソンタグの突拍子もないこの指摘が、なるほどと頷かれるのである。
 あるいは『ねじの回転』でもいい。この女家庭教師とその二人の教え子との闘争を描いた作品の背景には、途方もなく淫らなものが隠されているのではなかったか。『ねじの回転』は知への欲求と肉への欲望の間で行われる戦いの記録なのだといってもよい。
 だとすれば『ポイントンの蒐集品』のフリーダ、どこまでも貞淑で節度をわきまえ、知的な姿勢を崩そうとしない若い女性と、大変な美男子ではあるがいささか頭の弱いオーエンとのはかない恋もまた、知への希求と肉への欲求との戦いなのである。
 しかし、ソンタグはそんなことを言っているのではない。ソンタグはもっと言語論的に、ヘンリー・ジェイムズの過剰な心理分析的記述の中に、知的であると同時に官能的な要素を見て取っているのだ。
 私がヘンリー・ジェイムズの作品に魅せられるのは、そのためなのだ。彼の分析的記述を知性のレベルでだけ受け止めているのではなく、私はたぶん肉欲にもまがうようなジェイムズの〝認識論的欲求〟に手も足も出ないのだ。美しい女性に魅せられるかのように……。

ジョナサン・コット『スーザン・ソンタグの「ローリングストーン」インタビュー』(2016、河出書房新社)木幡和枝訳

 

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ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(1)

2018年01月17日 | 読書ノート

 またまたヘンリー・ジェイムズに帰ってきました。この作家の小説はどれも同工異曲的なところがあって、嫌いな人なら「また同じようなことをぐだぐだと書いている」と思うかも知れない。しかし私には、その同じようなスタイルがまことに心地よくて、読むたびに〝ふるさと〟に帰ってきたような気分になるから不思議である。
 ヘンリー・ジェイムズの長編は、あのやたらと邦訳の多い『ねじの回転』を除いては、ほとんどが絶版になっていて、なかなか読むことが難しい。
 しかし、国書刊行会が全8巻の「ヘンリー・ジェイムズ作品集」を出していて、代表作とは言えない長編のいくつかも読むことができる。第2巻には『ポイントンの蒐集品』『メイジーの知ったこと』『檻の中』とう3編の長編(厳密に言うと『メイジーの知ったこと』だけが長編で、後の二つは中編と言うべきか。『ねじの回転』も中編である)が収められている。
 順次読んでいくことにするが、まず『ポイントンの蒐集品』を二日で読破した。この作品は最初短編として構想されたもので、書いているうちにどんどん膨らんできて、中編になってしまったのだという。その意味では『聖なる泉』と同じような成立過程を経ているのである。
 どちらもストーリーは複雑なものではない。『ポイントンの蒐集品』はある未亡人の美術コレクションを巡る骨肉の争いに、ラブロマンスを絡めた作品であり、『聖なる泉』は吸血鬼 小説のパロディのような作品である。『ポイントンの蒐集品』は1896年、『聖なる泉』は1901年の作品で、いずれも後期三部作の前哨戦ともいえる位置を占める。
 またこの二つの作品は4~5人に絞られていて、小規模な作品として構想されたことは歴然としている。ではなぜヘンリー・ジェイムズの作品は長くなってしまうのか。
 それは彼が登場人物の心理分析にどこまでもページを費やしていって、収拾がつかなくなるからである。『聖なる泉』などはその典型のような作品であって、語り手である〝私〟が他の登場人物の心理分析を際限もなく繰り返す。
 そしてそれが吸血鬼小説のパロディであるといったような構図から逸脱していって、心理分析自体がテーマであるかのような様相を呈してしまうのである。『ポイントンの蒐集品』の方は、そこにラブロマンスの要素が入ってくるから、心理分析が目的化してしまうようなことはないが、それが過剰であることには違いがない。
 それをヘンリー・ジェイムズの悪癖と言う人は言うだろう。しかし私にとっては、その部分こそが面白いのであって、ヘンリー・ジェイムズの小説から分析癖を取り除いてしまったら、おそらく世にも退屈な作品になってしまうだろうことは目に見えている。
 なぜなら、ヘンリー・ジェイムズは登場人物に対する心理分析によってこそ、小説に緊張状態を起動させ、それを維持していくのだからである。この『ポイントンの蒐集品』は、プロットも分かりやすくて面白く、登場人物も極めてユニークで魅力に溢れている(主に主人公のフリーダと、彼女をこよなく信頼するゲレス夫人。それに少し頭の足りない夫人の息子
オーエンも魅力的でないことはない)。
 あるいはまた、この本の序文で中村真一郎が指摘しているように、各節の終わり方がこの作家の偉大さを感じさせるほどに巧く書けているので、それだけでも〝いい小説〟になったかも知れない。
 しかし、それだけだったら私はヘンリー・ジェイムズを読むことはないであろう。心理分析への逸脱と、それが起動させる緊張感こそがヘンリー・ジェイムズの作品の美質なのであって、それが作品を損ねているなどということは全くない。
 またそれだけに止まらず、ヘンリー・ジェイムズの心理小説に特徴的な、登場人物に対する残酷さや、戦闘報告書のようなスタイルは、後期三部作にも引き継がれていく重要な要素である。
 では読み始めよう。

ヘンリー・ジェイムズ『ポイントンの蒐集品』(1984、国書刊行会「ヘンリー・ジエイムズサ作品集」2)大西昭夫、多田敏男訳

 

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マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(9)

2018年01月14日 | 読書ノート

 マイケル・タウシグの『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』は全部で八つの章からなっていて、テーマも様々だ。呪術論のような文化人類学的なテーマもあれば、〝侵犯〟というようなバタイユの思想に影響されて書かれた章もある。
 なかでも第7章「NYPDブルース」はニューヨーク市警察のことを扱った章で、警察というものが本来もっている暴力=法を超えた暴力をテーマとしている。文化人類学はもともと、ヨーロッパ人が未開人の社会の分析を通して、人間の社会を解明しようとする試みで、現代の西欧社会を対象とすることはほとんどない。
 タウシグはそのような未踏の領域にまで踏み込んでいくのだが、その時に援用されるのもまたベンヤミンなのである。「暴力批判論」こそ分析のための道具として利用される論考である。しかし、私は「暴力批判論」も読んでいない。
 この本は読めば読むほど理解が深まるのではなくて、逆に理解のために読まなければならない本がどんどん増えていくという風にできている。しかもその参照先は、第一にベンヤミン、そしてバタイユ、ニーチェなど、文学・哲学に関わる本である。
 だからタウシグの試論はまるで文学批評のようなものとして読むことができ、文化人類学になじみのない人間にも接近可能なものではあるが、いかんせん難しい。その難しさは主にベンヤミンのテクストのもつ難解さに還元されるように思う。
 ベンヤミンのテクストをきちんと読み、彼の考え方を理解した上でないと、タウシグの議論について行くことができないのだ。だから私はこれ以上先に進めない。ただし、タウシグのこの本があまりにも魅力的なので、いったんベンヤミンの世界に戻って、主要な著述を読み、理解を深めてからもう一度読んでみたいという意欲を掻き立てられるということは言っておきたい。
 しかし第3章「太陽は求めず与える」は、第2章「アメリカの構築」に出てくるベンヤミンのボードレール論における議論を、さらに展開させている部分があるので、最後に少し触れておくことにしたい。
 第3章のテーマは「悪魔の契約」である。と言うよりは「悪魔との契約」といった方が分かりやすい(以下読み替えてほしい)。「悪魔の契約」というテーマは、直接的にはコロンビアの農民が悪魔と契約を結ぶことによって、一時的には大きな富を手に入れるが、すぐにそれは蕩尽されてしまうという、どこにでもある話に関わっている。
 タウシグはすぐにベンヤミンのボードレール論を援用して、「無意識的記憶」と「意識的記憶」の問題に入っていく。なぜ「悪魔の契約」にそのような「記憶」の問題が絡んでくるのかすぐには分からないが、ベンヤミンの文章を読んでいるうちにそれとなく分かってくる。

「厳密な意味での経験が宰領しているところでは、記憶のなかで、個人的な過去のある種の内容と集合的な過去のそれとが結合する。(中略)祝祭をそなえた礼拝はつねにあらたに記憶のこの二つの素材を融合させた。礼拝は特定の時の回想を喚起し、生涯にわたって回想を管理するものであった。意志による回想と無意識の回想とはこうしてその排他性を失うのである。」

 このベンヤミンの文章からタウシグは、「祝祭」という言葉を取り上げて、次のように言う。

「祝祭とは、認可を受けた侵犯の時間であり、過剰な消費と過剰な供給、浪費と贈与を発生させる。」

 ここでは、過剰な消費を巡るバタイユの社会学が先取りされているのだが、「祝祭」という言葉をキーワードとして、人間の記憶の問題が悪魔の契約による過剰な供給と消費の問題に置き換えられていく。
 そこに介在するのがボードレールの「コレスポンダンス」なのであって、タウシグはここではっきりと「コレスポンダンス」と類感呪術との類縁性を言う。そこでは記憶の問題が祝祭に(ベンヤミンに言わせれば「祝祭をそなえた礼拝」に)関わってくるのであり、悪魔の契約もまたそこに関わってくるのだから。
タウシグはまた、悪魔に代わるものとしてのマリファナにも触れているが、そこに見出だすのも「悪魔とハッシシのあいだのボードレール的な照応」なのである。すべては〝類感呪術〟ということに結びついているのである。
 タウシグの議論はここから近代の経済史へと展開していくのだが、そこでも「悪魔の契約」は厳然として生きている。むしろ近代こそが「悪魔の契約」によって導かれてきたのだとタウシグは考える。ボードレールやベンヤミンが援用されるのは妥当なことなのである。

 これで終わりにするが、この本の帯に書いてあった「ゴンゾー人類学」という言葉は何なのか。訳者あとがきによればそれは〝常軌を逸した〟という意味なのだそうで、確かにマイケル・タウシグは人類学者としては常軌を逸しているのだと、私でもそう思う。
(この項おわり)

 

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