ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

コンテンツは質より量? 24時間テレビは「感動わんこそば」だ

2016年04月25日 02時32分42秒 | 障害者の自立

 先日、今年の24時間テレビのメインパーソナリティーにアイドルグループの「NEWS」が選ばれました。日本中に多くの感動といくらかの呆観(ぼうかん)を与え続けてきた、この日本一有名なチャリティ番組も今年で39回目。その要の番組を通じて行われる募金活動と数々のチャレンジ企画やドキュメントといった視聴者の胸を打つ企画は病人や障害者、被災者を安易な感動に利用しているのではないかとの意見や、チャリティなのに出演者にギャラが出る不自然さ、内容のマンネリズム、黄色いシャツのセンスの無さなど、ネガティブな意見を多くもらうことがあっても、これまでに数百億の募金を福祉や世界の貧困解決に役立てており、2014年には平均視聴率で歴代最高をマークする30%超えを達成しています。

 特にハンディキャップを抱える障害者によるチャレンジ企画や感動的なドキュメントなどは大きな目玉企画となっており、芸能人のマラソンや「負けないで」の合唱などよりははるかに見応えがあるであろうコンテンツなのですが、私的にはその作り方に疑問を抱く部分もあります。

味わう余地のない感動の連続

 以前、とあるラーメン屋のテレビでたまたま流れていた24時間テレビを観ていると、障害者によるチャレンジ企画が行われており、私がラーメンをすすりながら応援していると、そのチャレンジはどうやら失敗してしまったようで、スタジオ中から落胆の声が漏れました。「ああ、残念だな」と思っていたら画面がスタジオに切り替わり、スタジオの出演者たちが「頑張った!」「よくやった!」といったコメントを残すと、「さて次はこちらのVTRを――」の言葉とともに、また別の素材を扱った“感動的な”ドキュメントを流し出したのです。私は「えっ、それで終わり?」と思わずのけぞり、それから家に帰って24時間テレビを追い続けたのですが、いくつかの「感動系」ドキュメントが一本十数分単位でささやかに放送された後は、先のチャレンジ企画はついに一度も触れられることもなく、気が付けばテレビからは「サライ」が流れ、私は落ち着かないふわふわとした気持ちのままテレビの電源を切りました。

 この落ち着かなさはどこに由来するのだろうというと、やはり一つ一つのコンテンツに対する、24時間テレビの掘り下げの薄さと、次のコンテンツに移るときのドライさにあります。一つの「感動」がサクッと終わると、次の「感動」へまたバトンタッチ。合間に芸能人たちによるコメントが入り、失敗に終わったチャレンジ企画も、出演者一同「頑張った!」「よくやった!」と、手放しで褒めちぎります。

 チャレンジを成功できなかった障害者はきっと悔しい思いもあるだろうに、スタジオにいる芸能人たちの喜びなのか悲しみなのか賞賛なのか同情なのかよく分からない表情と言葉で煙に巻かれ、チャレンジャーである障害者の心情、言葉、今後の展望は掘り下げられないまま、そして視聴者が十分な感情移入や企画への批評・総括が行われる前に、番組は次の「感動」へと、まるでベルトコンベヤーから運ばれてくるかのごとく、出演者たちの神妙な表情にかかわらず淡白に移行するのです。私はこれを観ながら、「まるで感動のわんこそばだな」と思いました。

 テレビ番組で「わんこそば」を紹介するとき、大抵はタレントが己の食したそのスピードと量、食べている瞬間のアタフタ感をテレビの前へ伝えるだけで、わざわざそのわんこそば自体の「味」や「食感」などをアピールすることはそれほどありませんし、わんこそばの店自体もそこにスポットを当てることはめったにありません。わんこそばをカメラに向けて一口すすっては「麺がシコシコ!」「おダシが効いてますね」とはわざわざ言わないわけです。

 そりゃもう極端にまずければ食べること自体が不可能なので、わんこそばはその趣旨に最低限沿いながらかつ最適化され、食べやすく、飲みやすく、消化しやすくした形で提供される「質より量」コンテンツの典型例となり、それがわんこそばの持つ一番の魅力であることは間違いないのですが、果たして「感動わんこそば」とも言える24時間テレビの「質より量」的構造は、十分な理解と感情移入を訴えるべきチャリティの理念と照らし合わせて正しい形だと言えるのでしょうか。そうなると、24時間放送という構造そのものに踏み込むことになります。

 そもそも扱うコンテンツの量を多くしないと24時間という放送時間を一つのテーマに沿って構築することはとても難しいものです。では24時間である必要性とは何かと問われれば、長ければそのぶん多くの募金が集まりますし、生放送の挑戦企画にもじっくり時間を与えられるうえ、時間をかければそれだけ「頑張っている」という印象を与えることが出来ます。ですがフタを開けてみれば先述のように、それぞれの企画に十分な掘り下げがあるのかと言われればちょっと難しいところです。24時間あってもそれまでしかできないのか、というほどに。

輪郭をぼんやりさせる「質より量」

 1978年の放送開始当時、24時間テレビのメインテーマには「具体性」が伴っていました。第1回のテーマは「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」という、現在と比べるとだいぶミニマムであっても、着地点がしっかり見据えられており、テレビの力を使えば十分に実現可能な目標でした。第3回では「カンボジア・ベトナム・ラオスの難民のために!」と世界へ視野を広げ、第5回では「ストップ!ニッポン姥捨て時代」と逆に何をやっていたのかちょっと気になるようなテーマを掲げていました。

 雲行きが怪しくなってきたのは第15回の「愛の歌声は地球を救う」からで、ここから24時間テレビのテーマは具体性や実現可能性を損ない、最大公約数に耳当たりのいい輪郭のぼやけた言葉を掲げるようになっていきます。これ以降、「絆 ~今、私たちにできること」「START! ~一歩を踏み出そう~」「小さなキセキ、大きなキセキ」と専門学校のポスター的な表現が続き、具体的に何をどうしたいのか分からないまま、今年のテーマは「愛 ~これが私の生きる道~」と、一体誰の人生を語っているのか分からない場所へと着地しています。

 とはいっても「質より量」を実行するうえでこういった「輪郭をぼんやりとさせる」とい路線は実に合理的な舵とりであるといえるでしょう。「完成度を上げる=内容を掘り下げる」というのは解像度を上げるという行動であり、趣旨がよりはっきりしているものはときとして作り手にコストや制約を設け、受け手にも理解のハードルを要求することにもつながります。

 24時間テレビのように「感動できる要素を、掘り下げるより上澄みをすくっていくつもちりばめて、それらを編集で糊塗(こと)し、矢継ぎ早に提供する」といったような、より多くに訴えるための作りを要求される番組において、大きなテーマは具体性を欠いたものにするということは重要なことだと言えます。もっとも、チャリティ番組としてはいささか真摯(しんし)さに欠けるのですが……。J-POPの「自分を信じて~」や「心の扉を開いて~」などの安上がりな歌詞が大抵、「いいことを言っているのだろうがこれはどういった対象に向けて何を歌っているのかふわっとしすぎている」のと一緒で、コンテンツの解像度を下げることにより手っ取り早く最大公約数に訴える仕様を設けることができます。

「線」より「点」のコンテンツがもてはやされる

 このように、重要なテーマや人、素材を扱っているにもかかわらず、一つ一つのコンテンツに「深さ」や「強度」がなく、体裁を保ち受け手の関心を引き続けるために、筋の通った「線」ではなく、細切れで中身の薄い「点」の情報を与え続けるものは24時間テレビなどにかかわらずさまざまな場所に溢れています。その方が受け手を呼び込みやすい、コンテンツを作る手間がかからない、大きな責任を要する部分まで踏み込まずに済むなど、発信者によってその思惑はさまざまなのですが、当然ながらあまり良いことだとはいえません。

 まとめブログなどやSNSの隆盛以降、洗練された数千文字よりも、掘り下げがなく所々をかいつまんで編集された数百文字の方を読み手が重要視する向きも散見されます。「点」の情報は受け取る方も生みす方もコストを払わずに済みますが、文脈から切り離された断片的な情報を与えて誤解や虚偽の流布を誘い、より深い批評や多面的な理解を著しく遠ざけて、浅薄なコンテンツと浅薄な受け手を跋扈(ばっこ)させる要因になります。

 これは誰かの物語やどこかで起きた事件などといった情報や素材などの小さなコンテンツを、輪郭がぼやけた大きなコンテンツを作るため、補強するために用いているから起きることです。伝えなければならないメッセージがあるのなら因果関係を逆にして、作り手は「大きなコンテンツを構築するために羅列された小さなコンテンツ」ではなく「小さなコンテンツをより詳細に伝えるための場としての大きなコンテンツ」を提供し、受け手は大きなコンテンツを監視し、小さなコンテンツを読み流しではなく批評的観点を持って受け止めて、作り手と受け手が互いに刺激を与えることが重要です。そこでようやく断片的で他の情報や背景との結びつきが薄い「点」は文脈や具体性を備えた「線」になり、コンテンツにより良い質を担保することになります。

 自戒を込めて言いたいことですが、エンターテインメントでも報道でも、情報をわんこそばのようにただ量を重視して噛んで飲み干すのだけではなく、その味わい、歯ざわり、香りを吟味して本質を探り、おいしいものと不味いものも判断がつかなくならぬように、特に真摯な姿勢を要求される素材を扱ったものに関しては、作り手も受け手も意識したいものです。

2016年04月24日   ねとらぼ


県職員、4年間事務放置 熱海健康福祉センター

2016年04月25日 02時24分30秒 | 障害者の自立

 静岡県は22日、3月まで熱海健康福祉センター福祉課に勤務していた50代の班長級の男性職員が、措置入院患者に必要な費用徴収手続きを4年間にわたり一切放置していたと発表した。チェック態勢の甘さもあり、当該職員と上司の課長(当時)を処分する方針。
 同センターによると、男性職員は同課に異動した2012年度から別部署に移る15年度末まで、措置入院患者の個人負担の有無を判断するための認定手続き31人42件について、全てで事務を放置していた。今年4月、新しい担当課長が報告書の不備に気付き、不適切処理が分かった。
 聴き取りに職員は「着任から1年半ほど、制度上の理解が曖昧だった」などと話し、手続きの必要性を認識した後も事態発覚を恐れて放置し続けたという。「反省している」などと答えている。
 未処理案件について県は正規手続きを進めるとともに、マニュアルを改定して再発防止を図る。
 措置入院は自傷他害の恐れがある精神障害者らに対し、精神保健福祉法に基づき、都道府県が入院を命じることができる制度。当事者や家族の収入に応じて費用負担が生じ、今回の不適切処理は一連の手続きで起きた。

(2016/4/23   @S[アットエス] by 静岡新聞


被災地ボランティア

2016年04月25日 02時18分32秒 | 障害者の自立

◆現地のニーズに沿う支援を◆

 甚大な地震被害が出た熊本県内でボランティアの受け付けが始まった。本県からも週末を利用して出発する人もいるだろう。隣り合う県として共に地震の恐怖を感じているだけに、被災者の心に寄り添う支援ができるのではないか。

 ただ、余震や建物倒壊、土砂崩れなどには十分気を付けてほしい。危険を感じたら中断する冷静さが必要だ。現地のニーズに耳を澄ませながら、役に立ちたいという思いと行動を、被災地の復旧や住民の生活再建に生かしたい。

自分の安全確保して

 協力が求められている活動内容は、各自治体の災害ボランティアセンターのホームページ(HP)で知ることができる。

 22日現在、益城町では避難所支援、物資の仕分けがメインだ。建物の応急危険度判定の調査中であるため、片付けなど「民家の支援は現在難しい」と記されている。

 熊本市では、高齢者や障害者ら、災害要援護者の家屋の片付けを手伝うボランティアを募集。しかし、状況次第で変更される場合もあることは知っておきたい。

 注意したいのはまず被災地までの道のりだ。道路の段差や亀裂、さらに渋滞があると伝えられる。

 現地は食料や宿泊施設、ガソリンなどが不足。食べ物や水を用意し、寝泊まりのめどを付けるなどボランティアの衣食住は「自己完結型」が望まれ、これに加えて安全への心構えが重要になる。余震が収まらず、被害拡大や雨による二次災害が心配されているからだ。

 現地の担当者の説明を聞き、危険を回避してほしい。ヘルメットなど安全のための装備も整え、ボランティア保険への加入も忘れずに。帽子や軍手などを用意し、作業中のけがや熱中症も防ぎたい。

経験談伝える場大切

 「ボランティア元年」といわれる1995年の阪神大震災以降、日本では、災害が起こるとボランティアが駆け付けるという光景が自然に見られるようになった。

 これまで蓄積されてきたノウハウや培った視点を、生かさないのはもったいない。新たに取り組む人や団体に伝えることで、支援はより充実するのではないか。

 情報伝達がうまくいかなければ現場が混乱することもある。「頑張って」という言葉がかえって被災者の心の負担になることもある。どういった動き方やコミュニケーション、気配りが大切なのか。

 熊本は近いため、初めて活動してみようと考えている人もいるかもしれない。例えば阪神大震災や東日本大震災で支援経験がある人、また既に熊本で汗を流した人が、希望者に向け体験談や注意点を伝える機会があれば、活動はよりスムーズになるかもしれない。

 支援は今だけではなく、長期的に必要になる。現地には行けなくても、県内でできることもあるはずだ。

 互いに意見を交換し視点を共有することで、「民」の力は一層強くたくましくなるだろう。

2016年4月23日   宮崎日日新聞


厚労省の通知改正で進む「小児向け電動車いす導入」と、その効果とは

2016年04月25日 02時05分09秒 | 障害者の自立

 車いすにモーターを搭載した「電動車いす」は身体の不自由なユーザーにとって便利で,実際に普及している。が、道路交通法のうえでは、形式的に「原動機+車(車輪あり)」なので「原動機付き自動車」に該当するため運転免許証が必要ということになる。

 同法による規定で「電動車いす」は、全長×全幅×全高1200×700×1090mmを超えてはならず、最高速度6km/h以内で、一般歩行者に危害を及ぼすおそれがある鋭利な突出部がないこと。また、自動車や原動機付自転車と明確に識別することができ、身体の状態により上記規制に該当しない車いすを用いることがやむを得ない場合、警察署長の“確認”を受ければ適法(歩行者扱い)となり、「自転車(軽車両)」と認められる。

 ところが、これまで「子供向け電動車いすに係る補装具費の支給について」とした厚生労働省の通知で、補助支給対象者は「学齢児以上であって、次のいずれかに該当する障害者等であること。 なお、電動車いすの特殊性を特に考慮し、少なくとも小学校高学年以上を対象とすることが望ましいこと」としていた。つまり、電動車両を“幼児に運転させるべきではない”としてきたわけだ。

 こうした日本の対応とは対照的に、欧米では1歳児から電動車いすを使わせる試みが積極的に行なわれてきた。健常児がハイハイや伝え歩きを始める次期に、障害児にも自立した移動手段を教えるという考え方が主流だからだ。

 こうしたグローバルな動きに昨年、厚労省は前述したこれまでの通知を改め、従来通知の「電動車いすの特殊性を特に考慮し、少なくとも小学校高学年以上を対象とすることが望ましい」の部分を削除した。

 こうしたことを受けて、小学校就学前に電動車いすを使えるように申請する動きが活発化している。4月16日から東京都内で開催された展示会「第15回子どもの福祉用具展キッズフェスタ2016」では、さまざまな子供向けの福祉用具と並んで小児向け電動車いすや電動アシスト車いすが展示された。

 会場ではいくつもの福祉に係るセミナーが開催されたが、ヤマハ発動機は新開発の子供向け電動アシスト車いすや電動車いすを展示。障害児に向けたファーストステップとして、20インチのキッズモデル車いす電動アシストユニットの新製品「JWX-2」を提案展示した。同時に東京女子医科大学病院リハビリテーション部の理学療法士の長谷川三希子氏を招いて「小児への電動車いす適合事例から見えてくること」と題してセミナーを開催した。

 講演で長谷川氏は、子どもにとって自立した移動の必要性を語り、電動車いす導入によって子供たちの“元気”や“健常者との融合”を、これまでの処方事例を紹介しながら、導入効果について述べた。

 電動車いすの導入効果として、自立移動がさまざまな“やる気”につながり、電導車いす導入後1年ほどで、ジョイスティックなどの操作が特に認知や言語理解能力を大きく高めたとの報告もなされた。氏は、「運動機能障害の軽減が、知的社会性の発達・経験に対する阻害因子の発生を予防する」と、電導車いすの導入効果について述べていた。

 セミナーに参加した高知県の理学療法士の女性が「昨年、担当する障害児に電導車いす支給申請を自治体に出したが、却下された」と述べて、東京都と地方の格差についての言及もあったが、長谷川氏の「自治体への“申請におけるポイント”や“理由書”の具体的な書き方」などに障害児の保護者やセラピストなどの参加者は頷いていた。

「第15回子どもの福祉用具展キッズフェスタ2016」で、東京女子医科大学病院リハビリテーション部の理学療法士の長谷川三希子氏が「小児への電動車いす適合事例から見えてくること」と題して電導車いすの導入効果を熱く語った。

2016年04月23日  エコノミックニュース


柳川療育センター移転 5月開設、入所定員2倍に

2016年04月25日 01時58分18秒 | 障害者の自立

 重度の心身障害者や発達障害児の診療、リハビリなどを行う柳川療育センターが5月1日、福岡県柳川市三橋町に移転オープンする。従来よりも規模を広げて受け入れ人数を増やし、佐賀など隣県からの利用も見込む。発達障害の原因究明や療育法を研究する施設も併設している。

 同市上宮永町にある現行施設は利用者の増加に伴って手狭になっており、運営する国際医療福祉大学・高邦会グループが新たに敷地を確保して移転拡張した。

 新センターは鉄骨3階建てで、延べ床面積は従来の約4倍となる約1万1千平方メートル。医師や看護師、リハビリなどの専門スタッフを増員し、入所定員は55人から110人、短期や日中の一時受け入れは5人から10人に倍増させた。

 23日に施設内の見学や完成祝賀会が開かれ、脳性まひや発達障害の専門家による講演もあった。高嶋幸男施設長は「さらに専門性を高めて、年齢や発達に応じた療育、在宅支援の充実を図りたい」と話した。

 問い合わせは同センター、電話0944(73)0039へ。

 

従来よりも規模を拡大し、移転新築した柳川療育センター

2016年04月24日  佐賀新聞