猫じじいのブログ

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NHKスペシャル--駄々っ子の昭和天皇を伝える『拝謁記』

2019-08-18 19:27:33 | 戦争を考える


昨日(8月17日)のNHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録「拝謁記」~」を見て、まだ このような番組を作る力がNHKにあったのか、と感心させられた。

ほぼ同時にネット上に公開した資料、初代宮内庁長官田島道治の昭和天皇『拝謁記』(https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1)も読みがいがある。

番組は、『拝謁記』にもとづき、1952年、敗戦後7年目の、平和条約締結を期して、昭和天皇が国民に向かって直接、自分の思いを告げようとして、できなかったことを、再現ドラマ仕立てにしている。私の好みとしては、再現ドラマはやめ、『拝謁記』の朗読と関係者の証言、時代背景の映像と識者の解説・コメントという、ドキュメンタリーの体裁をとって欲しかった。

平和条約(Treaty of Peace)とは、戦争終結と敗戦国の主権の回復の合意(Agreement)のことである。日本は、1945年に連合軍(米軍)に無条件降伏して、占領されていたのだから、国会が開かれ新憲法が制定されたにもかかわらず、日本に自己決定権がなかったのである。

1952年の独立記念式典で、昭和天皇が言いたかったことは何か。勝てない戦争をした陸軍に腹を立てていたのである。大日本帝国憲法(明治憲法)では、軍隊は天皇の軍隊である。

  第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
  第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
  第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス

陸軍が天皇の統帥に従わなかったことを怒っている。しかし、天皇がはっきりと陸軍に命令したのは、1936年に陸軍若手将校がクーデター(2.26事件)を起こし、皇居を取り囲んだとき、それに怒って「捕らえ厳罰にせよ」としたときだけである。

だから、天皇は、陸軍が「自分の意をくまない」と怒っているのである。統帥権があるのだから、具体的に命令できるのだから、そうしないで不満をぶちまければ、ただの「駄々っ子」である。

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『拝謁記』によれば、天皇は、中国に進出していた「関東軍」が1928年に満州軍閥の張作霖を乗っている列車ごと爆破して殺害したことに、怒っている。

事件を不問にした当時の田中義一首相を天皇は叱責したが、「首謀者」の河本大作が予備役になっただけで終わり、3年後、関東軍は独断で中国東北部を武力で占領し(満州事変)、政府もそれを追認した。明治憲法では、陸海軍は首相の下ではなく、天皇の下にあるのだから、統帥の責任は天皇にある。

天皇は田島長官に次のように言う。

「考へれば下剋上を早く根絶しなかったからだ。田中内閣の時ニ 張作霖爆死を厳罰ニ すればよかつたのだ。あの時ハ 軍でも大して反対せず 断じてやれば きいたらう と思ふ」

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太平洋戦争に関して、天皇は田島長官に次のように言う。

「東條が唯一の陸軍を抑え得る人間と思つて内閣を作らしたのだ。勿論見込み違いをしたといえばその通りだが」

「平和を念じながら止められなかった」、

「東条内閣の時ハ 既ニ 病が進んで最早どうすることも出来ぬといふ事になつてた」

「東條は政治上の大きな見通しを誤ったといふ点はあったかも知れぬ」

「強過ぎて部下がいふ事をきかなくなった程下剋上的の勢が強く、あの場合若し戦争にならぬようにすれば内乱を起した事になったかも知れず、又東条の辞職の頃ハ あのまゝ居れば殺されたかも知れない。兎に角 負け惜しみをいふ様だが、今回の戦争ハ あゝ一部の者の意見が大勢を制して了つた上は、どうも避けられなかつたのではなかつたかしら」

「太平洋戦争ハ 近衛が始めたといつてよいよ」

近衛は東条の前の首相である。太平洋戦争を天皇に奏上(意見を申し上げること)したのは東条内閣で、安倍晋三の祖父の岸信介も奏上に署名している。明治憲法では戦争の布告は天皇がおこなう。天皇が太平洋戦争を決断したのである。

「米国が満州事変の時もつと強く出て呉れるか或いは適当ニ 妥協して あとの事ハ 絶対駄目と出てくれゝば よかつたと思ふ」

「五五三の海軍比率が海軍を刺戟して平和的の海軍が兎に角くあゝいふ風ニ 仕舞ひニ 戦争ニ 賛成し又比率関係上堂々と戦へずパールハーバーになつた」

1921年のワシントン海軍軍縮条約が、1941年の日本の真珠湾奇襲攻撃の遠因になったと言っている。昭和天皇の「駄々っ子」ぶりが強くみえている。

「実ハ 私はもつと早く終戦といふ考を持つてゐたが 条約の信義といふ事を私は非常ニ 重んじてた為、単独媾和ハ せぬと独乙と一旦条約を結んだ以上之を破るはわるいと思つた為おそくなつた」

「私ハ 実ハ 無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ 持つて行きたいと念願し、それには一寸こちらが勝つたような時ニ 其時を見付けたいといふ念もあつた」

「終戦で戦争を止める位なら宣戦前か或はもつと早く止める事が出来なかつたかといふやうな疑を退位論者でなくとも疑問を持つと思ふし、又首相をかへる事ハ 大権で出来る事故、なぜしなかつたかと疑ふ向きもあると思ふ」

「いやそうだらうと思ふが 事の実際としてハ 下剋上でとても出来るものではなかつた」

結局、昭和天皇は、臣下である陸軍を統制できない、と愚痴をこぼしているだけである。

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天皇は、独立記念式典で話すべき「おことば」で、田島長官につぎのようにアドバイスを求めている。

「そうする(講和条約に自分が調印すると)と(領土が)徳川時代以下となる事だ。これは誠に困つた事で たとへ実質は違つても、主権のある事だけ認めてくれると大変いゝが同一人種民族が二国二なるといふ事はどうかと思ふのだが此点ニ関し演説で何といふか」

「今一つは再軍備の問題だ こゝで私の責任の事だが従来の様にカモフラージュでゆくかちやんと実状を話すかの問題があると思ふ 此点急に媾和が出来てあはてぬやうに考へておいて欲しい」

田島長官は、新憲法にもとづき、天皇の「おことば」草案を当時の吉田茂首相に見せ、同意を取ろうとした。
吉田は、独立記念式典で、次の一節を天皇が国民に向かって話すことを止めた。

「国民の康福を増進し、国交の親善を図ることは、もと我が国の国是であり、又摂政以来終始変わらざる念願であったにも拘わらず、勢の赴くところ、兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招くに至ったことは、遺憾の極みであり、国史の成跡に顧みて、悔恨悲痛、寝食為に、安からぬものがあります」

私には、なぜ、吉田がこの削除にこだわったかわからない。番組では「勢の赴くところ」と陸軍を責めているのがいけないという編集であったが、吉田は、「兵を列国と交へて敗れ、人命を失ひ、国土を縮め、遂にかつて無き不安と困苦とを招く」という、事実だがネガティブな敗戦の受け止め方が、当時の政治的状況に無用な混乱を生むと判断した可能性もある。

結局、独立記念式典の昭和天皇の「おことば」は次のようになった。

「平和条約は、国民待望のうちに、その効力を発し、ここにわが国が独立国として再び国際社会に加わるを得たことは、まことに喜ばしく、日本国憲法施行五周年の今日、この式典に臨み、一層同慶の念に堪えません。
さきに、万世のために、太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受託して以来、年をけみすること七歳、米国を始め連合国の好意と国民不屈の努力とによって、ついにこの喜びの日を迎えることを得ました。ここに、内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に戦争による無数の犠牲者に対しては、あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。又特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒心し、過ちをふたたびせざることを、堅く心に銘すべきであると信じます。」

わたしは、「過ち」が入っているから、これはこれでいいのではないか、と思う。現在の「戦没者記念式典」の天皇の「おことば」には「反省」という語があるが、「過ち」はない。

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昭和天皇は、戦後も、自分が君主だと思っていて、平和条約をむすんだのだから、憲法改正して再軍備したほうが良いと思っていたことが『拝謁記』からわかる。これについて昭和天皇と吉田茂首相とが直接議論し、その記録が残っていれば、面白かったと思う。

NHKに、天皇退位論、再軍備論、憲法改正論とからめて、『拝謁記』のドキュメンタリーをもう一度作り直すべきである。

「駄々っ子」昭和天皇に、道義的だけでなく、法的にも戦争責任があると私は思っており、その裁判が行われなかったことが、とても残念である。