読み終わってから随分時間が経ってしまったので、『パルムの僧院』のストーリーの流れも不明瞭になってしまっているが、獄中のファブリスがクレリア・コンチと様々な方法で意思を伝え合い、やがて二人が恋に落ちていくところ、そしてサンセヴェリナ公爵夫人の手はずで、ファブリスが脱獄に成功するところが、この小説の山場と言える。
しかしそれも直線的に進行するのではなく、ファブリスは牢獄に留まることに執着するのだし、毒殺の危険に対しても無防備である。彼のアパシーを解き放って、脱獄を決意させるのは、クレリア・コンチが政略結婚を迫られているという事実である。このときようやくファブリスは愛されるだけの男から、愛する男へと変貌を遂げるのである。
しかし、それ以降『パルムの僧院』の主人公は、ファブリスからサンセヴェリナ公爵夫人にとって変えられていくように思うのは、私だけではないだろう。ファブリスとクレリア・コンチの恋の行方は一体どうなるのだろう。ファブリスは結局クレリアとクレセンチ侯爵との結婚を妨げることができない。小説の最後のほうでまるで付け足しのように、ファブリスがクレリアと姦通を犯し、子供までできてしまったことを読者は知ることになる。
小説の後半、スタンダールはファブリスという存在に対して興味を失ってしまったかのようにさえ見える。『パルムの僧院』の後半は、パルム公国におけるモスカ伯爵とサンセヴェリナ公爵夫人の一派と、ファビオ・コンチ将軍(クレリアの父親)とラッシ検察長官の一派による権力闘争の物語へと変貌していく。
サンセヴェリナ公爵夫人はファブリスを救わんがために、単身宮殿に乗りこんで、大公に直談判もするし、小説の後半では大公亡き後の新大公を手玉にとって、公国の政治を牛耳ることまでする。
とくに夫人が「パルムを去ってミラノに行く」と言って、大公に揺さぶりをかけ、女の武器を最大限発揮して、大公の意思を動かすところはこの小説の白眉と言ってもよい。そこにモスカ伯爵が絡んで、ファブリスの処罰についての駆け引きが息詰まる緊迫感の中で続いていく場面は、やはり心理小説『赤と黒』を書いたスタンダールの面目躍如と言ってよい。
こうしてみるとファブリスよりもサンセヴェリナ公爵夫人のほうが、登場人物として生き生きと描かれていることは否定できない。ファブリスは生きている人間というよりも、何か愛される男の理想型といった感じで、そのアパシーも含めて彼の周辺の人間たちの行動の目標点であって、象徴的な存在となっているのである。
一方サンセヴェリナ公爵夫人は、ファブリスを甥としてではなく、男性として愛し続け、時にはクレリア・コンチに嫉妬の火を燃やし、時にはモスカ伯爵に幻滅を感じたりしながらも、懸命に生き抜くのである。
そしてモスカ伯爵もまた、極めて魅力的な人物として造形されている。モスカ伯爵はパルム公国の実力者であり、大臣という地位にありながら、彼はファブリスやサンセヴェリナ公爵夫人のためならば、その政治生命を緒断たれたとしても悔いることはない。サンセヴェリナ公爵夫人のファブリスへの愛を知りながらも、彼に嫉妬することもなく、正しいと信じるところを貫くのである。
『パルムの僧院』には『赤と黒』にはない〝政治学〟がある。感力闘争としての〝政治学〟に留まらず、人がそこから決して自由ではあり得ないという意味での〝政治学〟が。
そしてそれはフローベールの『ボヴァリー夫人』には決定的に欠落した部分なのだ。
(この項あわり)