玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

阿部松夫編著『ただたのみます、いくさあらすな』発刊

2015年07月25日 | 玄文社

 本書で取り上げられている深田信四郎は明治42年柏崎生まれ、教師の道に進む。昭和16年在満教材部に出向し、通化省柳河在満国民学校訓導に、翌年北安省二龍山在満国民学校校長となり、新潟県から渡った二龍山開拓団の子供達に皇国教育を行った。しかし敗戦時のソ連軍満州侵攻により、悲惨な逃避行を強いられる。開拓団員達が身を寄せた長春南溟寮の寮長として避難民を指導し、彼らの精神的支えとなる。過酷な環境下で次々と命を失っていく団員達の悲惨な生活を目の当たりにして、疑いもなく軍部に従ってきた自分を反省し、戦争の悲惨を身をもって知る。
 帰国後は教師としての仕事を続けながら、「レポート・アルロンシャン」を昭和23年から平成10年(最後は「いくさ、あらすな」と改題)まで、通算256号を発行する。「レポート・アルロンシャン」は全国にいる満州開拓団からの帰還者達の原稿を載せ、「いくさあらすな」を合い言葉に、彼らの戦後の困難な生活を支えるバックボーンとなった。深田は妻信との共著『二龍山』(アルロンシャン)と柏崎開拓団の辿った経緯を記録した『幻の満洲柏崎村』などの著書を残した。
 昭和13年旧西山町生まれの阿部松夫は、深田信四郎の部下として働いたことがあり、深田の考えに深く共鳴し、深田の「いくさあらすな」の思いを改めて世に問うために本書『ただたのみます、いくさあらすな』を発行した。タイトルは深田が最後に発行した「いくさ、あらすな」に掲載された歌「書く力、語る力も失せ果てぬ ただたのみます いくさあらすな」から採った。
 本書は満州開拓団避難民達のあまりにも悲惨な逃避行をありのままに記録した『二龍山』と「レポート・アルロンシャン」「いくさ、あらすな」からの抜粋を中心として編集されている。また阿部の深田に対する敬愛の念をもって綴られた思い出の記は、在りし日の深田の大きく暖かな人間的魅力を余すところなく伝えている。
 阿部はまた今日このような本を世に問うことの意義を、次のような時代状況に見ている。「あとがき」から紹介する。

「今国会では、集団的自衛権の行使容認の是非を問う安全保障関連法案の審議が行われております。国民の多くが不安を感じ、ほとんどの憲法学者が法案の違憲性を指摘するにもかかわらず、政府はわが国周辺の安全保障環境の変化を理由に、法案の正当性を主張しています。そして、こうした政府の数を頼んだ強硬姿勢に便乗するかのように、マスコミや出版ジャーナリズムを通して、自制心に富む言葉を拒否するかのような、歴史的事実や社会的背景を無視した反知性主義的な論調が目立つようになってきました。これはまさしく戦前の社会風潮への回帰にも似た、憂うべき現象であります」

A5判222頁、定価1,200円(税込み)
玄文社でも注文を受け付けます。
メールgenbun@tulip.ocn.ne.jp


しばらくお休み

2015年07月20日 | ゴシック論

 今年の2月からほぼ毎日書いてきましたゴシック論をしばらくお休みします。8月7日までに「北方文学」用の原稿を仕上げなければなりません。このところアクセスが増えているのに申し訳ありません。なんとか今月中に原稿を仕上げて、ゴシック論を再開したいと思っています。それまでしばらくお待ちください。お願い申し上げます。

玄文社主人


ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(8)

2015年07月19日 | ゴシック論

 以上のようにストーリーを追って書いていくと、自分の書いていることが単なる解説の域を出ず(解説にもなっていないが)、批評になり得ていないことを実感せざるを得ない。
 本当はヘンリー・ジェイムズの心理小説の核心についてだけ書いていきたいところだが、それだけでは『使者たち』がどういう小説なのか分からないだろう。やむを得ず、もう少し続けることにしよう。
 ストレザーはこうして、アメリカ的価値観からもヨーロッパ的価値観からも疎外されてしまうが、彼はゴストリー嬢に対して自分の位置を明確に示している。次のようにストレザーは言う。
「ぼくという男はぼくをとりかこむ世界と調和していないんです」
と。ゴストリー嬢はストレザーを自分のもとに引き留めようとするが、ストレザーは別れを告げる。ストレザーの科白……。
「やはりぼくは帰らなければなりません。正しくあるために」
「こんどのことで、ぼくは何ひとつ自分の手に入れてはいけないのです」
 これこそがゴストリー嬢に対する別れの言葉となるだろう。あるいはヴィオネ夫人に対する、そしてチャドに対する、さらにはアメリカ的価値観を代表するニューサム夫人に対する別れの言葉となるだろう。
『鳩の翼』の主人公マートン・デンシャーが最後にすべてを捨て去ってしまうように、ストレザーもすべてを捨て去ってしまう。ストレザーは「世界と調和していない」人間である。そのような世界のどのような部分に対しても帰属意識を持たない(持てない)人間は、何ものをも手に入れてはならない、という禁欲主義がストレザーの主張するところであり、ヘンリー・ジェイムズの考えそのものであるだろう。
 そしてストレザーの言葉を真に理解するのはゴストリー嬢ただひとりであり、彼女だけがストレザーの理解者なのである。こうして『使者たち』は深く静かなペシミズムのうちに幕を閉じる。
 言い残したことがたくさんある。ジェイムズの小説の方法として"視点"a point of viewというものがある。視点を登場人物のひとりに絞って書くという方法である。『使者たち』も『聖なる泉』も『ねじの回転』も、たったひとつの視点から書かれている。
 これは小説というものが現実に立脚するならば、神のような万能の視点からは書かれ得ない、という極めて現代的な主張によっている。人間がそれぞれひとつの視点しか持っていないとすれば、小説もまたそのように書かれなければならないというのがヘンリー・ジェイムズの考え方である。
 だから、分からない部分は分からないままに書かれるので、「分カルコトヲ分リニクキ言論デカク」とさえ言われてしまうのだが、漱石のこの言葉は完全な誤解である。個としての我々がすべてを理解し得ず、分かることに限界があるとすれば、ジェイムズはそうした視点からこそ書いているのだから、ジェイムズの書き方の方が"現実的"なのである。
しかし、そのような議論はジェイムズの最後の長編作品『金色の盃』を読む時まで保留しておくことにしよう。

(この項おわり)


ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(7)

2015年07月18日 | ゴシック論

 もうひとつの転換点は、チャドとヴィオネ夫人との密会の現場にストレザーが遭遇する場面である。その前にストレザーは、行き当たりばったりに汽車に乗り、ひとりでパリ郊外の田園風景に浸りに出掛ける。第二の使者セアラ・ポコック夫人達がスイスにヴァカンスに出掛けたので、ストレザーはひとり自由を満喫するのである。
 この場面(第十部三)は『使者たち』の中でも特異な部分である。いつも緊張に満ちた一対一の心理的やりとりが続くこの小説の中で、ストレザーがひとりになるのはこの部分しかない。しかもこの小説が、ストレザーただひとりの視点から描かれているから、唯一独白に近い部分となっている。
 ストレザーが絶えざる緊張から解放されるように、我々読者もまたここで緊張から解放されるのであって、だからこそこの場面は、フランスの田園風景のように爽やかで美しいものとなっている。
 ストレザーは喧噪を離れて、ゆったりと落ち着き、これまで自分がやってきたことに間違いはなかったこと、これからの計画にも間違いはないだろうことを確信し、自信に満ちあふれた時間を過ごす。ストレザーはヴィオネ夫人との二回にわたる面談の思い出に浸り、甘美な思いをめぐらせる。
 しかし、それはもう一つの大きな転換点の静かな前触れにすぎないのだ。ストレザーは河からボートで上がってくる二人連れ、チャドとヴィオネ夫人に偶然出会うのである。心理小説にあってはこのような絵に描いたような偶然は結構多用されるのだが、ヘンリー・ジェイムズはこの場面でしか偶然に頼っていない。ここはストレザーの自信を打ち砕くために用意された偶然であり、許容の範囲にあると言えるだろう。
 チャドとヴィオネ夫人はストレザーに対し、日帰りでやってきたように装うが、少なくとも前日から二人で宿に泊まっていたことは歴然としている。二人の間には肉体関係があったのである。
 なぜそんなことにストレザーが拘るかと言えば、彼がチャドの友人ビラムの「ふたりの愛情は清らかなものだ」という断言を信じていたから、あるいは信じようとしていたからなのである。ビラムの言葉こそストレザーが二人の関係の"汚れのなさ"を疑わない根拠となっていたのだし、ヨーロッパ的な精神的価値観への覚醒の根拠でもあったのである。しかしその信念が揺らぐとき、ストレザーとヴィオネ夫人との関係も、ストレザーとチャドとの関係も決定的に変化することになる。もちろんヨーロッパそのものとの関係も。
 ストレザーのヴィオネ夫人に対する憧憬は変わらないかも知れないが、ストレザーはこのときからヴィオネ夫人にとって"他人"となる。この辺りの微妙ではあるが、決定的な関係の変化をヘンリー・ジェイムズはいかにも彼らしく、わざとのように解りにくく書くだろう。ジェイムズの真骨頂と言わなければならない。


近刊案内

2015年07月17日 | 玄文社

 玄文社では今月24日に、阿部松夫編著『ただたのみます いくさあらすな』の刊行を予定しています。以下に近刊案内のチラシを掲載しますので、ご覧いただきたくお願い申し上げます。

 

詳しい内容については後日お伝えします。

メールでのご注文も承ります。

genbun@tulip.ocn.ne.jp

 


ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(6)

2015年07月17日 | ゴシック論

 前回ストレザーが経験する二つの大きな転換点ということを書いた。その一つは何かといえば、ストレザーが使者としての使命に自信を持てなくなり、チャドやヴィオネ夫人達が形成しているヨーロッパ的精神性に目覚めていく過程である。
 ストレザーはたいした情熱もなく結婚し、妻を失ってくたびれた初老の男として登場するが、チャドやヴィオネ夫人と出会うことで、初めての"青春"を生きるのである。
 ストレザーの使命とは、彼が仕えるアメリカのウレットという都市(架空の名前である)の工場主ニューサム夫人の依頼で、工場をさらに発展させるために夫人の息子チャドを連れ戻すことである。そしてそれに成功すれば、ストレザーはニューサム夫人と結婚し、老後の安泰を保証されることになっている。
 ニューサム夫人は小説中一度も登場しない人物であるが、それにも拘わらず他の登場人物に対して強力な支配力を行使する。ある時は手紙で、ある時は第二の使者となる娘のセアラの強硬な姿勢を通して。不在の人物の存在感をこれほどに発揮させた例を私は知らない。『鳩の翼』におけるモード・ラウダー夫人のあり方に似ているが、言うまでもなくそれ以上の存在感がある。
 ストレザーの価値観は当初、ニューサム夫人の価値観に染まっている。それはつまり、ウレットの価値観であって、ストレザーはパリでそのような価値観を覆されるという重大な転換を体験するわけである。簡単に言えば、それはアメリカ的な拝金主義的価値観から、ヨーロッパ的な精神主義的価値観への転向であって、そのことがストレザーに初めての青春をもたらすのである(第一の青春はなかったのであるから第二の青春ではない)。
 それを導いていくのは、"ヨーロッパ案内人"たるゴストリー嬢であり、ストレザーはゴストリー嬢によって甦るのであって、ヴィオネ夫人によってではない。パリの社会の中で、ストレザーを自立させるのも、かれに超能力的なテレパシーを与えるのもゴストリー嬢であって、ヴィオネ夫人ではない。
 だから『使者たち』がストレザーとヴィオネ夫人の物語として読まれてきたことに対して異論がある。ヴィオネ夫人はチャドを"立派に成長させた"という功績によって重要な人物ではあるが、実際にどのようにしてそれを行ったのかについての言及はまったくない。
 ヴィオネ夫人は、ただひたすらに美しく、その美しさによってヨーロッパ的価値観を代表する。ストレザーは美しいヴィオネ夫人との出会いをきっかけとして、ヨーロッパ的な精神性に目覚めるのかも知れないが、そのお膳立てをするのはゴストリー嬢に他ならない。
 だから最後別れの場面は、ストレザーとヴィオネ夫人のためにではなく、ストレザーとゴストリー嬢のためにとっておかれるのである。

 


ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(5)

2015年07月16日 | ゴシック論

 まず『聖なる泉』が吸血鬼小説としても読まれうるものであったことを思い出して欲しい。愚鈍な男ロングは誰かは分からないが、ある女性と深い関係を持つことによって聡明な男に変身するのだし、若くも美しくもなかったブリセンデン夫人は、夫の"聖なる泉"を汲み取ることによって若返り、美しくなるのであった。
 そこには吸血と失血というものが、損得勘定において必ずバランスが取れていなければならないという理論があった。つまり、一方が若返れば一方は老け、一方が聡明になればもう一方は白痴化しなければならないという理論である。『聖なる泉』における「私」の理論は、あまりにも形式的・図式的であって、常識を逸脱したものであった。 
『使者たち』においても、一対の男女の間でそのような現象が起こっている。
どら息子であったチャドは、ヴィオネ夫人(アメリカではいかがわしい女と思われ、ストレザーもそう思っていた女)との関係の中で、別人のように生まれ変わり、ストレザーに大きな驚きをもたらす。チャドは申し分のない紳士へと成長を遂げていたのである。
『使者たち』においては『聖なる泉』の「私」の理論のように、チャドが立派に成長したからといって、ヴィオネ夫人が精神的に退行しているわけではない。彼女は彼女として素晴らしく、ストレザーは「いかがわしい女だけが人をパリに引きとめるのではない」ということを悟るのである。
 また『聖なる泉』においては「私」という存在が、ほとんどテレパシー能力を持つかのように何事をも見通すのであるが、『使者たち』にあってはゴストリー嬢がそうした役割を担っている。しかしその役割はヴィオネ夫人の登場とともに、主人公ストレザーへと委譲されていく。
 小説の後半でストレザーは何事をも見通すことのできるテレパシー能力を持った男として生まれ変わるのである。そしてなぜゴストリー嬢がそうした能力を失うかと言えば、恋愛関係がストレザー=ゴストリー嬢から、ストレザー=ヴィオネ夫人へと移行していくからである。
『聖なる泉』の「私」は決して判断を過たず、その理論は完璧であるという自信を最終的には堅持するのに対して、ストレザーはそうではない。チャドとヴィオネ夫人との密会の現場に遭遇して、彼の自信は大きく揺らぐことになる。
『聖なる泉』の「私」は小説の最初から最後まで変わらないが、ストレザーの方は、何度か(少なくとも二度)大きな転換点を経験することになる。『聖なる泉』は何も変わらないスタティックな小説であり、『使者たち』はストレザーとヴィオネ夫人との恋愛感情をも孕んで、大きな変貌と転回の物語なのである。
 簡単に言えば、ヘンリー・ジェイムズにとって『聖なる泉』は彼の心理学の原理編であり、『使者たち』はその応用編であるということになる。ジェイムズは『聖なる泉』を無駄に書いたわけではないのである。

 


ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(4)

2015年07月15日 | ゴシック論

 ゴストリー嬢はこの小説のストーリー展開を、様々な情報収集によって補完していく役割を担っているだけではなく、登場人物たちの心理を正確に読み取っていく装置としても機能している。
 ゴストリー嬢はストレザーをはじめとする登場人物たちの言葉の端はしから多くのことを読み取ることができる。あるいは言葉を発することのない眼からだけでも、あるいはその場の雰囲気からだけでも、正確に多くのことを読み取っていく。
 ストレザーがゴストリー嬢と旧友ウェイマーシュとともに、コメディ・フランセーズに出掛け、ボックス席に入る場面がある。ゴストリー嬢は、そこでこれから起きることを予言してみせる。ゴストリー嬢の科白……。
「もし私の予感が狂っていなければ、ビラムさん(どら息子チャドの友人)は今夜きっとあなたのために何かたくらんでいます。なぜだか、そんな気がしてならないのです」
 彼女の予言どおり、ボックス席にはチャド本人が姿を現すのである。それだけなら"予感"に止まるところだが、ゴストリー嬢は初対面のチャドを一目見ただけで、現在のチャドの生活ぶりについてすべてを見抜くのである。もう一度ゴストリー嬢の科白……。
「一見そうでなさそうにみえながら、たしかにチャドさんの背後には誰かがいるのです――それもくだらぬ女ではない人がいるのです。だって、わたしたち、チャドさんの成長が奇跡的だということを認めているのですもの。あれほどの奇跡を起こすことができるのは、そういう人以外にありません」
 ストレザーは、ではなぜチャドはその女について説明しないのかという疑問をゴストリー嬢に投げかけるが、ゴストリー嬢は「パリでは、チャドさんが受けられたような恩義は、口に出して言わないことになっているのです」と答える。 
 前半の山場をなすこの場面で、ジェイムズはゴストリー嬢にテレパシー能力を与えているかのようである。それこそゴストリー嬢は誰もが「口に出して言わないこと」でもすべてを把握することができるのである。
 前にも言ったように、テレパシーやサイコキネシスの存在を前提とするような"超心理学"を可能にするのは、ヘンリー・ジェイムズの人間の心理への全幅の信頼でなければならない。
このゴストリー嬢の特殊な能力を不自然だとか、作り物めいているとか言うことはできるだろう。しかし、それを言ったところで何になるというのであろうか。ヘンリー・ジェイムズの小説にあっては、人間の心理が行動の代わりを務めているのであるから、行動が小説において虚構の支配下に置かれるように(そうでなければ小説は成り立たない)ジェイムズの小説にあっては、心理が虚構の支配下に置かれるのである。
 そのような極端な例を我々は『ねじの回転』に見たではないか。誰も『ねじの回転』における女家庭教師の心理について、それが不自然だとか、作り物めいているなどと言うことができないように、『使者たち』においてもそれを不自然と言うことはできない。
 ところでこの場面で、『使者たち』の構造が、極めて『聖なる泉』のそれに近いということを指摘することができる。もちろんより洗練された形にはなっているが……。

 


ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(3)

2015年07月14日 | ゴシック論

『使者たち』には主人公ストレザーを補佐するかのような、"ヨーロッパ案内人"ゴストリー嬢が登場する。この人物がありとあらゆる情報を収集して、ストレザーの役に立とうとするのだが、このゴストリー嬢とストレザーとの会話がこの小説の中でもっとも重要なファクターとなる。
 この二人の会話はとくに注意深く読む必要がある。心理小説の特徴として、大勢の場面よりも、あるいはたったひとりの場面よりも、一対一の場面がより多く描かれるということがある。当然のことながら人間同士の心理のやりとりは、一対一でこそ行いうるものだからである。
 ゴストリー嬢とストレザーとの会話は、時に判じ物のように訳が分からなくなることがある。二人がどのように会話するかと言えば、お互いに自分がこれから言うことに対して相手がどう答えるか、それを推論し、相手の答えを想定した上でしか発話しないのであり、あるいはもう一つなり二つ先の相手の返答を推論してその上で発話するというような回りくどい会話をするのである。
 だから発話と返答との間に間隙ができる。間隙と言うよりもむしろ省略による飛躍と言った方がいいだろう。そのような場面を読者は、ロンドンでのストレザーとゴストリー嬢の最初の出会いの場面から読むことになる。そして、その後に分析的記述が延々と続いていくのである。
 ヘンリー・ジェイムズの小説は、このように長くならざるを得ない要因を持っていると言える。一般に"心理小説"というものは小説にとっての"手法"のひとつと考えられるだろう。人間の心理を分析的に書くことで、作品に内面性を持たせ、重層化することができるからである。
 しかし、ジェイムズの場合は違う。心理描写は"手法"ではなく、それ自体が目的となっている。ジェイムズにとって人間の心理は、登場人物の行動と同じ意味を持っている。人間の行動を描くことは"手法"ではあり得ず、それこそそれ自体が小説の目的なのである。ジェイムズは行動を描くように心理を描くのである。
 ヘンリー・ジェイムズの小説では、人間の行動というものはほとんど描かれない。だから退屈だというむきもあろう。しかし、心理が行動と同じ位置を占めているのであるから、普通の読み方はできないのである。読者はこのことをまず認識する必要がある。心理を登場人物の行動の裏付けとしてではなく、行動そのもの、あるいは行動の暗喩として読むことが必要になる。
 そのように読むならば、登場人物の心理の動きこそがドラマであることが理解されるし、そこには大きなものから小さなものまで無数の運動があるのであるから、読者はその運動に身を任せればよい。そうすればジェイムズの描く心理のドラマを敏感に感じとることができるだろう。


ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(2)

2015年07月13日 | ゴシック論

 漱石が「此人ノ文ハ分カルコトヲ分リニクキ言論デカクノヲ目的ニスルナリ」と嘆いた理由もそこあるだろうが、当時の読者層には忍耐力というものがあった。現在の読者にそれを求めるのは酷というものだろう。
さらにジェイムズの小説は「心理小説」と呼ばれるものであって、心理小説自体それほど読みやすいものではない。本家フランスの心理小説の数々も決して読みやすくはない。しかしフランスの心理小説はスタンダールの『赤と黒』を除いて、ほとんどが短い作品である。
 ラファイエット婦人の『クレーヴの奥方』も、パンジャマン・コンスタンの『アドルフ』も、それらの伝統の上に書かれたレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』そして『ドルジェル伯の舞踏会』も短い作品である。人間の心理を中心に据えて分析的に書くということは、決してたやすいことではないし、息が続かないから長く書くことができないのである。
 だから心理小説の古典的名作は、どれも小さく結晶した美しい珠のように短いものとなっている。だから本家フランスにおいても心理小説が主流になるようなことは決してなかったし、これからもないであろう。
 ところがヘンリー・ジェイムズは、本家フランスの心理小説よりももっと徹底的に突き詰めた心理小説を書いた。しかも長大なそれを21本も(すべてが心理小説というわけではないだろうが)書いた。特に晩年の三大傑作といわれる『使者たち』『鳩の翼』『金色の盃』は、究極の心理小説と言えるもので、しかもそれぞれが大変に長いのである。
 私は確保した六冊のうちまだ『鳩の翼』を征服したに過ぎない。他の五冊が早く読んでくれと私に催促するのである。次は何を(?)と迷っていたのだが、『使者たち』にすることに決めた。それが後期三部作の『鳩の翼』に告ぐ第二作目の作品であることと、そして『金色の盃』よりは若干短い(『金色の盃』は文庫上下で1050頁もある)ことが理由である。
 では『使者たち』を読むことにしよう。簡単に(しかも下世話に)言えば、アメリカの大工場主のどら息子が、パリでたちの悪い女にひっかかって帰ってこないため、連れ戻しに"使者"として(原題はThe Ambassadorsつまりは大使たち)派遣された主人公ストレザーが、どら息子の変貌ぶりと"いかがわしい"と思われていた女の素晴らしさに参ってしまい、ミイラ取りがミイラになるというお話である。
 読み始めてすぐにこれは『鳩の翼』と同様、私には非常に読みやすい小説だと思った。このような作品を読むには向き不向きもあるだろうし、コツもある。なぜ私にとって『使者たち』は読みやすい作品なのだろうか? そんなことを考えながら、しばらく『使者たち』に付き合ってみようと思う。

ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(1968、講談社「世界文学全集」第26巻)青木次生訳(この講談社版「世界文学全集」は『鳩の翼』を含むそれとは別のシリーズ)