玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(19)

2019年01月31日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』④
 続いて第2章「パリ鳥瞰」。この章は第1章でノートル=ダム大聖堂の歴史について、そして破壊される以前の大聖堂の素晴らしさについて語ってきたが、今度はそれをパリの街全体に拡げてみようとする試みである。それもまた15世紀の失われたパリを念頭に置いて。
 ユゴーはノートル=ダム大聖堂の塔に登って得られる眺望について次のように書いている。

「鐘楼の厚い壁を垂直に貫いている暗いらせん階段の中を長いあいだ手さぐりで登っていったあげく、日の光と太陽をいっぱいに浴びた二つの塔のどちらかの頂にいきなり出たとたん、目の前一面にぱっと広がる光景は、まさにみごとな一枚の絵であった。」

ノートル=ダムの北塔に登った最初の眺望(左手奥にルーブル宮、つまりこれはヴィル方面) 

この文とまったく同じ体験を私は昨年11月14日にしている。その日は11月だというのに暖かく、日差しも強くて、青空が広がっていた。400段の薄暗い階段を息を切らせながら登り切ると、いきなり(もうじき階段が終わるという予告などどこにもないから)パリの街の眺望が眼に飛び込んでくる。
 パリにはモンパルナス・タワーを除いて超高層ビルが存在しないので、全体がフラットに展望できる。そして建物のほとんどが石造りであり、歴史を感じさせる美しいもので、そんな中に教会のゴシック式尖塔や、ロマネスク式半円ドームが突き出て見える景観は、ユゴーの言うように「みごとな一枚の絵」に他ならなかった。
 しかし私の言っていることは間違っている。ユゴーは15世紀のパリこそ「他に比べようのない」ものであり、それは「無傷で、完全で、まじりけのないゴチックふうの都市」であったからだと言うのだ。しかし日本人である私にはそのような想像力はない。私はただ日本の首都東京の乱立する超高層ビル群に汚染された景観と比較することができるだけだ。
 ユゴーはまずシテ島に発するパリが次第に拡大していって、はっきりと特徴づけられる三つの区に分けられるようになっていった歴史を振り返る。この三つの区とは「中の島(シテ)と大学区(ユニヴェルシテ)と市街区(ヴィル)」である。
 中の島(訳者はシテ島をこう訳している)が一番古くてそこには教会があり、司教の管轄下にあった。そこから派生していった市街区には宮殿が建ち並び、そこはパリ市長の管轄下にあった。そして大学区には学校が「いやというほど」あって、そこを管轄していたのは大学総長であった。
 現在のパリで分かりやすく言うと、「中の島にはノートル=ダムがあり、市街区にはルーブル宮と市庁舎が、大学区にはソルボンヌがあった」ということになる。市街区はセーヌ川の右岸に広がり、左岸には大学区があった。今でも右岸・左岸という言い方はされるし、街の特徴もまだ残されている。
 ユゴーはここから、15世紀『ノートル=ダム・ド・パリ』の舞台となった時代のパリの全景を、三つの区に沿って描いていく。しかし、私にはこの部分を鑑賞する能力はない。パリの歴史的建造物、教会や修道院、王宮や貴族の屋敷についての知識がなければ、この部分を読んで15世紀当時を思い浮かべることはできないからだ。
 しかしルネサンス時代の到来とともに、パリの「まじりけのないゴチックふうの都市」としての景観は失われていく。○○方式とも呼べないような建物が各年代ごとに建てられていって、パリはすっかり統一感を失ってしまったというのだ。ユゴーは次のように言っている。

「こういうわけで、現在のパリには一般的な特徴というものがまったくない。要するに、現在のパリは数世紀にわたってさまざまな建築様式の見本を集めたようなまちだし、おまけにそのうちのもっとも美しい建築はなくなってしまっているのである。」

 私には現在のパリでさえ十分美しく見えるのだが、ユゴーは15世紀のパリを想像することができる位置にいた。都市の景観をいう場合、様々な時代の様式の混交というものは決してマイナスの要素とは限らない。我々はそこにさまざまな時代の痕跡を、あるいは生きている過去の諸相を見ることができるからだ。
 第一ユゴーはノートル=ダム大聖堂について、さまざまな時代の様式が混交した雑種建築であると言い、それ故に貴重な研究対象であると言っていたではないか。ここにはユゴーの論理矛盾があるが、その要因となっているのは過去への愛着、いわゆる懐古趣味であることを否定できない。
しかし最後にユゴーは大祭日の朝、15世紀のパリの街に響きわたるパリ中の教会が打ち鳴らす交響曲のような鐘の合奏がもたらす大きな感動について詳述している。この文章を読まずに『ノートル=ダム・ド・パリ』について語ることはできない。私にもこの部分から当時のパリを想像することはかろうじて可能なのであった。

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建築としてのゴシック(18)

2019年01月30日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』③
 『ノートル=ダム・ド・パリ』の中で最も興味深く(時にはある驚嘆をもって)、読んだのは、第3編の第1章「ノートル=ダム」と第2章「パリ鳥瞰」、そしてユゴーの建築に対する深い理解を示した第5編の第2章「これがあれを滅ぼすだろう」の3つの章である。
 いずれも本編のストーリーには直接かかわらないが、この小説が舞台とする15世紀という時代、そしてパリとノートル=ダム大聖堂の歴史についての議論を展開して、小説の背景を詳述する部分である。この部分がなければ『ノートル=ダム・ド・パリ』は「建築としてのゴシック」というテーマに関わることはない。
 まず第3編第1章「ノートル=ダム」から紹介していこう。パリのノートル=ダム大聖堂の建築は「十字軍の帰還にはじまり、ルイ11世時代に終わっている」という。十字軍の帰還の時期としているのは、ロマネスク建築の半円アーチに替わるものとしての交差リブ(半円筒と半円筒とを直角に交差させてつくるアーチ型構造で、これによってゴシック建築特有の天井の高さが実現した)を、十字軍がアラビア世界から持ち帰ったとされているからだ。
 これは1160年頃から1250年といわれている建築期間とも符合している。しかしルイ11世の治世は1423年から1483年だから合っていない。どうしてかは分からないが、小さな修繕も含めて考えているためだろうか。
 ユゴーは「ノートル=ダム大聖堂は過渡的様式の建築なのだ」と言う。それはロマネスク建築からゴシック建築への過渡的様式であるということを意味している。教会というものはもともと何百年にもわたって建設されるものであり、その間に建築の技術や様式が変化すれば、そうした変化を取り入れて建設されていくものだからだ。
 ノートル=ダム大聖堂も「ロマネスク式修道院、錬金術式教会、ゴチック式芸術、サクソン式芸術……」などが含まれた「雑種建築」だという。とりあえずそれを「ロマネスク式からゴチック式への過渡的様式の建物」と規定して、ユゴーは次のように言っている(フランス語ではgothicはゴチックと発音する)。

「こうしたロマネスク式からゴチック式への過渡的様式の建物は、研究の対象として、純粋に典型的な建物に劣らないほど貴重な価値をもっている。こうした建物が保存されているからこそ、旧芸術から新芸術へのおもむろな変化のさまが、はっきりとうかがわれるのである。(中略)この尊敬すべき建物の一つひとつの面、一つひとつの石が、フランス史の一ページを表現しているばかりでなく、学問や芸術の歴史の一ページを表現しているのだ。」

 この一文はユゴーのノートル=ダム大聖堂に対する賞讃が、宗教的なものではなく、もっぱら学問的・芸術的なものであったことを示している。後のJ・K・ユイスマンスの崇拝の形とはまるで正反対であって、ユイスマンスは純粋に宗教的な対象としてカトリック大聖堂というものを見ていた。だからユイスマンスにとって、純粋なゴシックではないパリの大聖堂は〝二流の〟ものでしかなかった(ユイスマンスについても後で論ずる予定だが、ここではユゴーの認識との対照性を見ておくに止める)。
 そのような学問や芸術の重要な遺産であるノートル=ダムを破壊した人間達に対して、ユゴーは激しい怒りをぶつけている。まず「政治上や宗教上の革命」が大聖堂を物理的に破壊した。具体的には宗教改革とフランス革命を指しているが、それよりもっと大きな破壊をもたらしたのは「流行」である。物理的な破壊は剥ぎ取るだけで(王のギャラリーの28体の彫像は王の冠を被っているからという理由で、フランス革命時に取り去られた)汚いものと置き換えることはしないが、「流行」はそうではないからである。
「流行」による破壊のきっかけとしてユゴーは、「ルネサンス」を挙げているが、「「ルネサンス」の混乱した、だが素晴らしい方向転換以来次々と移り変わって、建築術をいやおうなしに堕落させてきた」と書いているから、「ルネサンス」自体を否定しているわけではない。酒井健がミケランジェロによるサン・ピエトロ大聖堂以外のルネサンス様式を認めないのとは大きな違いがある。

ノートル=ダム北塔の装飾彫刻 

特にユゴーが批判するのは装飾彫刻に関してである。以下のようにユゴーは言う。

「卵型飾り、渦巻型飾り、縁飾り、ひだ型飾り、花飾り、房へり飾り、石像の炎、青銅の雲形飾り、太っちょのキューピッド、ふくらんだケルビム天使、いやはや見るもおぞましい装飾技法だ。」

 ユゴーが言っているのは特にバロック様式による彫刻のことである。つまり私がヴェルサイユ宮殿で見た、あのおぞましい虚飾をユゴーは批判している。ネオ・バロック建築を代表するガルニエ宮(オペラ座、1875年竣工)の彫刻はよい例と思われるので、以下に写真を掲げておく。

ガルニエ宮の装飾彫刻
 

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建築としてのゴシック(17)

2019年01月29日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』②
 あるいは大聖堂はエスメラルダにとってではなく、むしろクロード・フロロの欲望を閉じこめ、そしてゆがんだ形に増殖させる幽閉装置なのかも知れない。ならばアンブロシオのゆがめられた欲望を増進させる修道院という幽閉装置との共通性が指摘される。
 閉鎖空間で禁じられた欲望が悪魔として立ち現れるというプロットは、ルイスの『マンク』によって打ち立てられたもので、この小説を踏襲しなかったゴシック小説というものは考えられないのである。『マンク』の場合にはアンブロシオの欲望は男装のマチルダとしてあらわれるが、言うまでもなくマチルダは悪魔の化身である。
 禁じられた欲望の対象である女性が悪魔となるのは、欲望の主体を掻き立てる存在が女性であるからで、これは男性中心主義的で身勝手な欲望関係であると言える。
 そうした欲望関係をジュール・ミシュレが『魔女』において見事に描き出しているが、そのような関係性は〝魔女〟というものが禁じられた欲望を持つ主体が自ら作り出すものだという構造に起因する。自らの欲望が〝悪〟であるのは、女性が〝悪〟であるからなのである。
 つまり〝魔女〟とは女性のうちに投影された男性の欲望を意味しているし、そしてそれを正当化するのは教会の権威であり、アンブロシオの欲望とクロード・フロロの欲望はそのことにおいても共通している。『ノートル=ダム・ド・パリ』では、エスメラルダは魔女として捕えられ、処刑されることになるのだから。
『マンク』の影響を強く受けたE・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』にあっては、主人公メダルドゥスの悪魔は自分自身の分身として立ち現れる。『悪魔の霊酒』での分身は欲望の構造に対する反省的な意識を起源としている。メダルドゥスは自分自身の欲望の内部に〝悪〟を見出し、悪魔はそこからつまりは自分自身の欲望のただ中に生起する。分身はだから、男性の自分自身の欲望に対する反省的意識の中から生まれてくるのである。
『悪魔の霊酒』における悪魔はだから、アンブロシオの悪魔よりも反省的であり、より複雑な欲望関係のうちにある。『ノートル=ダム・ド・パリ』のクロード・フロロの場合には、そのような反省的な意識は見られない。フロロはアンブロシオの次元に止まっているのだ。
 ではカジモドとは何であるのか。この二目と見られぬ奇形で醜い男は最初クロード・フロロの養子として登場するが、それ故に教会の権威から自由ではない。
 カジモドが公開の鞭打ち刑に処せられている時、一杯の水を飲ませてくれたエスメラルダに対する恩義が、彼女を教会という〝避難所〟に匿うという行動を起こさせるが、まだカジモドは教会の権威の中にいる。
 そしてエスメラルダを奪還しようとするジプシー達の集団に対しても、そこに誤解も働いて、家事も度はまだ教会の権威の内部に止まっている。しかし、エスメラルダに暴行を働こうとしたフロロを見て一転反抗の姿勢に転じ、フロロを大聖堂の塔から突き落とすのである。
 エスメラルダもフロロも、エスメラルダが恋心を寄せるフェビュス・ド・シャトーぺールも小説中で少しも成長しないが、カジモドだけが成長していく。『ノートル=ダム・ド・パリ』はそういう小説なのだと思う。
 しかし『ノートル=ダム・ド・パリ』を小説として読んだ時に、もっとも強く感じるのはメロドラマ性である。それは初期のゴシック小説によくあることでもあって、この小説のストーリーの中に入れ子のようにして入っている、生き別れになった母と娘の再会の物語において、それは典型的である。
 さらにメロドラマに付きもののご都合主義についても、いちいち指摘していたらきりがない。カジモドは耳が聞こえないはずなのに、都合のいい時だけカジモドの耳は聞こえてしまう。第一鐘の音で聴力を失った男が、鐘撞き男として正確に鐘を撞くことができるはずがない。
 こうしたご都合主義はまだまだいくらでも指摘できるが、それほど意義があるとは思えないので、この辺で建築の問題に戻ることにしよう。

 

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建築としてのゴシック(16)

2019年01月28日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』①
ヴィクトル・ユゴーは小説『ノートル=ダム・ド・パリ』の決定版覚え書きに、「諸芸術の王である建築術の死」を前にした所感を述べている(〝建築術の死〟については後述)。

「だが、将来の建築がどうなるにせよ、我が国の青年芸術家たちが、彼らの芸術の問題を将来どんなふうに解決するにせよ、とにかく、これからつくられる新しい記念建造物を待ちうける一方、昔からある記念建造物をもまた大切に保存していこうではないか。できれば、民族生粋の建築を愛する精神を、フランス国民の胸に吹き込もうではないか。はっきり申しあげるが、これこそ、この本を書いた目的の一つであり、私の一生の主な目的の一つでもあるのだ。」

 事実このユゴーの歴史的建造物保存への熱意が、パリのノートル=ダム大聖堂修復事業へとつながり、ヴィオレ・ル・デュックによる修復が20年後には完成することになるわけだから、この小説のもたらした社会的影響には計り知れないものがある。
 この小説がなければ、パリのノートル=ダムがエッフェル塔と並ぶ観光地として、世界中から観光客を集めることもなかっただろうし、私がパリで10日間過ごしたことの意味もはるかに小さなものになっていただろうことは確かである。
ユゴーは『ノートル=ダム・ド・パリ』の第3編で、大聖堂の歴史とパリの街それ自体の歴史について2つの章を費やしているし、さらには第5編の「これがあれを滅ぼすだろう」の章で、建築術と印刷術の歴史についての考察を行っている。これらの章は『ノートル=ダム・ド・パリ』の」小説のストーリー展開に直接寄与するものではないが、覚え書きの言葉が真正のものであったことを証拠立てている。
「建築としてのゴシック」というタイトルを付けた以上、この小説についても建築的な側面から考察するのでなければならないが、第3編と第5編の第2章は後回しにして、まず小説としての『ノートル=ダム・ド・パリ』について先に考えてみることにしたい。まずこの小説がゴシック・リヴァイヴァルの流れの中にあるものだとしたならば、それをゴシック小説として捉えてみることも無駄ではないだろう。
 この小説を読んで最初に思ったのは、M・G・ルイスの『マンク』の影響である。まず『マンク』に登場する修道士アンブロシオと、この小説のノートル=ダムの司教補佐クロード・フロロの類縁性を言わなければならない。アンブロシオもフロロも聖職にありながら若い女性の肉体に異常な情欲を燃やす悪徳の化身である。
 それだけではなく、彼らの邪悪な欲望が小説の基本的なプロットを廻す大きな要素となっているところにも共通性がある。一方はスペイン、もう一方はフランスではあるが、その背景にはキリスト教=カトリックの腐敗した教会権力があり、どちらの作品にもそうしたものに対する糾弾の姿勢が見られるのである。
 もう一つは純真な若い女性の受難という、これまたゴシック小説によく見られるテーマの共通性である。『マンク』に登場する主要な女性アントニアとアグネスはアンブロシオの魔の手ばかりでなく、いくつもの理不尽な悲惨な境遇を体験し、アントニアの方は兄であるアンブロシオに犯されて死んでしまう。『ノートル=ダム・ド・パリ』の女主人公、ジプシー娘でありながら純情な心を持ち続けるエスメラルダの方は、クロード・フロロの執拗な求愛に苦しみ最後はその純情があだとなって、フロロの犯した殺人の罪を被せられて破滅する。
 さらに教会への民衆による襲撃の場面を大団円に持ってきていることも共通点になる。『マンク』では主人公ロレンゾの妹アグネスが幽閉された尼僧院を、尼僧院長を糾弾する暴徒が襲撃し、それによってアグネスは救出される。『ノートル=ダム・ド・パリ』では、カジモドによって匿われたエスメラルダを救出するために、ジプシーの仲間がノートル=ダムを一斉襲撃する。ただし、エスメラルダがそれによって救われることにはならないが。
 またゴシック小説特有の閉鎖空間も二つの小説は完備している。『マンク』の場合にはアントニアが幽閉される修道院と、アグネスが幽閉される尼僧院がそれであり、『ノートル=ダム・ド・パリ』の場合には、エスメラルダが匿われるノートル=ダムそのものである。ただし、エスメラルダは幽閉されるわけではなく、そこはカジモドによって「避難所だ!」とされるのだが……。

ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』(2016、岩波文庫)辻昶、松下和則訳

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建築としてのゴシック(15)

2019年01月26日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』⑨


ノートル=ダムからエッフェル塔を遠望

 こうしてゴシック・リヴァイヴァルは近代から現代へとつながっていく。ゴシックの系譜をエッフェル塔まで視野に入れた時、何が見えてくるのか、そのことを酒井は書いていない。
 ヴィオレ・ル・デュックの極めて近代的な考え方についても、それほど高い評価を与えておらず、酒井の評価の軸はやはり、ヨーロッパ中世へと向かい、ゴシックの精神の中に庶民的で自由、柔軟で懐の深い宗教性を見出してそれを高く評価する。デュックは酒井にとって十分に反近代的ではなかったのである。
 ならば、ゴシック・リヴァイヴァルがカトリック・リヴァイヴァルとしての側面を見せる時、酒井はそれを最大限に評価することになる。シャトーブリアンの『キリスト教精髄』への高い評価、さらにはカトリックへと回心したJ・K・ユイスマンスの『大伽藍』に対して「カトリック・リヴァイヴァルの宝と言ってよい文学表現」と、手放しの評価を与えていることもその例証となる。
 しかし酒井のように近代への否定が中世への評価につながっていくケースはそれほど独創的なものではない。ゴシック・リヴァイヴァルを先導したとされるゴシック・ロマンスの担い手達も、近代の合理主義的精神の否定の末に、中世の理想化に至ったようにも見える。
 あるいは近代合理主義批判は現在の日本にあっても猖獗を極めていて、それらは理想の過去を縄文時代に求めたり、神代に求めたり、あるいは江戸時代に求めたり、明治の初期に求めたりと、忙しいこと極まりない。
 彼らが忘れているのは理想の過去というもの自体が、近代の意識によって作り出されたものに過ぎないという認識である。人類の歴史上、人々が豊かで、平和で、自由に、創造的に暮らした時代などというものはあり得ない。人々がキリスト教の大聖堂の下で、自由で豊かに暮らした中世などというものがあり得ないのと同じである。
 私がゴシックの歴史の中で気になるのは、キリスト教による異端審問とそれに続く魔女狩りの時代のことである。それらはゴシックの時代とほぼ重なっていて、キリスト教の暗黒の側面を代表している。酒井は一切そのことに触れようとしない。
 ならばジュール・ミシュレの『魔女』を読んでみる必要があるだろう。そのことへの考察は『魔女』を読むまで保留としておくが、酒井がゴシックの精神を理想とするあまり、キリスト教の暗部を見過ごしているのは、看過できない誤りだと思う。

 

金網がなければ最高のアングル

 ところで最後にパリのノートル=ダム大聖堂のキマイラ達のことに立ち返る約束であった。
 私はシャルル・メリヨンの〈吸血鬼〉という作品に出会った時に、広くは「思索者le penseur」と呼ばれているこの像を初めとする怪物達の像は、古くからそこにあったものだと思っていた。だからそれは中世から近代に至る800~900年もの間、パリの歴史を眺め続けてきたものと思い込んでいたのである。
 しかし実際にはそれらの像は、1850年頃にヴィオレ・ル・デュックによって復元された(と言うよりも再現された)ものであって、メリヨンが〈吸血鬼〉を描いたのが1853年であるから、まだできて間もない頃彼はノートル=ダムの塔に登って、それを描いたということになる。
 そもそもなぜ一般には「思索者」と呼ばれていた像に「吸血鬼vampire」などというタイトルを付けたのか? メリヨンの銅版画をパトグラフィーの視点から読み解いた、気谷誠の『風景画の病跡学』によれば、それはメリヨンがユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』(1831)の女主人公エスメラルダに邪な欲望を抱き、彼女を破滅させてしまう司教補佐クロード・フロロのイメージを仮託しているからであるからという。
 しかし、〈吸血鬼〉には薄汚れた欲望に身を焦がす邪悪なイメージは感じられないし、実物もそんなイメージを持ってはいない。まさに「思索者」という呼称通り、パリの街を見下ろしながら物思いにふける異形の悪魔というイメージなのだ。
 メリヨンが数ある怪物の中からこの像を選んだのも、怪物達の中でこの像だけが獣性から逃れて、精神の領域へと踏み込んでいるからだと思われる。またメリヨンという銅版画家は、もっぱらパリをモチーフとした風景画を描いた人であるが、どの作品を見てもそこにメリヨン自身の精神の投影を感じないわけにはいかない。ピエール・ジャン・ジューヴが『ボードレールの墓』で次のようにいっているその言葉は、まったくその通りだと言わざるを得ない。

「メリヨンはパリである。彼はパリを通して自らの歴史を綴る。」

 ならば「思索者」だけでなく、その背景に広がるパリの眺望も、乱れ飛ぶカラス達もまた、メリヨン自身なのである。この〈吸血鬼〉という作品は深い自省のうちに世界を開示する作品なのである。
 同時代にメリヨンを正しく評価したのは、シャルル・ボードレールただ一人であった。ボードレールはめまぐるしく変貌していくパリの風景を目の前にして、それを単に否定するのではなく、そこに〝近代〟の表れを見てとって、積極的に詩のテーマとした。彼にはメリヨンの仕事がよく分かっていたのである。
 こうしてメリヨンの〈吸血鬼〉は近代の思索者としての姿を現す。同時にモデルとなったデュックの像もまた、多くの怪物達の中でもっとも近代的な精神を体現するものとして生まれ変わるだろう。
 メリヨンもまたゴシック・リヴァイヴァルの潮流の中で生き、かつ描いた人であった。ノートル=ダム大聖堂もよく描いたが、セーヌ川から後陣を眺望した作品を一枚掲げておく。後陣の尖塔が見当たらないところを見ると、デュックによる修復以前の姿を止めようとしたのかも知れない。

シャルル・メリヨン〈ノートル・ダム寺院の後陣〉1854年頃

気谷誠『風景画の病跡学』(1992,平凡社)
ピエール・ジャン・ジューヴ『ボードレールの墓』(1976、せりか書房)道躰章弘訳

(この項おわり)

 

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建築としてのゴシック(14)

2019年01月25日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』⑧
 エッフェル塔が「ゴシック・リヴァイヴァルの一頂点であり精華」だって? そんな見方もあったのか。1889年、第4回パリ万博のために建造され、当時は多くの芸術家たちに忌み嫌われた塔、モーパッサンなどは「私がパリで塔を見ないですむ唯一の場所だから」といって、エッフェル塔のレストランでよく食事をしたというあの塔が、「ゴシック・リヴァイヴァルの一頂点であり精華」とは!
 私が昨年11月にパリを訪れた時、エッフェル塔は私の観光ルートの中には入っていなかった。パリ随一の観光スポットとして多くの観光客が訪れ、塔に登るのに4時間待ちとかいうことを聞いていたし、そもそもエッフェル塔という近代建築の象徴のような建造物に対する興味を持っていなかったのである。
 パリで世話になった友人には、夕刻にエッフェル塔を見るとライトアップされていて綺麗だから、一度見るようにと勧められていたが、私は滞在中ライトアップされたエッフェル塔を遠望することさえしなかった。私もモーパッサンのようにエッフェル塔を見ないですませたい人間であったのだ。
 11月17日に私は、エッフェル塔近くのケ・ブランリー美術館という世界民族博物館を訪れた。ケ・ブランリーの建物が面白いということを聞いていたし、世界中のプリミティヴ・アートを集めた凄いところだとも聞いていたからだ。
 鉄筋コンクリート製のその建物は、カヌーのような細長い舟を巨大化した、その脇腹のいたるところに箱型の展示室が突き出しているといった現代アート的なもので、その奇抜さにすっかり驚いてしまった。外壁に植物を植え込んだ「生きている壁」の建物も十分に独創的だった。


ケ・ブランリーの展示室と生きている壁

しかし本当に驚いたのはその展示内容である。そこに無数の民族資料が展示されている。世界中の装飾品や壺、仮面や狩猟の武器、トーテム・ポールや石像など、写真でも見たことがないものが整理され、解説付きで展示されている。プリミティヴ・アートというよりは世界の民族に関わる全てのものがそこにはあった。
 私は彫刻の人物像にキュビズムの原型のようなものを感じ取ったし、異様に縦に引き延ばされた人形には、ジャコメッティの彫刻の原型を見る思いがした。ルーブルより、オルセーより、ポンピドーよりずっと面白かった。
 ところでケ・ブランリーはエッフェル塔の足下に位置しているのであった。5分も歩けば塔の真下まで行ける。行ってみることにした。エッフェル塔を見上げた時、私はそれが思っていたよりずっと美しくて、上品なたたずまいだったことに驚いたのだった。それまでの先入観は吹っ飛んでしまった。
 今、自分で撮った写真を見ても、脚部のアーチはノートル=ダム大聖堂の扉口を思わせるし、アーチを構成している部分の透かし彫りは、大きさの違いは無視できないにしてもバラ窓の外側に似ている。その上に見える先端の丸くなった長方形はステンドグラスの窓の外部にそっくりだし、第1展望台の四角い窓の連なりはノートル=ダムの王のギャラリーを思わせる。また細かな装飾部分も大聖堂の装飾彫刻にそっくりなのである。


エッフェル塔を見上げる

 ロラン・バルトは『エッフェル塔』で、次のように書いているのであった。

「コクトーはかつて、エッフェル塔を称して、左岸のノートルダム寺院だと言った。実際、パリの大聖堂であるノートルダム寺院は、パリの数多くの記念碑の中でもっとも高い建物ではないにもかかわらず、エッフェル塔とともに、一つの象徴的なカップル(中略)を形成している。エッフェル塔とノートルダム寺院は、過去(中世はいつも、ぶ厚い時間の層を描いている)と現在の対立をこえて、さらには、この世界と同じぐらい古い石と現代性の表徴である金属との対立をこえて結びつけられた象徴である。」

 またしても読まなければならない本が増えていくが、酒井が言っていることがそれほど奇矯なことではないということを、バルトの文章は証し立てている。
 確かにその昇高性と無用性(建造当初は電波塔として使われていたわけでもなく、まったく無用の長物であった)において、エッフェル塔とノートル=ダム大聖堂は共通点を持っている。昇高性については言うまでもないだろう。無用性については、革命によって破壊され荒廃のまま放置されていた大聖堂は過去の遺物であり、無用の長物でもあったということが言える。

 

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建築としてのゴシック(13)

2019年01月24日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』⑦
 ドイツのことはすっ飛ばす。イギリスのこと以上に分からないことばかりだからだ。ただ、酒井が「ドイツのゴシック・リヴァイヴァルは、祖国愛に貫かれた現象、言い換えればドイツの政治的統一を渇望する国民意識に導かれた現象だった」と書いていることだけを紹介しておく。ドイツ・ゴシック・リヴァイヴァルは国民国家としてのドイツの象徴であったわけで、政治的要素が強く、芸術的な精神に欠けるというところか。だから酒井は有名なケルン大聖堂について、それを「死せる石塊」と吐き捨てている。酒井にとっても愉快なテーマではなかったのだ。
 フランスにおけるゴシック・リヴァイヴァルは、イギリスの場合に比べてはるかに分かりやすい。酒井はその源泉を、フランス革命の行き過ぎに対する反動と、革命後も支配的であり続けた古典主義美学への反抗に求めている。
 1789年のフランス革命は、ルイ16世が処刑された1793年頃から恐怖政治の時代へと突入していき、破壊的な非キリスト教運動が展開された。当時大聖堂や修道院は略奪・破壊に晒され、ノートル=ダム大聖堂も多くの彫像や彫刻を失った。ゴシック・リヴァイヴァルはそうした行き過ぎに対する反省としての意味を持っていた。
 フランスは無神論とカトリックの国である。分かりやすさはそこにあって、この二つのものの間の振幅の大きさの範囲に、ゴシック・リヴァイヴァルに関わる事柄が入ってくる。酒井はフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの『キリスト教精髄』を当時のカトリックへの回帰の典型とみているが、まさにゴシック・リヴァイヴァルはカトリック・リヴァイヴァルそのものであった。後のJ・K・ユイスマンスは自然主義文学から神秘主義へと変貌した作家であるが、彼の場合はストレートに、無神論からカトリックへの転向として位置づけられるであろう。
 ヴィクトル・ユゴーは政治的には自由主義の人であったが、フランス革命によって破壊され、その後荒廃にうち捨てられていたノートル=ダム大聖堂の復興を呼び掛けることになる。そこにはカトリックへの帰依の姿勢は見られないが、より近代的な姿勢、歴史的遺産を修復・保存しようという熱意が読み取れる。
 ユゴーはそのために『ノートル=ダム・ド・パリ』を書いたのだと言っていて、その中にはノートル=ダムの歴史を語り、復興の必要性を説いた第3編が含まれる。この件については『ノートル=ダム・ド・パリ』を実際に読むときに考えてみることにしよう。
 何より大切なのはそのような思潮の中で、実際にノートル=ダムの修復がなされたことであり、それを行ったのは建築家ヴィオレ・ル・デュックであった。私が会いに行ったキマイラ達もまた、デュックによって再現されたものである。彼らはまだ生まれてから200年も経っていない新しい彫刻だったのだ。
 馬杉の『パリのノートル・ダム』は、デュックが再現したキマイラ達の原型になった17世紀の素描の図版を掲げている。ガーゴイルもそうだが、それらを見るとあまりにも小さすぎて、おおざっぱな外形しか分からない。だからヴィオレ・ル・デュックは実際にあったものを忠実に再現したわけではなく、自らの想像力によってあの千変万化の怪物像を造り上げたのであった。

小さすぎてよくわからない

 デュックもまたユゴーのような自由主義の人であって、彼の考え方にもカトリックへの回帰の姿勢は見られない。酒井はデュックの自由で柔軟な発想の証として、デュック自身の次のような文章を引用している。

「我々にとって大切なのは、我々の習慣・気候・国民性に対応して、さらには科学と実用的知識の分野で得られた進歩に対応して、建築物を造るということである。」

 このような考え方をデュックは持っていた。ゴシック・リヴァイヴァルとはいっても、そこには懐古的な要素はなく、極めて近代的な発想に貫かれている。フランスにおけるゴシック・リヴァイヴァルはそのような性質を持っていた。その視点からもう一度キマイラ達に立ち戻らなければならないが、その前に一つ、デュックの考え方を引き継いで、見事に実現させたのがエッフェル塔であり、それはフランスにおける「ゴシック・リヴァイヴァルの一頂点であり精華」であると、酒井が言っていることを紹介しておく。

セーヌ川からビル・アケム橋とエッフェル塔を望む

 

 

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建築としてのゴシック(12)

2019年01月23日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』⑥
 少し建築のことから離れるかもしれないが、しばらく私の疑問につき合っていただきたい。
 酒井が紹介しているA・W・N・ピュージンという男が、ゴシック建築に入れ込んだ末にカトリックに改宗したという話は納得できる。ピューリタンの教会にゴシック建築などあり得ないからである。話がフランスのことに先走るが、J・K・ユイスマンスがカトリックへと回心したのも、ゴシック大聖堂の〝象徴の森〟としての存在に感化されたからであり、それが美学的な回心であったことは、その後の作品を読めば確かなことと確認できる。
 ならば、ゴシック・リヴァイヴァルはカトリック・リヴァイヴァルとイコールであったと言えるのかどうか。そこが私にはよく分からない部分なのだ。たとえば建築の話として、ディレッタントとしてのホレース・ウォルポールの場合、さらにはその後継者とも言えるウィリアム・ベックフォードの場合はどうだったのか。
 趣味の嵩じたあげくにウォルポールは、擬似ゴシックのストロベリー・ヒルを建て、ベックフォードも同じくフォントヒル・アベイを建てた。彼らの信仰の形態はどうだったのか。あるいはそれは美学的な偏向に止まるのだろうか。
 また英国国教会、正確にはイングランド国教会の位置づけがよく分からない。もともとはカトリックの教会であり、ピューリタンとは対立しつつも、カトリックとも距離をとってきた国教会のイギリス国内における比重はどうなのか。1829年のカトリック教解放(それまで禁じられてきたカトリックの教会を建てることを許した)というのは、ゴシック・リヴァイヴァルに並行するカトリック・リヴァイヴァルと考えていいのかどうか。
 そこで私はケネス・クラークの『ゴシック・リヴァイヴァル』をもう一度読んでみる必要に迫られる。なんと著者のケネス・クラークもまた、A・W・N・ピュージンと同じように、ゴシック建築の研究に一生を捧げた末に、カトリックに改宗しているというのである。
 以上の問題はだから、クラークの本を再読するまでの課題として保留しておくことになるが、さらに私には分からないことがある。それはゴシック・ロマンスに関係した問題である。
 私は以前、ゴシック・ロマンスがイギリスで生まれたのは、イギリスがピューリタンの国であったからだと言ったことがある。ゴシック小説はカトリック批判の要素を強くもっていることからの判断であったが、ゴシック・リヴァイヴァルがカトリック・リヴァイヴァルと相即であるならば、ゴシック・リヴァイヴァルの申し子であったゴシック・ロマンスがカトリック批判のために書かれたなどということはあり得ないことではないか。
 私の言ったことは大間違いだったのだろうか。ウォルポールとベックフォードはともかく、M・G・ルイスやC・R・マチューリンの小説は、中世のカトリックが民衆の上にふるった強権や道徳上の腐敗を糾弾しているではないか。もともとゴシック・ロマンスは中世に対する憧憬と批判を同時的に持つアンビヴァレントな形式であったが、そのような疑いと憧れはカトリックの支配を脱した国にこそ求められるだろうと思っていたわけだ。事実マチューリンはプロテスタント(アイルランド教会)の牧師であった。
ただし例外的な作品はあった。ジェイムズ・ホッグの『悪の誘惑』がそれである。『悪の誘惑』はルイスやマチューリンの小説とは逆に、ピューリタニズムへの批判に貫かれている。スコットランド生まれのホッグは、当時スコットランドに蔓延していたピューリタンたちの狂信、神に選ばれた者は〝悪〟を行い得ず、神を信じない人間を殺してもそれは〝善行〟と見なされるというような狂信を、徹底的に戯画化し批判の矢を浴びせている。
 そこに読み取れるのはほとんど反宗教的と言ってもいいような心情であり、その意味でもゴシック・リヴァイヴァル=カトリック・リヴァイヴァルという図式に違反している。
 解決すべき課題はしたがって、二つあることになる。一つはルイスやマチューリンのカトリック批判、あるいはホッグのピューリタニズム批判のどちらが例外で、だとしたらそれはゴシック・リヴァイヴァルの中でどのように位置づけられるのかということ。もう一つはゴシック・リヴァイヴァル=カトリック・リヴァイヴァルという図式が間違っているのではないかということだ。
 この二つの問題に答えを出すのは容易なことではないと思っているが、この問題を念頭に置いてこれからもゴシック関連の本を読み、解読を進めていきたいと思っている。

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建築としてのゴシック(11)

2019年01月22日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』⑤
 酒井はエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』に触れて、次のように書いている。

「エドマンド・バークは(1729-97)は、ロックの感覚印象論を継承し、美を快に、崇高さ(the sublime)を不快に結びつけた。この場合の不快とは、無骨さ、暗さ、陰鬱さ等のネガティヴな要素を持った対象に覚える印象のことである。ゴシックの大聖堂がこれらの要素の集大成であることは、すでに本書でも指摘しておいた。」

 バークの『崇高と美の観念の起原』については、私もこの「ゴシック論」ですでに書いた。その時はバークの美学をいわゆるゴシック・ロマンスと関連づけて考察し、ゴシック・ロマンスの通俗性が崇高の美学と矛盾することを指摘しておいた。
 今回初めてゴシック建築に直に触れ、その美しさに魅せられた者として改めて考えてみると、バークの崇高の観念は確かにゴシック大聖堂にそのまま当てはまるものであって、だとすれば、バークの美学がゴシック・リヴァイヴァルに与えた影響について考えなければならないのではないかと思う。
 これまでバークの美学はホレース・ウォルポールを初めとするゴシック・ロマンスへの影響については言われてきたが、ゴシック建築の復興に関連して論じられては来なかったからだ。そのことを私は知りたいと思う。
 また、『崇高と美の観念の起原』は、バークの時代まで未分化であった崇高の観念と美の観念とを截然と分かち、美を快の領域に、崇高を不快の領域に振り分けたとされるが、物事はそれほど単純ではない。
 酒井がゴシック大聖堂に不快の印象を与える崇高さを感得していただけなら、彼がここまでゴシック大聖堂に入れ込む理由がない。誰も不快なものを愛することなどできるわけがないからだ。酒井がゴシック大聖堂の崇高のなかに快の要素を感じ取ったのでなければならない。
 つまりそこには不快が快に変わる転倒の一瞬がある。そうでなければ私はバークの美学を〝崇高の美学〟と呼ぶことができない。バークが美と崇高の観念を振り分けただけならば、美学とは別に〝崇高学〟とでもいうべき領域を別個に立てなければならないが、バークの本はそのように書かれてはいない。
 本来不快なものである〝崇高〟が快に変わるとき、それまで〝美〟とされてきたものだけによって形成されてきた美学に新たな要素が加わるのでなければならない。それはだから近代における美学の転倒の形式なのであって、私がたとえば、パリのノートルダム大聖堂の後陣に張り出したフライング・バットレスのグロテスクな連なりに〝美しさ〟を感じてしまうのは、私もまた近代が体験した美学の転倒の内部に生きているからなのである。
 ここで、エドマンド・バークが崇高の要素として列挙している巨大さ、無際限、曖昧さ、深淵、グロテスクなどの概念を、ゴシック大聖堂に即して点検してみたい気持ちに駆られるが、残念ながらそんなことをしている時間が私にはない。酒井の断言によってそのことは裏付けられていることにしておく。
 それよりも酒井が強調しているゴシック・リヴァイヴァルにおける政治的要素ではなく、バークが示した美学の転倒がゴシック・リヴァイヴァルの本質にあるのではないかという問題を提起するに止めておこう。
 また酒井はイギリス・ゴシック・リヴァイヴァルの金字塔といわれる英国国会議事堂の細部の装飾を担当し、ゴシック・リヴァイヴァルの理論的指導者であったA・W・N・ピュージンという人が、カトリックに改宗してまでゴシックに入れ込み、発狂して早世したという話を紹介しているが、私の知りたいことはそのことに関連している。
 当然ゴシック・リヴァイヴァルはカトリックへの回帰の運動でもあったと思うのだが、ピューリタンの国イギリスにおけるゴシック・リヴァイヴァルとカトリックの関係性はどうなっていたのかという問題である。そのことは建築だけではなく、文学の方にも深く関わってくるので、私にとって大事なことなのである。

 エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(1999、みすずライブラリー)中野好之訳

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建築としてのゴシック(10)

2019年01月21日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』④
 次のテーマは「ゴシックの受難」である。16世紀のイタリア・ルネッサンスとドイツの宗教改革が、いかにしてゴシックを滅ぼしたかという歴史について語っている。この部分かなり駆け足で、早くゴシック・リヴァイヴァルのテーマに移りたい気持ちと、好きでもないルネサンス様式の建築やプロテスタントの教条主義について早く済ませてしまいたいという気持ちが出ていることを感じた。
まずイタリアのルネサンス。酒井はまず、ゴシック熱の冷却ということがあり、それは英仏百年戦争(1337-1453)とペスト禍(1348-50)がもたらしたものだと指摘する。百年戦争の主戦場は北フランスで、農村部の荒廃が都市部の疲弊をもたらした。大聖堂どころではなかったのだ。ペストもまた、フランスの全人口の3分の1を消滅させ、大聖堂建設を困難にさせた。
 一方同じ頃、イタリアのフィレンツェが文化の創造都市として台頭してきた。フィレンツェは商業都市であり、そこでは合理的な美学が発達をみた。フィレンツェ大聖堂は反ゴシック美学の結晶であった。それを支配していたのは、幾何学性と現世主義であり、調和の美学であった。
 宗教改革はドイツのマルティン・ルターによる免罪符批判に始まる。ルターの思想は「信仰のみ」「聖書のみ」という神との直接的な関係を打ち立てようとするものである。それは「ゴシック的な曖昧で豊饒な融合状況への批判」であった。またプロテスタントの理念は合理主義的な精神に支えられており、それは大航海時代における商工業の発達と競争がもたらした禁欲的な生産中心主義の勝利でもあった。
 またルターの独語訳聖書はグーテンベルクの活版印刷術によって普及し、文字の価値を確立させた。中世の民衆は文盲でも大聖堂の図像によって聖書について学ぶことができたが、プロテスタントは文字を至上のものとし、ゴシックの図像を否定した。それが聖画像破壊(イコノクラスム)につながり、宗教戦争とも相まって各地でゴシック大聖堂が破壊されていく。
 以上のような酒井の審美観からすればイタリアのルネサンス様式の建築物は、あまりに合理主義的、調和的であるし、それにつながる古典主義美学もまたあまりにも退屈なものであるだろう。また酒井の宗教観からすれば、ルターに始まる宗教改革のもたらした運動もまた、あまりに合理主義的で、狭隘で、教条的だったのである。だからもし、ゴシック・リヴァイヴァルというものがあるとしたら、そうしたものに対する反動として起きるしかないし、事実そうだったのである。
 さていよいよゴシック・リヴァイヴァルのテーマに入る。酒井はこのテーマをイギリスとドイツ、フランスの場合の3つに分けて紹介している。私はこのテーマについてはケネス・クラークの『ゴシック・リヴァイヴァル』によって、イギリスのケースについて知るのみであった。
 それはイギリスがゴシック小説の発祥の地であったことと深く関係していて、ゴシック・リヴァイヴァルといえばイギリスのことを除外して考えることはけっしてできないからである。そしてそのことは私のこの「ゴシック論」にも関係してくるのである。
 ケネス・クラークの『ゴシック・リヴァイヴァル』は、ピクチャレスクの造園から説き起こし、前史としてのロマン主義文学の影響、そして決定的な一打となったホレース・ウォルポールのストロベリー・ヒルのことを強調する。クラークはゴシック・リヴァイヴァルを先導したのは文学運動であったと考えていて、ウォルポールの果たした役割を最大限に評価している。
 酒井はそれより以前の17世紀に始まる〝ゴシック神話〟について触れている。「ノルマンディー公ウィリアムによるイギリス征服(1066)以前の時代、とくにサクソン人たちの王国の時代」の政治形態を理想視するゴシック神話である。
 イギリスの歴史など何も知らないので、よくは分からないが、ゴシック・リヴァイヴァルが目指したものの根本に、イギリスの場合は政治的な要素が強く絡んでいたということを言いたいのであろう。
 あとはピクチャレスクの造園や、ロマン派の影響、ウォルポールのストロベリー・ヒルなど、クラークの本と大差はないが、クラークが言及していない大事なことに酒井は言及している。
 それはエドマンド・バークの『崇高と美の観念の起原』が展開した美学についてである。

 

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