5月28日の川崎市登戸の殺傷事件、6月1日の東京都練馬区の老人の息子刺殺について、メディアの情報が錯綜し、推測によるコメントがテレビやネットで飛び交った。状況がわからないうちに、推測でコメントすることは、自分のもっている偏見を暴露し、不用意な発言で人を傷つけることになる。
また、情報の錯綜は、メディアの安易な取材態度と、警察署員が調査中にもかかわらず関係者の一方的発言を外部にもらすことに、原因があると思う。
2つの事件とも、ソーシャルワーカーや非営利福祉団体が関与していれば、殺人という悲劇を防げたように思える。今、わかってきた事実からでは、当事者が別に深刻な引きこもりであるとはいえない。それよりも、正規の職がない、他人に必要とされない、家庭内暴力がある、今後の生活の不安がある、という誰もが直面する人間の尊厳と生活不安の問題として、理解できる。
現在の学校教育が、競争を肯定し、能力で人間を差別する限り、競争を否定し、人間を能力で値踏みしないソーシャルワーカーや非営利福祉団体のスタッフが、問題解決の助けをするしかない。警察は相談するところでなく、場合によって、暴力装置として利用する先であって、相談しても、良い結果を得ない。
さらに、練馬区のケースでは、「周囲に迷惑をかけるから、息子を殺さなければならない」という、合理的でない動機が、気になる。人間が生きている限り、他人に迷惑をかけるものだし、迷惑をかけて良いのだ。意識下では、「周囲に」は、自分や妻のことを 多分 指しているのだろう。
「小学校の運動会がうるさい、殺してやる」と言うぐらいは、何も問題ない。本当に殺しに行けば、警察に連絡すれば良いだけのことだ。運動会は、スピーカーでガンガン騒音をまき散らし、子ども同士を争わせて親が見物する「おぞましき」悪習慣であるから、本来、民主主義社会にあわないものである。運動会こそ迷惑行為である。
常識で考えれば、諸外国のように、保護者が学校の校庭に集まって、先生や子どもたちと、のほほんと、レモネードでも飲みながら、談笑するだけでよく、スピーカーや競技などはいらない。私の経験で言えば、そのとき、体を動かすと言っても、子どもや大人が混ざって、フォークダンスをするか、蹄鉄(ていてつ)投げなどして遊ぶぐらいであった。
私もそうだが、年をとると思考の柔軟さがなくなり、被害妄想に陥りやすい。本人からすれば、家庭内暴力が起きていて、行政に相談したが、助けてもらえず、息子を殺すしかない、と思い詰めたのかもしれない。しかし、「助けてもらえない」は被害妄想かもしれない。たまたま、行政の窓口対応が拙かったのかもしれない。
行政にも素晴らしい人材がいるが、行政では、職員の部門間移動が絶えずあり、職員が専門家に育たたないという悩みがある。行政もソーシャルワーカーや非営利福祉団体を利用するといい。
ソーシャルワーカーや非営利団体のスタッフなら両者の言い分を聞き、混乱を整理し、良好な人間関係を築くよう助ける。私もそうしてきた。