今日の話は自分がほんとうに意識できる範囲はどれくらい?というテーマから始めます。
ネットの普及により一瞬にして様々な情報が入手できる社会にはなりましたが、果たしてそれは本当か?という話ですよ。
デジタル技術の発達によってほとんどの写真はいかようにも修整出来るようになりました。動画も処理するコマ数が増えるだけで、原理は同じです。もちろん処理するパソコンの能力次第なんですけどもね。
つまりは、人間が実際に認識できる範囲は自分の五感の届く範囲ではないのか?という話です。
たとえば、隣の部屋の様子はどうなっているか?と思っても壁をすり抜けて見通す能力などは普通はありませんから、実際に見に行くわけです。
見に行けない場所だったりすると、カメラなどで遠隔監視するわけですけど、その映像も実際の映像かどうかは正直わからないのが現実です。現実だろうと皆がそう思っているからに過ぎない・・・でもそれがほんとうのところ現実です。
では、実際はてーと、自分の目で確認した事が真実。目の悪い僕などはそうしてもわからないくらいです。
ちゃんと目が標準視力で、普通の人ならば認識できる範囲は1キロ圏内が限界ではないでしょうか・・・。
しかし、その間(1キロ先を知ろうと)を車やバイクで移動してはダメです。歩いて自分の五感を使って認識する。そうすると見えなかった風景がありありと見えてきます。
少なくとも僕はそうです。車から眺める映像はモニターに写される映像となんら変わりない・・・。また、バイクに乗ればエンジン音で小さな自然の息吹がかき消されてしまいます。自転車は?自分の鼓動や耳に聞こえる風の音でかき消されてしまいます。
無理ない速度で歩く。これが自然の声無き声を感じる大切なポイントだと思います。
前にこんな記事を取り上げました。記事は
こちら
「自然界の人類以外の生物は、かたくななまでに自ら食べるべきものを限定し、住む場所も活動時間帯も、交信する周波数も、自らが排泄したものの行方までちゃんと知っている。自らの死に場所、死に方まで知っている。それは限りある資源をめぐって、異なる種同士が無益な争いを避けるために、生態系が長久の時をかけて作り上げた動的な平衡だからである。そして、その流れを作っているのは、ほかならぬ個々の生命体の活動そのものだから、彼らは確実にバトンを受け、確実にそれを手渡す。黙々とそれを繰り返し、ただそれに従う」
この記事の中の活動範囲にあたるのかなぁ~とも思います。実はここまでが前置きです。
前置きにしては長がーい前置きです。
岐阜県にある友人宅の家庭菜園の手入れを始めて今年で2年目です。畳1畳にも満たない小さな菜園ですけど、キュウリ、ミニトマト、バジル、ナス、サツマイモ、生姜、しそ、ピーマンなど12種類を少しずつ栽培しています。この中でキュウリは3本育成中です。
それで、キュウリに関しては、成長点を上手く導くのがけっこう大変なんです。なにせ狭いもんで、隣のトマトに絡んでもいけないので、干渉しないように導くわけですね。
それで、始めの頃はキュウリのつるが干渉しない用にキュウリネットに巻きつける為には、どうしても幹や葉を触るわけですよ。そうするとキュウリの棘が容赦なく指に刺さるわけですね。それでも、我慢しながらやってまして・・・ある時。キュウリ君に「触るね」と一声かけてから触ると、なんと棘の洗礼を受けなくなることが分かったのです。
それでも、今触っているキュウリ以外の葉っぱなどに触れると・・・「痛い!」って事になるんですけど(何せ狭いいんで)、なんとキュウリがその事を理解してくれて、次からはならないんです。
キュウリと少しだけ会話が成立した瞬間です。
そのキュウリ達も今は、収穫の時期になりました。それで、キュウリを収穫する時も僕はまったく棘の洗礼を受けないのですが、友人は・・・。
それで、友人にもその事を話して、はじめは半信半疑だった友人も今ではすっかり信じています。
心を込めて毎日世話をすれば、必ず答えてくれますよ。すべてのキュウリがそうなるかどうかはわかりませんが、僕が育てたキュウリは大丈夫そうですね。
隣の人には変人に見られていることは間違いないでしょう(笑い)。
じゃー沢山育てたらどうか?という話になるのですが、そこが大切な所です。
今日の記事をもう一度読み返していただければわかります。その答えは・・・・
人間の都合では無いという事です。
わたしたちはどこまで自分達の都合で生きてゆくのでしょうね?自然界の声に真剣に向き合う時期に来たのではないでしょうか。