男女の愛をめぐる世界は心理小説にとっては、恰好のテーマである。ラ・ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』も、バンジャマン・コンスタンの『アドルフ』も、レイモン・ラディゲの二作も、あるいはスタンダールの『赤と黒』でさえ、ほとんど男女の愛情関係だけがテーマだと言っていい。フランスの心理小説はある意味で純血主義を貫いている。
日本の心理小説はどうかといえば、漱石の『明暗』は必ずしもそうではない。テーマが主人公津田と清子のかつての愛情関係に収斂していくとしても、そうではない要素がたくさんある。お金をめぐる問題や夫婦関係、嫁と小姑との関係など、主に家庭をめぐるあらゆる問題が漱石によって厳しく分析に晒される。
大岡昇平の『武蔵野夫人』はどうか。大岡はスタンダリアンであり、主にラディゲの作品の影響で『武蔵野夫人』を書いたから、中心的なテーマは男女の愛情関係に他ならないが、フランスの心理小説のような純血主義によっていない。より社会的なテーマに大岡の分析は向かっているし、第一にこの小説は〝戦後小説〟としての重い意味を負わされていた。
ヘンリー・ジェイムズの場合もフランスの純血主義とは違って、家庭劇ではあっても、男女の愛情関係だけをテーマにすることはない。『ねじの回転』では無垢な(?)子供たちと家庭教師との間の心理の駆け引きが中心となるし、『使者たち』では男女の愛情関係がもたらす人間としての成長ということをめぐって、ストーリーが展開していく。
『鳩の翼』なら、死病を抱えたアメリカ娘の財産が中心としてあって、その周辺に主人公を初めとする三人の人物の思惑が作者の心理分析の対象となる。
『ワシントン・スクエア』はキャサリンとモリスの愛情関係を中心としない。そうではなく、主にキャサリンと父スローパー博士の愛憎関係をめぐって、ヘンリー・ジェイムズは分析装置を働かせていく。あるいはキャサリンとモリスの関係が心理分析の主要な対象なのではなく、キャサリンと父スローパー博士の関係が主要な対象なのであり、それだけではなくこの小説の中で1対1の対決が行われる、そのすべての関係が心理分析の対象となる。
そのことはヘンリー・ジェイムズのすべての作品において顕在化している事実であって、それはジェイムズが人間と人間との間の心理的争闘ということにしか興味がなかった、あるいはそれを通してしか小説を書くことができなかったことを意味しているだろう。
漱石の『明暗』がフランス心理小説の純血主義を採用していないことは明白であって、私は『明暗』がヘンリー・ジェイムズの心理小説の影響のもとに書かれたと信じているが、それがどのようにしてかについて興味がある。
ところで漱石の『明暗』は〝百鬼夜行〟の世界とまで言われたが、心理小説にはいつでも酷薄なイメージがつきまとう。『明暗』には特別に悪魔的な人物が登場するわけではないし(ただし、ドストエフスキーの小説世界から抜け出てきたような小林という人物は例外)、それほど人の道を外れた所業が登場人物によって行われるわけでもない。
なぜ『明暗』が〝百鬼夜行〟の世界といわれるのかといえば、それは作者が登場人物に対して優しい眼差しをもず、酷薄な対応に終始するからなのである。登場人物たちの本性はことごとく剥き出しにされ、本性を剥き出しにされた人物たちは鬼のような形相を帯びて闘いを繰り広げるのである。
『ワシントン・スクエア』におけるヘンリー・ジェイムズの視点も同様であって、作者は六人の登場人物に対して優しさを行使せず、残酷な対応を貫いていく。それはある種のサディズムを孕んでもいて、心理小説というものは作者のサディズム的な心性を背景にもっているのだとも言える。
久しぶりにヘンリー・ジェイムズの長編を読んだ。短編に関しては関西大学出版部から出ている2冊の短編集を最近読んだが、『ねじの回転』以外はあまり読まれなくなったジェイムズの凄さを満喫した。長編は『使者たち』を読んで以来なので3年ぶりくらいかな。
これまでヘンリー・ジェイムズを「ゴシック論」の中で扱ってきたが、この『ワシントン・スクエア』などは比較的初期の作品なので、ゴシック的な要素はほとんどないし、後期の作品のような難解さもない。従って「読書ノート」の扱いとする。
ストーリーはいたって単純である。ニューヨークがまだ大都市ではなかった19世紀前半、功成り名を遂げた医師スローパー博士の娘に、財産目当ての求婚者モリス・タウンゼントが現れる。娘の名はキャサリン。絶世の美人だった亡母とは違ってこの娘の器量は十人並みで、頭の方もそれほどよくはなく、父スローパー博士はこの娘をあまり愛してはいない。
キャサリンはハンサムなモリスに首ったけとなり、結婚の約束までしてしまうが、父はモリスが財産目当ての怠け者だということを見抜き、二人の結婚に断固として反対し続ける。ここに父の妹のペニマン夫人という女が絡んできて、このキャサリンの叔母のバカっぷりがとてもよく描かれている。
登場人物は少ない。キャサリンと父スローパー博士、ペニマン夫人ともう一人の叔母アーモンド夫人、モリスとその姉モンゴメリー夫人の6人程度。この6人の描きわけが凄い。小説家の技量、とりわけ19世紀から20世紀の小説家のそれは登場人物を如何にクリアに描き分けるかによって測られるところがり、やはりその点でもヘンリー・ジェイムズは巨匠と呼ばれなければならない。
この小説で描かれているのは訳者の河島弘美の言うように、許されぬ結婚をしようとする娘に対する父親の心理なのであろうか。それがテーマなのだろうか。ヘンリー・ジェイムズはこのテーマを何かの噂から得たらしいが、家庭劇ともメロドラマとも言うべきそうしたテーマが、ヘンリー・ジェイムズの作品にあってはいつもその精緻を極めた心理分析によって背景に押しやられてしまう。
本当のテーマは登場人物の心理分析にこそあるので、読んでいくうちに他のことはどうでもよくなってしまい、読者はストーリーを追うのではなく、登場人物の心理の深淵に、あるいは登場人物同士の心理の争闘に、緊張感をもって臨むこととなる。
『ワシントン・スクエア』は35の節からなる小説であるが、それぞれの節が登場人物1対1の差し向かいの構図をもっている。集団の場面や複数人の場面もあるが、ほとんどがこの構図に納まるのである。
たとえば4節と7節、10節はモリスとキャサリン、8節と11節はキャサリンとスローパー博士、12節はスローパー博士とモリス、14節はスローパー博士とモンゴメリー夫人、16節はモリスとペニマン夫人、19節はペニマン夫人とスローパー博士……というような組み合わせで心理的駆け引きが続いていく。
この1対1の構図は複数の登場人物を配した心理小説によくみられるもので、夏目漱石の『明暗』もこの構図からはずれるものではない。漱石の登場人物同士の心理的争闘ぶりは、『ワシントン・スクエア』におけるそれよりもはるかに凄まじいものがあるかも知れないが。
夏目漱石はヘンリー・ジェイムズの『黄金の盃』を読んでいて、その頁に「此人ノ文ハ分カルコトヲ分リニクキ言論デカクノヲ目的ニスルナリ」という感想を書きつけていたことが知られているが、私に興味があるのは漱石の『明暗』がどの程度ヘンリー・ジェイムズの影響を受けて書かれているかということである。
『明暗』も家庭劇であり、ヘンリー・ジェイムズもよく家庭劇を書いた。家庭劇は心理小説の舞台としてはおあつらえ向きの条件をもっている。まず登場人物が少なくて済む、1対1の構図をつくりやすいということが挙げられる。また不倫が絡めば男女の愛という極めて複雑で心理的な世界に踏み込むことができる。
本家フランスの心理小説も主要なものは不倫が絡む家庭劇としてしつらえられている。ラ・ファイエット夫人の『クレーヴの奥方』も、レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』も『ドルジェル伯の舞踏会』もそうである。日本でも大岡昇平がラディゲに倣って『武蔵野夫人』を書いた。
ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』(2011、岩波文庫)河島弘美訳