「ひきこもり」という言葉がメディアをにぎやかしている。それによって、社会の理解が深まれば良いが、「ひきこもり」というのは、幅広いカテゴリーで、多様なケースがある。
家族にひきこもりがいれば、ソーシャルワーカーとか非営利福祉団体に相談してもらいたい。「ひきこもり」は人間の生き方の1つであって、本来、自由である。他人に批判される問題でないのに、「世間」はそれを批判する。したがって、家族は、本来、ひきこもりを守る必要がある。
ここでは約4年前、2015/12/23(水) に書いたブログを再録する。
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3日前に、12月20日にTBSで松井秀喜の2時間の特別番組をやっていた。松井秀喜がニューヨークヤンキースGM特別アドバイザーとして3A 、2A、1Aを巡回し若手のバッティングを指導するのを密着取材していた。
たまたま見た番組であるが、映画『ベスト・キッド』の老師のような松井秀喜をそこに見つけ、謙虚で寡黙な東洋の哲学者として松井秀喜がアメリカ人に慕われているのだ、と理解した。もう一度見てみたい番組である。
彼は、若手を人間として尊重しながら、人間は多様であると理解して、無理強いせず、自由にやらせながら、相手の求めに応じて指導するのである。各個人を見て、何が足りないか、すぐわかると言いながら、忍耐強く、相手の内部から湧き上がる意欲を待ち、どう伝えたら、受け入れてもらえるか、考えながら伝えるというのである。
老師と言ったのは、哲学者と教育者とが一体になった理想的な姿を認めたからである。
私は子供たちを相手にしている。その経験でいうと、発達障害、自閉症、知的能力障害、ダウン症、アスペルガー、不登校、引きこもり、情緒不安定、家庭内暴力とかいう用語は、ののしり言葉としか世の中で使われていない。人間は多様であることを認めないと、子供たちの相手ができない。そして、人間として尊重しないといけない。かって、『「引きこもり」救出マニュアル』という本があったが、人間を育てることはマニュアルで対応できることではない。もちろん、薬で対処できることでもない。
松井秀喜は、若手が何が技術的に足りないか、すぐわかるという。その言葉の意味を私は理解できないが、子供たちの何が問題なのかは、単に表層の結果であって、真の原因なんて、簡単にわかるものではない。わかるならマニュアル化できる。現実は指導しながら、どうしたら良いのか、手探りしていくしかない。その子が元気になっていくかが、指導が成功しているかの指標だ。
子供を初めて見たとき、すぐ、わからなければならないことは、その子の素晴らしい所だ。それを把握できることがその子を人間として認めることである。それによって、その子と良好な関係を築ける。
自分に肯定感のない子供たちが多いが、その親もまた、その子に対して否定的な感情を持っていることが多い。子供がトラブルを起こすと、周りから責められ、子供の診断を受ければ、何々症という「障害」の名前が与えられ、場合によっては休む間なく子供から暴力を受け、いつのまにか、否定的な感情なしにしか、子供を見れなくなる。
子供の素晴らしい点を見つけたら、少しずつ、その親に伝え、親が子にもつ否定的な感情から抜け出すことをたすけることだ。
ダウン症の子の指導は、私にとって、表層で判断していけないという非常に勉強になった。その子は中学2年生だったが、言葉がはっきりせず、親から発音の指導をしてほしい、と言われた。真に受けて、発音の指導をしたら、その子に とても嫌われた。関係を修復するのに 1 か月もかかった。
その子を観察していると、言葉がはっきりしなくても、ほかの子とコミュニケーションができている。本当は賢い子なのだ。そして、時間をかけてわかったのは、音素の聞き取りに障がいがあることだ。ダウン症の子供に、程度に差があるが、発声器官の障害、聴いた音素の弁別障害がみられ、発声の矯正は難しい、ということだ。本にも そう書かれていた。
大切なのはコミュニケーション能力であり、その子には充分ある。しかし、簡単な日常の語が、聞き取れないから、耳から学ぶことができない。その子は知的刺激から排除されてきたのであり、それを補ってあげれば知的に成長する。
症名で子供を見てはいけない。子供が元気にならなければ、その子にしていることは間違っている。しかし、簡単にその子を元気にできれば、誰も困らない。老師のように忍耐強く接しなければならない。