今日はシリーズ二回目ですから②動物には感じられない世界について書きます。
動物はこの世界をどのように眺めているのか?昆虫は?小さい頃からの疑問でした。
もちろん目の無い生物だって存在します。夜活動する生物だっています。
科学的な分析の分野で様々な研究がなされていますが、それらはすべて人間の生活に利用できる研究であり、この世界の理を探求する研究ではけっしてありません。
もしも、理がある程度探求されたとしても、それは、企業間や国家間の競争や民族間の優越に利用されるだけであり、宇宙の理が求めている本来の流れに反している事はいうまでもありません。
ここにも、「人間のみが宇宙の理に反した行動ができる唯一の存在である」ことの一つの証ではないでしょうか。
さて、そんな言葉遊びは置いといて、僕が書きたいのは動物が美しさを感じるか?という事なのです。
どうやら、答えは「ノー」のようです。彼らには、そのような意識は存在しないようです。
ただ、もっと大きな何かおそらくは「理」を感じ取ってそれに元づいて行動しているのではと推測されます。
美しく色図いている紅葉も彼らにとっては、死?あるいは機能停止、あるいは一つの区切り?あるいは、消えて行く何か?を感じ取っているのかもしれません。そして、ある種は豊富な食べ物を目指して移動をし、あるものは次の世代に種を繋ぐ行動に移るのです。
では、人間はどうでしょうか? 紅葉に美しさを求めます。またはかなさを感じる方も見おられるでしょう。でも、最も多くの方が感じるのは美しさではないでしょうか。
この美しさを感じられる事。これが、人間が人間である大切な事だと考えます。
そこに、もっともっとより美しい自然とか、だれも行った事の無い場所へ行きたいとか、それは個人の欲、つまり、利なんですよ。その瞬間に、人間が人間でなくなる・・・。
ありふれた風景。ありふれた自然の中に美しく輝いている存在がおられる。それを感じる事。それが、理だと私は考えます。
そして、また、それを楽しめる事。実は「人として生まれたなら、その事の理を楽しむ。それもまた理」だと翻訳できたのです。
しかし、「この事の理を楽しむ」という意味合いの解釈がとてつもなく奥深いのです。
そしてまた厳しい・・・。ですから、私はいつも樹一本、草一つを切るのも本来は畏れ多いと書いているのです。
自然界はそのままで完成しているのです。自分が自分の立ち居地で眺められる範囲などしれています。少なくとも、そこはそのままで完成しているのです。
その環境を自分が受け入れられないならば静かに立ち去る。また、自分が受け入れられなければこれまた同じ、静かに立ち去る。それで、別段問題は無いのです。
でも、自然界は優しいと思います。譲れるところは譲ってくださいますからね。そうして人間は長い時間をかけて自然界と共生を図って来たのです。
力ある者は、その力の使い方を誤れば一瞬でこの世界は消える。力が無い私でも、細い木の枝や草位はむしりとる事が出来ます。自然は私に文句もクレームも言いません。
相手が何も言って来ないからと、何をしても自由なんだと履き違えている多くの人々・・・。
そんな人が増えれば、自然界は自然に動くのです。これが、自然の理です。
その行為は、唯一自然界の理を感じる事の出来ない存在だからこそ許され、また逆も真なのです。(樹を切るときに痛いから止めて!と聞こえたら普通は切れないでしょう?)
宇宙の理は人間に宇宙の理を顕現する力と同じ力を与えました。それは自然界に干渉する力です。それと同時にその行いを監視する存在もおつくりになられました。
以前にも書きましたが、すでに地球もこの空間もすべて把握されています。信じがたいでしょうけどね・・・おっと妄想だから信じる事は無いのですがね。
人間が人間である間は、わかりません。遮蔽されていますからね。でも、人間というとても柔らかなアバター的存在を抜け出た後は、理の世界に帰る事になる。その時は遮蔽してくれる存在は無いのです。
そして、時間も存在しない。 このあたりの事に気が付くとほんとうに何も出来ないのです。 勇気が無いとかそんな話ではありません。
色々わけのわからない戯言を書きましたけど、一番言いたいのは、人間は様々な力を与えられているが、その責任も同じくらい重いという事です。
普通の人が普通に出来る仕事が無くなり、仕事の為の仕事を作る必要が生まれてきた現代社会です・・・。
実はね、友人がインコを飼っているんですね。そのインコが、たまたま怪我をして、何とかしてあげようとしたのですが、絶対に触らせてくれないのです。友人はあたふたしてましたけどね・・・。それで、インコはちゃんと本能で動くのです。大量に人口孵化させられたペット用のインコですよ。怪我をした足から血が出ていて、それがお腹の辺りに着いていましたけどね・・・それを綺麗に毛づくろいしてなめとりましたよ。
自然界では、怪我をした事が他の生物に知れたら即アウトです。じっとしてインコの力で治していましたね。その日の夕方にはいつもの元気なインコに戻っていました・・・。
それでね~また不思議な事にそのインコは絶対に自分からは水浴びをしないんです。
でも、その子が水浴びを自分から始めたのですよ・・・わかります?
これが、自然の理なんですよね~。知っているんですよちゃんとね・・・。
またいつもながらのヤンチャ君に戻ってしまったのですけどね~。
まだこの分野は研究中(妄想中)です。固体によって物凄く個性の違いがありますからね。
今の所は、紅葉を見て綺麗だな~と感じるのは人間の証って事で・・・。ですから常に人として恥じない行動を美しい自然の中では目指したいものですね。
実は、美しい自然の中ってとてつもなく広い意味なんですよ。
動物はこの世界をどのように眺めているのか?昆虫は?小さい頃からの疑問でした。
もちろん目の無い生物だって存在します。夜活動する生物だっています。
科学的な分析の分野で様々な研究がなされていますが、それらはすべて人間の生活に利用できる研究であり、この世界の理を探求する研究ではけっしてありません。
もしも、理がある程度探求されたとしても、それは、企業間や国家間の競争や民族間の優越に利用されるだけであり、宇宙の理が求めている本来の流れに反している事はいうまでもありません。
ここにも、「人間のみが宇宙の理に反した行動ができる唯一の存在である」ことの一つの証ではないでしょうか。
さて、そんな言葉遊びは置いといて、僕が書きたいのは動物が美しさを感じるか?という事なのです。
どうやら、答えは「ノー」のようです。彼らには、そのような意識は存在しないようです。
ただ、もっと大きな何かおそらくは「理」を感じ取ってそれに元づいて行動しているのではと推測されます。
美しく色図いている紅葉も彼らにとっては、死?あるいは機能停止、あるいは一つの区切り?あるいは、消えて行く何か?を感じ取っているのかもしれません。そして、ある種は豊富な食べ物を目指して移動をし、あるものは次の世代に種を繋ぐ行動に移るのです。
では、人間はどうでしょうか? 紅葉に美しさを求めます。またはかなさを感じる方も見おられるでしょう。でも、最も多くの方が感じるのは美しさではないでしょうか。
この美しさを感じられる事。これが、人間が人間である大切な事だと考えます。
そこに、もっともっとより美しい自然とか、だれも行った事の無い場所へ行きたいとか、それは個人の欲、つまり、利なんですよ。その瞬間に、人間が人間でなくなる・・・。
ありふれた風景。ありふれた自然の中に美しく輝いている存在がおられる。それを感じる事。それが、理だと私は考えます。
そして、また、それを楽しめる事。実は「人として生まれたなら、その事の理を楽しむ。それもまた理」だと翻訳できたのです。
しかし、「この事の理を楽しむ」という意味合いの解釈がとてつもなく奥深いのです。
そしてまた厳しい・・・。ですから、私はいつも樹一本、草一つを切るのも本来は畏れ多いと書いているのです。
自然界はそのままで完成しているのです。自分が自分の立ち居地で眺められる範囲などしれています。少なくとも、そこはそのままで完成しているのです。
その環境を自分が受け入れられないならば静かに立ち去る。また、自分が受け入れられなければこれまた同じ、静かに立ち去る。それで、別段問題は無いのです。
でも、自然界は優しいと思います。譲れるところは譲ってくださいますからね。そうして人間は長い時間をかけて自然界と共生を図って来たのです。
力ある者は、その力の使い方を誤れば一瞬でこの世界は消える。力が無い私でも、細い木の枝や草位はむしりとる事が出来ます。自然は私に文句もクレームも言いません。
相手が何も言って来ないからと、何をしても自由なんだと履き違えている多くの人々・・・。
そんな人が増えれば、自然界は自然に動くのです。これが、自然の理です。
その行為は、唯一自然界の理を感じる事の出来ない存在だからこそ許され、また逆も真なのです。(樹を切るときに痛いから止めて!と聞こえたら普通は切れないでしょう?)
宇宙の理は人間に宇宙の理を顕現する力と同じ力を与えました。それは自然界に干渉する力です。それと同時にその行いを監視する存在もおつくりになられました。
以前にも書きましたが、すでに地球もこの空間もすべて把握されています。信じがたいでしょうけどね・・・おっと妄想だから信じる事は無いのですがね。
人間が人間である間は、わかりません。遮蔽されていますからね。でも、人間というとても柔らかなアバター的存在を抜け出た後は、理の世界に帰る事になる。その時は遮蔽してくれる存在は無いのです。
そして、時間も存在しない。 このあたりの事に気が付くとほんとうに何も出来ないのです。 勇気が無いとかそんな話ではありません。
色々わけのわからない戯言を書きましたけど、一番言いたいのは、人間は様々な力を与えられているが、その責任も同じくらい重いという事です。
普通の人が普通に出来る仕事が無くなり、仕事の為の仕事を作る必要が生まれてきた現代社会です・・・。
実はね、友人がインコを飼っているんですね。そのインコが、たまたま怪我をして、何とかしてあげようとしたのですが、絶対に触らせてくれないのです。友人はあたふたしてましたけどね・・・。それで、インコはちゃんと本能で動くのです。大量に人口孵化させられたペット用のインコですよ。怪我をした足から血が出ていて、それがお腹の辺りに着いていましたけどね・・・それを綺麗に毛づくろいしてなめとりましたよ。
自然界では、怪我をした事が他の生物に知れたら即アウトです。じっとしてインコの力で治していましたね。その日の夕方にはいつもの元気なインコに戻っていました・・・。
それでね~また不思議な事にそのインコは絶対に自分からは水浴びをしないんです。
でも、その子が水浴びを自分から始めたのですよ・・・わかります?
これが、自然の理なんですよね~。知っているんですよちゃんとね・・・。
またいつもながらのヤンチャ君に戻ってしまったのですけどね~。
まだこの分野は研究中(妄想中)です。固体によって物凄く個性の違いがありますからね。
今の所は、紅葉を見て綺麗だな~と感じるのは人間の証って事で・・・。ですから常に人として恥じない行動を美しい自然の中では目指したいものですね。
実は、美しい自然の中ってとてつもなく広い意味なんですよ。