旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語は、メソポタミアに古くからある伝承、「大洪水と箱舟」を引き継いでいる。最も古い伝承は『シュメル語の洪水物語』であろう。
ところが、旧約聖書の書記(編者)は、余計な前書きと後書きをその前後に加えてしまった。
旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語は次で始まる。
「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」『創世記』6章5-6節 新共同訳
「ノアの箱舟」の物語は次で終わる。
「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度(たび)したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。』」『創世記』8章20-21節 新共同訳
ここで、「主」とは、ヘブライ語聖書の神様ヤハウェ(יהוה)の日本語訳である。
何となく、居心地の悪い結末であるが、神様ヤハウェは、これからは、人間たちを大洪水で皆殺しにしないと約束しているのである。
この居心地の悪さは、3つの要因からなる。
第1は、神様ヤハウェは、贈り物で心を変えることである。『創世記』を含むモーセの五書は、ユダヤの祭司が紀元前4世紀から5世紀に書き上げたものだから、そんなものだ。『レビ記』は、神様にわいろを贈りなさい、という祭司の言葉で満ち溢れている。
第2は、「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」という部分だ。これは、日本語訳の問題で、「悪い(רע)」とは「気持ち悪い」、すなわち「キモイ」という意味である。第1と同じく、祭司が神様ヤハウェの気持ちをそう邪推しただけだ。
第3は、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」という部分だ。これは、否定詞を先頭にもつ複文の訳にありがちな誤りである。
口語訳(1954年)、新共同訳(1987年)、聖書協会共同訳(2018年)がそろって、同じ誤りを犯しているので、この構文解釈の誤りを丁寧に説明したい。
ヘブライ語聖書は、右から左に向かって書くのだが、ここでは、現在の日本語の表記のように、構文を左から右に書こう。ここの文は、次のような構造になっている。
否定詞 文A 接続詞 文B
文A =人に対して(人が故に)大地を呪う
文B =人が心に思うことは、幼いときから悪い(キモイ)
否定詞=לא־אסף(ローオシプ、意味は「二度としない、not again」)
接続詞=כי(キー、意味は、「…なので、because」)
New International Versionの英語聖書では、この構文を、複文に否定詞がついたと解釈する。すなわち、
否定詞 {文A 接続詞 文B}
と解釈する。私も、“כי”の多くの用例から、これが普通の解釈と思う。文Bの真偽に関わらず、文A「人が故に大地を呪う」ことは二度とすまい、という神様の決意なのである。
ところが、日本語聖書では、次のように構文を解釈してしまった。
{否定詞 文A} 接続詞 {文B}
だから、変な訳になったのだ。このような誤訳の原因は、日本の英語教育で複文を切って訳すように指導していることと、文Bを本当だと思う聖職者がいるからだと思う。
私は、NPOで「発達障害」児の相手をしているが、自分の子どもを信じない母親に出くわすと、本当に困る。同じように、文Bを真理とし、人間は悪だとする聖職者には、本当に困る。
構文を複文の否定と解釈すると、日本語訳はつぎのようになる。
「人の心の思いは幼いときからキモイとしても、人が故に大地に害をなすことは、二度とすまい」
実際、New International Versionでは、接続詞を“even though”と訳して、複文の否定だということを明確にしている。