『兵士というもの』(みすず書房)で展開するゼンケ・ナイツェルとハラルト・ヴェルツァーの議論にどうも納得がいかない。
本書の最後、第4章の最後の節「暴力」で彼らは、次のように書く。
〈暴力は、文化的・社会的状況からして有効であると考えられる場合には、文字通りすべての人間集団によって行使される。男性も女性も、高い教育を受けた者もそうでない者も、カトリックもプロテスタントもムスリムも。〉
本当にそうなのか?同じ捕虜の盗聴記録から、フェリクス・レーマー(Felix Römer)が統計的に有意義な差があると言っている。
また、ナイツェルとヴェルツァーは、さらに次のように書く。
〈戦争になれば、人間が死に、殺され、身体に障害を抱えることについて憤ったり驚いたりするのは、適切ではない。戦争とはそういうものだからだ。〉
戦争とは悲惨なものだ、戦争は嫌だという情動は、戦争を回避するために大切ではないか。
〈その代わりに問わなければならないのは、人間はそもそも殺害を止めることができるのか、やめることができるとすればそれはどのような社会的条件においてなのか、ということだろう。〉
「社会的条件」とは具体的に何を言うのか、彼らは述べていない。
〈そうした死者が存在するのは、「戦争」という参照枠組みが行為を要求し機会の構造をつくり出すからであって、そこでは暴力を完全に囲い込んだり限定したりすることは不可能である。〉
彼らの言う「参照枠組み」は、集団的思い込みのことであり、個人というものを認めないドイツの保守的な社会構造に問題があるのではないか。
〈近代は暴力とは無縁だという信頼は幻想だ。人間は非常に多くの理由によって人を殺す。兵士たちが人を殺すのは、それが彼らの任務だからだ。〉
3つの文からなる言明の、2番目の文の「人間」には同意しかねる。ここは「ある人は」ではないか。最後の文も、彼らが集団主義に埋没しているから、このような結論になると思う。
人間は別に暴力が好きなわけではない。
たしかに、暴力は、家族間にもあり、教室にもあり、社会にもある。
ある子どもは、暴力によって他人を支配できると学習する。そして、暴力の結果、勝者に生まれる万能感は、快楽と暴力とを結びつけるかもしれない。これは家庭内暴力の発生機構でもある。しかし、学習するのだから、人間の暴力は本能ではない。
また、暴力に接して、暴力を嫌悪する子どももいる。暴力を受ける側の苦痛を学習するからだ。
そして、いったん、家庭内暴力が生まれても、多くの場合、子どもは親に暴力をふるわなくなる。自分が親の助けがないと生きていけないことを悟るからだ。
暴力が社会を支配しなくなる希望は、人間の多様性にあると思う。戦争が必要だというのは妄想である。集団行動ができない「発達障害児」こそ、人類の希望であると思ったりする。