以上のように『パラディーソ』には、「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ」の中で、歓喜に打ち震える比喩表現が無数に散りばめられている。前回引用した部分でいえば、「呪われた花飾り」や「浮氷の塊」、「電解質のコイルの黄金プレー卜」、「パンヤの木の精」や「笛吹く影」がそれに該当する。
しかし、「本来の土地から引き離され」た単語たちは、必ずしも「歓びに満ちた動き」だけを見せているわけではない。それに続くセミーの反応がそのことを明らかにする。それらの単語は「彼の暗い、不可視の、名状しがたい通路に入って来る」のであり、〝彼〟がアルベルト伯父を指すのだとすれば、アルベルトの存在の暗部に入ってくることによって、それらの単語は不吉な様相を呈していくことになる。
レサマ=リマはここで、漁師によって引き上げられた魚の直喩を使っているが、これほど見事な譬えを見たことがない。魚たちはぴちぴちと跳ね回って、生のエネルギーを悦びのうちに発散しているかのように一見見えるが、そうではなく、それは海中から引き上げられ、大気中に放たれて「身をよじりながら、死に抱き止められていく様子」に他ならないのである。つまり、「本来の土地から引き離され」た言葉たちは、自由の悦びと同時に、死の恐怖に抱きとめられ、もがいているのでもある。
レサマ=リマはマルドロール的な直喩、あるいは隠喩の中に、言葉の生と死のアンビヴァレントな両義性を見て取っているわけだ。それはしかも、イジドール・デュカスの存在の暗部を潜り抜けることによってもたらされる両義性でもある。このような読みは『マルドロールの歌』を読む読者に対して基本的に求められる態度なのに他ならない。そこにアルベルトの比喩表現がそのようなものであるだけでなく、レサマ=リマの比喩表現もまた生と死の両方の側に接する両義性を持っていると言えるのである。そのことを私が前々回に引用したセミーの二つ目の反応についての、直喩と隠喩を組み合わせた比喩表現が語っている。もう一度引用する。
「彼はことばが浮き彫りになってくるのを感じ、また、頬の上で、軽やかな風がそうしたことばを震わせて前進させるのを、さらには、そのそよ風がパンアテナィア祭に集まった群衆の長衣をなびかせるのを感じるようになり、ことばの意味は揺れ動いて徐々に見えなくなっていくのだったが、波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱としてふたたび姿をあらわしてくるのだった」
この一節は比喩表現に関わる言葉が、爽やかな歓喜の中に打ち震えながら、次第に意味そのものを失っていきつつも、結果として新たな意味を文章の中に刻印していくあり方を鮮やかに表現しているのである。
この辺でレサマ=リマの隠喩表現について見ていく必要があるだろう。今再度引用した文章の後半部分は、隠喩だけで構成されているが、「波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱」という表現は、言葉=魚という直喩を前提としていて、それほど唐突でも、奇っ怪なものでもない。
先に言ったように直喩は「~のように」という指標によって、比喩するものに対して強力な重力を発動するから、直喩がいかに奇態なものであっても、比喩するものは比喩されるものに結局は回帰する。ただそこで、直喩表現がどのような放物線を描くかが問題なので、そこで隠喩がどのような役割を果たしていくのかを検証しなければならない。
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