玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(9)

2022年03月13日 | 読書ノート

 つまりエピソードは、不整合が表面化しないうちに、あるいは整合性が問われる前に、重ね書きされていくのだと言ってもよい。『百年の孤独』におけるエピソードの連続は重ね書きされたエピソードの波状攻撃のようなものであり、それによって不整合との批判を逃れていく。
『百年の孤独』に一体いくつのエピソードが書かれているのか数えたことはないが、そこでは波状的な重ね書きが必要とされ、その結果として膨大な量のエピソードが続いていくのである。『裏面』の場合、異変のエピソードは小説の最初から出てくるわけではないから、それほど多くのエピソードが書かれてはいない。しかし、「第3章 地獄」で最も重要なのは、『百年の孤独』の場合と同じように、エピソードの重ね書きであり、波状的生起なのである。
 ここでもう一度思い出してほしいのは、異変のエピソードが多くの幻想物語の場合のように、個人的な幻想体験に留まるのではなくて、共同体全体の集団的幻想体験であるということである。『裏面』と『百年の孤独』の最も重要な共通性はそこにある。
 だから二つの小説に共通するものとして、エピソードの連続だけを指摘して済ますことはできない。まず『裏面』の場合、夢の国パルレはパテラによって人工的に創建された閉鎖空間としての町であり、『百年の孤独』のマコンドも、マルケスが生まれたコロンビアの小村アラカタカをモデルにしている。その村は19世紀末に建設され、バナナブームで一時的に栄えたが、時代の流れの中で衰退していった村なのである。
 二つの町が人工的に建設された閉鎖的な場所であるところも共通している。パルレは西ヨーロッパの建造物を運んできて、中央アジアのあるところに建設された町であり、周囲からは隔絶した地として閉鎖的である。マコンドもまた周囲から疎外された町であり、外からの情報は時たま町を訪れる旅人によってもたらされるだけである。クビーンもマルケスも、そうした閉鎖空間に物語の場を設定し、一つの共同体の発生から滅亡までの年代記を書こうとしたのである。
 それが年代記であるということは、二つの小説とも時間が過去から現在、現在から未来へとリニアーに流れるという結果を生む。ある共同体の盛衰を書こうとしたら、時間が前後したり、輻輳したりすることは避けなければならないことになるからである。だから二つの小説は奇怪なエピソードの波状的生起はあっても、説話の時間的構造は至ってシンプルになるという共通性も持っているのである。
 さて、先回掲載したクビーン自身の挿絵を見ても分かることだが、ペルレの崩壊と没落は完全に戦争のイメージとして描かれている。大寺院の湖への沈降、教会での略奪と修道女の虐殺、アルヒーフの爆破と消滅、市街地での暴動と殺戮、住民たちの集団自殺……といったように血なまぐさい場面が続いていく。
 ここまで読んで私は、これはヨーロッパ崩壊のイメージそのものだということに気付くのである。単にユートピアの変質と没落というのではない。この小説が書かれたのが1909年であり、第一次世界大戦の勃発が1914年である。まさにクビーンはオーストリアにあって、不穏な歴史の動きの中に、世界大戦によるヨーロッパの崩壊を予見したのである。
 なぜ夢の国ペルレの町が、ヨーロッパの建造物を移築し、ヨーロッパからの移民たちを集めて創建されなければならなかったのかが、そこに示されている。夢の国はヨーロッパのイメージを強固に持つことによって、現実のヨーロッパの写し絵となっているのである。


アルフレート・クビーン『裏面』(8)

2022年03月11日 | 読書ノート

 私はマルケスの『百年の孤独』における、超自然的なエピソードの連続は、ラテンアメリカ文学についていわれるマジック・リアリズムの中核的な表現であり、それがマルケスの独創的表現方法であることに何の疑いも持ってはいなかった。それが彼の母親による〝語り〟の方法を取り入れたマルケスの創造によるものであることにも疑いは持っていなかった。
 しかし、『百年の孤独』が書かれた60年も前に、同じような方法で書かれた一人のオーストリア人画家による小説があったのであり、そのことに驚きを感じないでいることはできない。マルケスの『百年の孤独』の方法は、ヨーロッパの文学伝統とはまったく隔絶したものであるとされているが、そんな説がまったくの?であることが、クビーンの『裏面』によって証明されるのである。
 さて、クビーンの「眠り病」のエピソードの後には、動物たちの異常な増殖のエピソードが、そして次には植物の衰退のそれが、そして真の崩壊をイメージさせる建築物の瓦解のエピソードが続く。

「何よりも無気味なのは、動物の蔓延とともにはじまったある謎めいた事態の推移であって、それは、絶えまなく、ますます急速に進み、夢の国の完全な没落の原因になった。――瓦解――それがすべてをとらえた。種々様々の素材でできた建物、多年にわたり集められた物件、この国の支配者がお金をつぎこんだすべてのものが、絶滅の運命に捧げられた。同時に、どこの壁にも亀裂が現われ、木材は腐り、鉄はさびつき、ガラスはくもり、その他さまざまな素材がくずれおちた。髙価な芸術品が、十分な理由もわからずに、なすすべもなく内部からこわれていった。」

 建築物ばかりではなく、食べ物もまた大気中の未知の物質によって腐敗を始め、繊維製品も崩壊し、裸に近い姿となった住民たちの間では放埒な性衝動が開放されていく。そのようにしてペルレは没落へとまっしぐらに進んでいき、最後は殺人・凌辱・暴動といったまさに戦争の状態に至るのである。

クビーン自身の挿絵(没落)


 この畳みかけるようなエピソードの連鎖は、完全に『百年の孤独』の方法と一致している。『裏面』においては一つひとつのエピソードが矛盾しているように見えることもあるし、発生した異変がどのように終息したのか書いてない場合もあり、必ずしも整合性が取れているとは言いがたい面はある。
 しかしそれは、マルケスの場合でも同じことである。不眠症のエピソードに続くのは健忘症のエピソードであるが、ものの名前を忘れないように町の中のあらゆるものに名前を書き記していく、あの忘れがたいエピソードがどのようにして終焉するのかといえば、町にやってきた一人の老人がもたらす薬によってなのである。
 ご都合主義的とも言えるこうしたエピソードの終息やエピソード間の不整合は、『百年の孤独』でも顕著なのであって、それが小説については素人であった、一人の画家が描いた『裏面』という作品の欠陥であったのではない。エピソードの積み重ねは〝語り〟に特有の方法であり、不整合などものともせずに、語りは次から次へとエピソードを繰り出していくのである。
 エピソードの畳み重ねがそれぞれの不整合を覆い隠していく、というよりも、整合性の価値自体を?脱していくのである。語られる者にとってエピソードの整合性などどうでもいいというのが、語りというものの本質であるからだ。子どもの頃、母親や祖母などに即興の物語を聞かされた者にとって、それは自明のことである。

 

 


アルフレート・クビーン『裏面』(7)

2022年03月10日 | 読書ノート

「夢の国の没落」と題された第3部は、ペルレに現れたアメリカ人ハーキュリーズ・ベルがパテラと激しく対立する中で、夢の国が何か不可思議な力によって崩壊していくという内容になっている。私がこの小説を読んで最も驚いたのはこの第3部第3章「地獄」と題された部分に対してであった。
 この章はパテラ崩壊の予兆のいくつかがエピソードとして連続していくところで、その最初のエピソードが「眠り病」である。「眠り病」はハーキュリーズ・ベルがパテラを倒すための行動に打って出ようとする時に、彼自身と彼の周辺の現象として発生する。つまりそれはベルの政治活動を阻害する要因をなすのだが、それだけではなく「眠り病」はパルレの町全体、夢の国全体へと拡がっていく。

「ベルレは、不可抗力の眠り病に冒された。眠り病はアルヒーフで突然起こり、そこから町と国へ広がっていった。誰一人としてその伝染病にはさからえなかった。まだ活力があると自慢にしていた人も、知らぬ間にどこかで病原菌にとりつかれていた。
 眠り病の伝染的な性質は、すぐさま認識されたが、しかしどの医者にも治療手段が見つからなかった。ベルの声明は目的を達しなかった。まだそれを読んでいる最中に、人びとはあくびをしはじめたからである。家にいられる人はすべて、できるかぎり家にいて、街で疫病に襲われないようにした。自分の身を守るにふさわしい場所がみつかると、人びとは従容としてその新しい運命にしたがった。悲しんでなどいなかった。たいていの場合、強い疲労感が最初の徴候だったが、そのあと患者は一種痙攣性のあくびに襲われた。眼に砂がはいったように思い、瞼が重くなり、考えごとがすべてもうろうとしてきて、そのときちょうど立っていた場所でそのままぐったり坐りこんでしまった。 病人は、強い臭気や塩化アンモニウムなどによって時おり眠りから救い出されることもあったが、わけのわからない二三の言 
葉を舌足らずに口ごもるだけで、ふたたび気を失っていった。」

 この一節を読んで、G・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』における伝染性不眠症のエピソードを思い出さない者はいないだろう。『百年の孤独』はエピソードに続くエピソードが展開する、エピソードの無限連鎖から成り立っているが、不眠症のエピソードは最初の集団的異変であって、このエピソードによって『百年の孤独』はスタートするのだと言ってもいいくらい重要な場面である。引用してみよう。

「実際に、みんなが不眠症にかかっていた。ウルスラはさまざまな草や木の薬効を母から教えられていたので、鳥兜の飲み物をみんなに与えたが、眠れるどころか、一日じゅう目をさましたまま夢を見つづけた。そのような幻覚にみちた覚醒状態のなかで、みんなは自分自身の夢にあらわれる幻を見ていただけではない。ある者は、他人の夢にあらわれる幻まで見ていた。まるで家のなかが客であふれているような感じだった。台所の片隅におかれた揺り椅子に腰かけたレベーカは、白麻の服を着て、ワイシャツのカラーを金のボタンできちんと留めた、自分にそっくりな男から薔薇の花束をささげられる夢をみた。男のそばには白魚のような指をした女がいて、花束から墓を一輪ぬいてレベーカの髪に挿してくれた。ウルスラはその男女がレベーカの両親にちがいないと考えたが、しかしいくら思い出そうとしても、一 度も会ったことがないという確信を深めたたけだった。」

 クビーンのもマルケスのも長めの引用としたのは、その内容だけではなく、語り口までよく似ていることを理解してほしいからである。もちろん「眠り病」と「不眠症」は正反対の異変であるが、どちらも伝染性であり(『百年の孤独』では口から感染することになっている)、集団的現象あるいは集団的幻想であることの共通性こそが重要なのである。

・ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(2006、新潮社)鼓直訳

 


アルフレート・クビーン『裏面』(6)

2022年03月08日 | 読書ノート

 さらに付け加えるならば、ホフマンの幻想表現も、クビーンの幻想表現も極めて絵画的で、それが鮮明なイメージを結ばせるという点で共通している。グリューネヴァルトの《聖アントニウスの誘惑》では、鳥に棍棒を持った人間の腕を接合したり、ナマズのような顔の動物に人間の体を合体させたりしているのだが、イメージは現実の存在物とまったく同じレベルで現前している。絵画にはそのようなことが可能なのである。
 ホフマンの幻想表現もまた、グリューネヴァルトの絵画と同じように、人間の顔と鴉の体の接合、蟻と人間の脚の接合、あるいは毛虫と羽との接合が直接に絵画的イメージを喚起させる。言葉もまた現実の存在物と同じように、想像物を現前させることができるのだ。ホフマンの幻想描写が、他の作家のそれを大きく凌駕しているのはそのためだと言うことができる。
 あるいはまた、そうした幻想的なもののイメージを現前させることができるのは、言葉と絵画だけだと言うことも可能だろう。それは幻想というものが主に視覚的なイメージに支えられることが多いことから来ていると思われる。幻聴のようなものももちろんあるが、それは絵画によって表現できないし、言語によっても表現することが難しいものである。
 そんな意味でクビーンのペテラの顔の百面相もまた絵画的で、現実の存在物と同じように現前するイメージを獲得している。そして、クビーンの描写の中に実は、幻想というものが生まれる場所が示されているのである。
 先日の引用をもう一度読めば分かるのだが、パテラの顔の変貌は、最初は比喩としての表現に始まって、徐々に比喩的な要素をなくしていって、最後は比喩が比喩対象にすり替わるという過程を経ている。それはパテラの顔が最初は人間の相貌であったのに、徐々に人間の顔の特徴を失って、動物化していく過程そのものである。
〝ような〟という直喩の指標が減じていく流れがそこにはあって、それはつまり直喩が隠喩に転換していく過程なのである。「カメレオンのように」とあるのは、人間の顔がカメレオンに似ていくということではなくて、カメレオンがその体皮を千変万化させるように、人間の顔が変わっていくということである。
 さらに「七面鳥のような贅肉」というのも、パテラの顔が七面鳥の顔と化すのではなく、顔に七面鳥の肉垂のような爛れた肉が付くというだけのことである。そして「次に現れたのは動物たちの顔だった」という一文以降、直喩は指標を欠落させて隠喩に、いや隠喩ですらなく比喩対象そのものを失っていくのである。もう一度最後の所を引用する。

「一頭のライオンの顔貌、それがやがてジャッカルのようにとがって狡猾な顔つきになり――それが鼻孔をふくらませた野生の雄馬に変り――鳥類になったかと思うと――次には蛇のようなものに変った。」

「蛇のようなもの」という表現にまだ直喩の指標が残っているではないか、といわれるかも知れないがそうではない。ここは「蛇」でもかまわないが、「蛇のようなもの」とすることで、蛇に似ているがそうではない得体の知れないものを示し、幻想性を高めているのである。すでに人間の相貌は失われている。
 以上がクビーンの一節から読み取ることができる、幻想というものが生み出されていく言語的な構造である。比喩表現がその対象を駆逐して、比喩そのものが対象に成り代わるのである。直喩が隠喩と化していく過程、あるいは直喩が隠喩を経て、比喩表現そのものを失っていく過程こそが幻想が生まれ出る場所なのだと言うことができる。

 


アルフレート・クビーン『裏面』(5)

2022年03月07日 | 読書ノート

 クビーンの方は顔が次々に変貌していくのに対し、ホフマンの方では次から次へと奇態な悪鬼どもが姿を現すという違いはある。しかし私が指摘したいのは、想像力の働かせ方の共通性である。クビーンの引用からは「カメレオン」と「七面鳥」を拾うことができ、ホフマンの引用からは「蟋蟀」「鳥」「蜥蜴」「毛虫」「蟻」「馬」「梟」を拾い上げることができる。
 クビーンの先の引用に続く以下の場面でも、多くの動物の面貌がパテラの顔に現れてくることが読み取れるだろう。

「次に現われたのは動物たちの顔だった――一頭のライオンの顔貌、それがやがてジャッカルのようにとがって狡猾な顔つきになり――それが鼻孔をふくらませた野生の雄馬に変り――鳥類になったかと思うと――次には蛇のようなものに変った。それは見るも恐ろしい眺めだったが、私は叫び声をあげようにも、あげることができなかった。いまわしい顔、血みどろになった顔、わんぱくで臆病な顔などを、私はつぎつぎに見なければならなかった。」

 怪異なもの、面妖なもの、グロテスクなものを、動物の顔や姿形になぞらえるという共通性を、明らかに読み取ることができるのである。それだけではなく、もう一つの共通性として恐ろしさの中に、ある種の滑稽さが含まれていることも指摘しておきたい。クビーンの場合も言ってみれば百面相のようなおかしさがあるし、特にホフマンの引用部分には人間の体と動物の体の接合が描かれており、独特な滑稽さがある。
 ここで思い出すのが、15~16世紀のドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画に描かれた《聖アントニウスの誘惑》である。この作品の中では豚や魚、鳥などと人間の体との接合が描かれているし、そこには恐ろしいだけではなくて、幾分かの滑稽さが含まれていることを否定することは出来ない。
 おそらく、二人の奇抜な想像力の源泉にはグリューネヴァルトのこの作品があると思われる。特にクビーンの本業は画家であり、『裏面』の中でパルレの建物の装飾品としての絵画の作者として、ブリューゲルやレンブラントと共に、グリューネヴァルトの名前が挙げられているのである。

グリューネヴァルト《聖アントニウスの誘惑》

また、ホフマンのクビーンへの直接的な影響も明らかである。『裏面』刊行の後のことではあるが、クビーンはポー、ネルヴァル、ドストエフスキー、ホフマンなど、自分の好きな作家の小説に挿画を描くことに専念したことが、解説に記されている。ホフマンはクビーンの愛読作家だったのである。

 


アルフレート・クビーン『裏面』(4)

2022年03月06日 | 読書ノート

「第4章 魔力のとりこ」から、「ある幻想的な物語り」とのサブタイトルを持つ、この作品特有の怪異な現象が始まっていく。最初の怪異は妻が街中でパテラと遭遇する場面になっている。妻はパテラの恐ろしい目に恐怖を感じ、不安状態から抜け出せなくなり、心身の不調に責めさいなまれることになる。結局これが要因となって妻は死に至るのであり、この場面は重要である。ここからこの物語の登場人物たちは何ものかの「魔力のとりこ」になっていくのだからである。
 絶望のあまり彷徨する「私」は、知らず知らずにパテラがいるであろう宮殿の前に佇んでいる。そこに入っていき、無数の部屋を通り抜けて、行き止まりの大きな部屋に達した「私」は、そこに眠ったまま笑い、しゃべり続けるパテラの姿を発見する。ここでパテラと「私」の妻の救いをめぐるやりとりがあるのだが、そこには後ほど触れることにする。まずはクビーンの幻想の描き方を見てほしい。
 パテラはいきなり立ちあがって「私」の前で、次々とその顔を変貌させていく。

「それから私は、ある名状しがたい光景を目撃することになった。――眼がふたたびとじられると、思わずぞっとするような、恐ろしい生命がこの顔にのりうつってきた。顔の表情がカメレオンのように――たえまなく――千通りにも、いや十万通りにも変化していった。電光石火のはやさで、この顔貌はつぎつぎと、若者に――女に――子供に――老人に、似たものになった。それはふとったりやせたりし、七面鳥のような贅肉がついたかと思うと、ちぢみあがってほんのちっぽけなものになったし、――次の瞬間には元気にはちきれんばかりに、ふくれ、のびひろがって、嘲笑や、善意や、嗜虐や、憎悪の表情をうかべ――、皺だらけになったかと見ると、ふたたび石のようになめらかになった――それはまるで解き明かしがたい天然の不可思議のようで――、私は眼をそらすことができなかった。ある魔法の力がまるでねじでしめつけるように私をつかまえ、恐怖が私の全身をひたした。」

 私はこのような恐るべき幻想描写を、E・T・A・ホフマンの作品以外で読んだことがない。世の中に幻想小説は数限りなくあるが、想像力を全開にして〝これでもか〟という具合に、怪異の極みともいうべき場面を連続させていく、ホフマンの描写に比肩できる作家などいるはずがないと思っていたのだ。このことが『裏面』を読んでの私の第二の驚きなのだった。
 では、ホフマンの『悪魔の霊酒』における幻想的場面の頂点を読んでみよう。これも長い引用になるが、是非味わってもらわねばならない。

「わたしが祈りをあげようとしたそのとき、感覚を惑わせるような囁きやざわめきが聞こえた。むかし出会ったことのある人間たちが、醜く歪んで気違いじみた顰め面を見せながら、立ち現われた。――どれもこれも、頭だけの姿で、その耳のすぐわきから生え出た蟋蟀の脚であたりを這いずりまわり、わたしのほうをむいては陰険な目つきで笑うのであった。奇妙な形の鳥たち――人間の顔をもつ鴉たちが空中で騒いでいた。――B市の楽士長とその妹の姿も現われ、この妹のほうは荒っぽいワルツのリズムでくるくる旋回していて、兄がその伴奏を担当していたが、胸がヴァィオリンになってしまっていて、それを弾いているのであった。――ベルカンポが、醜い蜥蝎の顔で現われ、吐き気をもよおしそうな羽の生えた毛虫の翼に乗って、こちらにつっかかるように飛んできたが、わたしの髯を剃るつもりらしく、手に白熱した鉄の櫛をかざしていた――が、そうはうまく剃れるはずもなかった。
 騒ぎはますます気違いじみていき、さまざまな姿の化け物たちは、いっそう奇っ怪で奇抜な形に化け、人間の脚をして踊りまくる小さな小さな蟻から、ぎらぎら光る目をもつ長い長い胴体の馬の骸骨まで、それはさまざま。この馬の骸骨の皮はそれがそのまま鞍敷そのものになっていて、光を放つ梟の頭をした騎士が乗って跨っている。」

 


アルフレート・クビーン『裏面』(3)

2022年03月05日 | 読書ノート

「私」はパテラに対する拝謁許可証をもらうために、アルヒーフ(役所)へ行ってそこで眠っている男を起こし、彼に訊ねようとするが、返ってくる返事は次のようなものである。

「拝謁許可証を受けるのには、あなたの出生証明書、洗礼証明書、結婚証明書のほかに、父親の卒業証明書と母親の種痘証明書が必要です。廊下の左手にある十六号の事務室で、あなたの財産、学歴、所有する勲位の申告をなさってください。岳父の素行証明書もあれば結構なのですが、しかしどうしても必要だというわけではありません」

 名前を名乗ると彼はとたんに慇懃な態度を取るようになり、「私」は閣下と呼ばれる男の所に案内されるが、この閣下は拝謁許可証交付を約束しながらも、意味不明の演説をぶちかますのみで、まったく要領を得ない。しかも後日許可証が交付されたにも拘わらず、「私」は「翌日にはそれが無効だという通知」を受けることになるのだった。
 役人の対応といい、ほとんど冗談と紙一重の条件といい、この不条理な世界はまったくフランツ・カフカの世界そのものである。カフカの『城』が書かれた年が1922年(マックス・ブロートによる出版は1926年)であることを考えると、カフカの作品にはクビーンのこの作品からの直接的な影響が認められるのである。クビーンもカフカと同じチェコの出身であり、先輩として彼との交流もあったというから、確実なところだ。
 私が第一に驚いたのは、このカフカとの相似ということについてだった。カフカの『審判』や『城』に描かれた不条理な世界が、カフカ以前に一人の画家によって小説として書かれていたことが、驚くべきことでないわけがない。私はなぜこの作品をもっと早くに読んでおかなかったのかと、慚愧の思いに駆られてしまうのだった。
 私はカフカの世界はまず第一に、夢の世界に通底しているのだと思っている。『城』でKが城へ行こうといくら努力しても、役人たちの不合理な扱いによって阻まれてしまうというストーリーは、我々が夢の中でする体験によく似ている。ある場所に行きたいと思い、そこに到達しようとする努力をいくら繰り返しても、その努力がさまざまな阻害条件によってことごとく挫かれてしまう。しかもその条件というのが、どう考えても道理に沿ったものではないというのが、夢の中で起きることの大きな特徴である。
 カフカの描く不条理な世界を、現実の官僚機構のアレゴリーとして読む人もいるが、私にとってはそれは何よりも〝願望充足への希求とその阻害〟として現れる、夢の性格を帯びている。だからこそカフカの作品には衝迫力があり、リアリティがあるのである。
 夢は快感原則に支配されるとフロイトはいうが、私にはそんなことは信じられない。夢の中でのどこかへ行きたいとか、何かを食べたいとかいった願望充足への欲求は、必ず阻害される。少なくとも私にとっての夢はそうであり、そうでなく必ず夢の中では願望が充足されるという例を私は聞いたことがない。
 夢は快感原則に対して現実が介入してくる場なのであって、単純に快感原則に支配される世界ではない。欲望を禁じるものが超自我だとすれば、超自我とは快感原則を阻害する現実意識である。夢の中でも現実は生きているのである。
 ジェラール・ド・ネルヴァルは『オーレリア』の冒頭で「夢は第二の生である」Le Rêve est une seconde vie.といっているが、ネルヴァルがいった意味とは違った意味でも、夢は第二の生であり、第二の現実なのである。現実の生もまた欲望充足とそれを阻害する現実との闘争の場であるならば、夢もまた同じ場所に位置を占めるだろうからである。
 カフカの小説のリアリティはそうした事実に根ざしているし、私はカフカをそういう風に読んできた。さらに私はクビーンに関してもそのような読みを強いられることだろう。

 

 


アルフレート・クビーン『裏面』(2)

2022年03月04日 | 読書ノート

「第2章 パテラの創造」では、夢の国の相対的なイメージと生活の諸相が描かれる。まず、中部ヨーロッパとの決定的な違いについては、次のように説明されている。

「全体として大ざっぱに言えば、ここでの状況は中部ヨーロッパのそれと似たりよったりだったが、しかしそこにはまた非常な違いもあったのだ! たしかに、町が一つあり、いくつかの村と、大きな領土と、川と湖が一つづつ、あった。しかしそのうえにひろがっている大空は、永遠にどんよりと曇っていた。けっして太陽の輝くことはなく、けっして月や星が夜、眼に見えることもなかった。永遠に変ることなく、雲が深く地上にまでたれこめていた。それが嵐のときに密雲となることはあっても、青い天空は私たちすべてのものの眼に閉ざされていた。」

 昼に太陽が輝きを見せることはなく、夜に月や星が光を放つこともない世界、それは気象学的に「広大な沼地や森林」によって、いつでも霧が発生するためだとされている。これがパルレの基本的なイメージであって、ここでもすでにディストピア的な世界が姿を見せている。
 しかし、ユートピアがディストピアに変じていくのはまだ先の話であって、「私」は当初、この夢の国に親和性を感じていた。それは金銭的な慣習にも関わることでもあった。

「あるとき数百グルデンのお金を懐にしているかと思えば、次にはまた無一文になっていた。結局は、お金がなくても結構うまくやってゆけるのだった。ただ誰でもが、まるでなにかを渡そうとしている、というようなふりをしなければならなかった。時と場合によっては、どんなに余分な金をわたしても釣銭を受けとらない、といったような危険をおかすことさえもできた。しかし結果はいつでも同じことなのだった。
 ここでは空想がそのまま現実だった。そのさい不思議なのはただ、どうしてそのような空想が数人の頭に同時に浮かんでくるのか、ということだった。人びとはおたがいに、話をしながら、いやおうなしに暗示にかかっていったのである。」

「お金がなくても結構うまくやっていける」世界は、それだけでもユートピア的な要素を含んでいるが、この作品が書かれた1909年ということを考えれば、それが社会主義や共産主義の理想的な側面を示していることは明白だろう。そんな意味で「私」の前に徐々に姿を現してくるペルレはユートピア的な要素で「私」を魅了していく。
「私」はまだペルレに期待を抱いていて、友人に「ここへ来て暮らすように」という手紙を書いているが、そこでは町の中央広場に立つ灰色の時計塔の魔力のせいだということが、暗示されている。そしてこの魔力を持った時計塔がこの先重要な存在となっていくのである。
「私」は雑誌の素描画家としての仕事に励みながら、「友人であるパテラを訪問しようという無駄な試み」にのめり込んでいく。それが「無駄な試み」であるのは、「私」がパテラに会おうとすると、必ず邪魔が入ってくるからである。ここからこの小説はフランツ・カフカ的な世界に突入していく。

「それにはあいにく、ありとあらゆる邪魔がはいりこんできた。一度は、首領はあまりにもたくさん仕事をかかえこんでいるので、誰にも謁見は許されない、ということだった。別の時には、彼は旅に出ていた。まるでいまいましい妖怪が邪魔だてをしてでもいるかのようだった。そのとき私は、アルヒーフへいけば拝謁許可証を出してもらえる、ということを聞きこんだ。」

 

 

 


アルフレート・クビーン『裏面』(1)

2022年03月03日 | 読書ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(1)

 文学と美術のライブラリー「游文舎」が、3月21日から27日に予定している「大古書市」のための図書整理をしていた時、1960年から1970年代に刊行された河出書房新社の「モダン・クラシックス」のシリーズがかなりあることに気が付いた。
 そのラインアップを見ると当時全盛を極めていたフランスのヌーボー・ロマンの作家の作品を中心に、イギリス、アメリカ、ロシア(ソ連)、ドイツ語圏などのかなり珍しい作品を集めた意欲的な企画であったことが分かる。その後かなりの作品が文庫になったり、他の出版社から再刊されたりしているが、中にはこのシリーズでしか読めない貴重な作品もある。
 私はイギリスの作家ロレンス・ダレルの「アレクサンドリア・カルテット」四部作『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーブ』『クレア』を所持しているが、あの退屈でやたらと長い小説を読み通したのであった。数十年前のことなので、苦労して読んだ割にはほとんど記憶に残っていない。
 中にアルフレート・クビーンの『裏面――ある幻想的な物語』があったので、読んでみることにした。幻想小説を好んで読む私だが、この作品はなぜか未読であった。読み終わった時、なぜもっと早く読んでおかなかったのかと、猛省を強いられることになる。
 小説は「私」というクビーン自身に近いと思われる画家兼イラストレーターが、昔の同級生クラウス・パテラに、彼が莫大な私財を投じて造った夢の国(パルレ=真珠の意)に招待される場面から始まる。この出だしからこの小説がある種のユートピア小説であることが予想される。しかし多分そのユートピアはすぐにディストピアに変貌していくだろう、というのが先入観なしに読み始めた時の印象である。
 妻と一緒にパテラに招待された「私」は、住んでいるミュンヘンを離れ、ブタペスト―ベルグラード―ブカレスト―コンスタンツァ―バツーミ―クラスノヴォドスク―メルク―ポカラ―サマルカンドへと旅を続ける。現在の国名で言えば、ハンガリー―セルビア―ルーマニアー―ジョージア(グルジア)―ロシア―トルクメニスタン―ネパール―ウズベキスタンへと鉄道を利用して進んでいくことになる。
 サマルカンドからはラクダの車で、ペルレの門に向かう。門をくぐる時、妻が「もう二度とここからは出られないのね」と呟く場面が印象に残る。門からは列車で3時間を費やしてペルレの市街地に到着する。
 ペルレの位置はかなり重要な意味を持っているだろう。中央ヨーロッパから東ヨーロッパを経てひたすら東へ、「私」と妻はヨーロッパの文明圏を離れて、中央アジアに至るのである。ここにクラウス・パテラが建設した夢の国が位置しているというわけだ。
 この地勢的条件もまた、ユートピア小説の定石に従っていると言えるだろう。ユートピアは我々の住んでいる国からできるだけ遠いところになければならないし、日常的な常識が通用しないところでなければならない。そうでなければユートピアとは言えないからである。
 しかし、到着早々二人は自分たちが住むことになる家に案内されて、大いに幻滅を味わうことになる。

「これが夢の国の都、ペルレの町っていうわけか?」 ? ? 私は憤懣をうまくかくしておくことができなかった。「こんなものなら、ぼくたちのところのどんな薄汚い町でだって見られるじゃないか!」と、私は不快と幻滅のあまり、そう言って、一軒の退屈な建物を指さした。

 夢の国には西ヨーロッパでは見慣れない文化に触れることができると思っていたのに、彼らが見たものは自分たちが今まで住んでいたのと同じような建物であり、内部を飾る絵画作品であったのである。実は夢の国は西ヨーロッパから大量の古い建築物や装飾品を買い付けて、パテラが造り上げたものだったのである。こうしてユートピアは矛盾をかいま見せて、ディストピアに変貌していく予感を漂わせていくのである。

・アルフレート・クビーン『裏面――ある幻想的物語』(1971、河出書房新社「モダン・クラシックス」)吉村博次・土肥美夫訳

 


コルム・トビーン『巨匠』(3)

2022年01月30日 | 読書ノート

 生涯結婚することのなかったヘンリー・ジェイムズは性的不能者であったとか、同性愛者であったとか言われているが、私は伝記を読んでいないので詳しいことは分からない。トビーンが挙げているレオン・エデル著の5巻本の伝記があるそうだが、そんなものを読む気はしない。
 ジェイムズの自伝も3巻本が翻訳されていて、私はそのうち1巻だけは読んだが、それを読むことで何も得るものはなかったというのが正直なところである。だから2巻と3巻は手つかずの儘になっている。私には作家がどのような人生を送ったか、などということにはほとんど興味が持てない。私に興味があるのは、その作家が作品を通して何を実現したかということであって、それ以外ではない。
 トビーンの興味は私とはまったく違っている。彼の興味はジェイムズが作品の裏に何を隠したかというところにあるようで、「日本語版に寄せて」で次のように書いている。

「ジェイムズの小説の最高傑作である『ある婦人の肖像』、『大使たち』、『鳩の翼』、『黄金の盃』には、性の秘密であることが多いのだが、暴露されたらそれこそ衝撃的であろう秘密が隠されている。これが筋だけでなく、秘密を隠す人物、それもエネルギーに満ちて巧みに隠す人物と、あるいは、ほとんど明らかなことに気付かない無垢な人物とを活気づけるものだ。」

 この文章の前段と後段の間にはトビーンの誤解による矛盾がある。ジェイムズ自身が作品において隠したものと、彼の登場人物が隠したものとの間には、層の違いがあるのであって、それを同一の位相で語ることはできない。彼の登場人物たちはお互いに、あるときは隠し、ある時は探るというように、相互に決して融和的であることがない。それがジェイムズの小説の特徴というだけではなくて、おそらく心理小説といわれるものの特徴なのだ。心理小説はもっぱら恋愛を描きながら、〝愛の不可能〟をこそ語るものだからだ。
 ジェイムズの隠された性の問題を言うのなら、そのことで充分ではないか。彼は〝愛の不可能性〟のもとで生きかつ書いたのであって、登場人物たちが彼らの秘密を隠すようにジェイムズが彼の秘密を隠したなどというのは、間違った考え方である。別に彼の秘密は作品の中で隠されてはいない。『ある貴婦人の肖像』のイザベル・アーチャーやラルフ・タッチエットも、『大使たち』のランバート・ストレザーも、『鳩の翼』のマートン・デンシャーも、『金色の盃』のアメリーゴ伯爵も、そうした生き方をするのであって、何も隠されてなどいない。
 性的不能や同性愛的嗜好が隠されているとトビーンは言うのかも知れないが、トム・ハモンドやヘンドリック・アンデルセンを登場させて、ジェイムズの性的な嗜好を描いたところで、それで」一体何が文学的に付け加えられるというのだろうか。そんなものに私は興味はない。
 この小説で重要な位置を占めるコンスタンス・フェニモア・ウールスンとの交際についてもそうである。年譜によれば、1887年からジェイムズと彼女との付きあいが始まり、1894年に彼女がヴェネツィア自殺したという経緯がある。年譜には「交わる」と書いてあるが、何もそれが性的交渉を意味しているとは限らない。
 彼女がジェイムズの冷淡さ故に自殺したという説をトビーンは採っているが、確かなことは誰にも分からない。だからトビーンも具体的なことは何も書いていないが、そこにジェイムズの不能が関係していたとしても、それもまた重要なこととは思えない。
 そう一つ致命的な欠陥が『巨匠』という小説にはある。それは1895年から1899年までの5年間に絞って書くと言い、そこに後期3部作に結実する重要な要素があると言っておきながら、小説のほとんどがそれ以前の時期への回想的な内容になっているところである。病気で夭折した妹との関係についてもそうだし、相思相愛の関係にあった従妹のミニー・テンプルとの関係についてもそうだ。大事なコンスタンスとの関係についてもそれは過ぎ去った事件に過ぎない。ヘンドリックとの同性愛と兄のウィリアムとの交流以外は、すべて過去のこととして語られているのだ。だからそこに後期3部作に結実する重要なモチーフを読み取ることが私にはできないのだ。
 私はこれからジェイムズを読んでいこうとする人に、この小説を薦めない。それは私がジェイムズのあの観念的な作品『聖なる泉』を薦めないのと同じ理由からである。つまりそれらの本を読むと、ジェイムズという人間が嫌いになってしまうであろうし、それが大きな損失であると私には思われるからである。
(この項おわり)