猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

老師のように忍耐強く接する

2019-06-04 21:14:11 | 愛すべき子どもたち


「ひきこもり」という言葉がメディアをにぎやかしている。それによって、社会の理解が深まれば良いが、「ひきこもり」というのは、幅広いカテゴリーで、多様なケースがある。

家族にひきこもりがいれば、ソーシャルワーカーとか非営利福祉団体に相談してもらいたい。「ひきこもり」は人間の生き方の1つであって、本来、自由である。他人に批判される問題でないのに、「世間」はそれを批判する。したがって、家族は、本来、ひきこもりを守る必要がある。

ここでは約4年前、2015/12/23(水) に書いたブログを再録する。
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3日前に、12月20日にTBSで松井秀喜の2時間の特別番組をやっていた。松井秀喜がニューヨークヤンキースGM特別アドバイザーとして3A 、2A、1Aを巡回し若手のバッティングを指導するのを密着取材していた。

たまたま見た番組であるが、映画『ベスト・キッド』の老師のような松井秀喜をそこに見つけ、謙虚で寡黙な東洋の哲学者として松井秀喜がアメリカ人に慕われているのだ、と理解した。もう一度見てみたい番組である。

彼は、若手を人間として尊重しながら、人間は多様であると理解して、無理強いせず、自由にやらせながら、相手の求めに応じて指導するのである。各個人を見て、何が足りないか、すぐわかると言いながら、忍耐強く、相手の内部から湧き上がる意欲を待ち、どう伝えたら、受け入れてもらえるか、考えながら伝えるというのである。

老師と言ったのは、哲学者と教育者とが一体になった理想的な姿を認めたからである。

私は子供たちを相手にしている。その経験でいうと、発達障害、自閉症、知的能力障害、ダウン症、アスペルガー、不登校、引きこもり、情緒不安定、家庭内暴力とかいう用語は、ののしり言葉としか世の中で使われていない。人間は多様であることを認めないと、子供たちの相手ができない。そして、人間として尊重しないといけない。かって、『「引きこもり」救出マニュアル』という本があったが、人間を育てることはマニュアルで対応できることではない。もちろん、薬で対処できることでもない。

松井秀喜は、若手が何が技術的に足りないか、すぐわかるという。その言葉の意味を私は理解できないが、子供たちの何が問題なのかは、単に表層の結果であって、真の原因なんて、簡単にわかるものではない。わかるならマニュアル化できる。現実は指導しながら、どうしたら良いのか、手探りしていくしかない。その子が元気になっていくかが、指導が成功しているかの指標だ。

子供を初めて見たとき、すぐ、わからなければならないことは、その子の素晴らしい所だ。それを把握できることがその子を人間として認めることである。それによって、その子と良好な関係を築ける。

自分に肯定感のない子供たちが多いが、その親もまた、その子に対して否定的な感情を持っていることが多い。子供がトラブルを起こすと、周りから責められ、子供の診断を受ければ、何々症という「障害」の名前が与えられ、場合によっては休む間なく子供から暴力を受け、いつのまにか、否定的な感情なしにしか、子供を見れなくなる。

子供の素晴らしい点を見つけたら、少しずつ、その親に伝え、親が子にもつ否定的な感情から抜け出すことをたすけることだ。

ダウン症の子の指導は、私にとって、表層で判断していけないという非常に勉強になった。その子は中学2年生だったが、言葉がはっきりせず、親から発音の指導をしてほしい、と言われた。真に受けて、発音の指導をしたら、その子に とても嫌われた。関係を修復するのに 1 か月もかかった。
その子を観察していると、言葉がはっきりしなくても、ほかの子とコミュニケーションができている。本当は賢い子なのだ。そして、時間をかけてわかったのは、音素の聞き取りに障がいがあることだ。ダウン症の子供に、程度に差があるが、発声器官の障害、聴いた音素の弁別障害がみられ、発声の矯正は難しい、ということだ。本にも そう書かれていた。
大切なのはコミュニケーション能力であり、その子には充分ある。しかし、簡単な日常の語が、聞き取れないから、耳から学ぶことができない。その子は知的刺激から排除されてきたのであり、それを補ってあげれば知的に成長する。

症名で子供を見てはいけない。子供が元気にならなければ、その子にしていることは間違っている。しかし、簡単にその子を元気にできれば、誰も困らない。老師のように忍耐強く接しなければならない。

知的能力障害か自閉スペクトラム症か

2019-06-04 20:59:45 | 育児


古荘純一の『発達障害とは何か 誤解を解く』(朝日選書)を読んで、2章、3章の世間や支援者の「誤解を解く」には納得いくが、4章、5章はしっくりこない。

私は医師でないので診断名を下す立場にない。どのような診断名であろうと、学習指導を通し、その子と人間関係を築き、その子が親やまわりと人間関係を持てる地固めをするのが、NPOでの私の役目である。私が直接担当していない子どもたちともコミュニケーションを取り、どのように成長していくか、いつも観察している。

そんな中で私がいつも不思議に思うのは、明らかに知的な困難を抱えているのに、親や医師は「自閉症的」や「自閉スペクトラム症」という診断名のほうを好むことである。「自閉症的」や「自閉スペクトラム症」からと言ってその子が別に素晴らしくなるわけではない。かえって、通俗本を読んだり、インタネットを見たりして、自分の子を色眼鏡で見るようになる。

「自閉症的」や「自閉スペクトラム症」とされている子どもたちも、決して、ほかの子どもといっしょにいることがいやではない。決して普通の子以上に音に敏感なわけではない。だれだって、はじめての環境にはとまどう。乱暴な子を恐れる。

「知的能力障害」のほうが、色々なレベルや現われ方があるので、スペクトラム症と呼ぶに適している。よく観察して、伸びる能力があれば伸ばしてあげることのほうが大事だ。

DSM-5の基準で「知的能力障害」といえないレベルでも、学校ではお荷物扱いを受け、差別にあっている。学校の先生が子どもを虐待していることがある。いじめや虐待の期間が短いと、心の傷は比較的簡単にいやせる。それこそ、早期にいやさないといけない。

知的困難が大きいと話せないものと誤解されるが、発声機能と短期記憶に問題がなければ、音声でコミュニケーションができるようになる。オウム返しができれば、話せるようになる。簡単なことでも、毎回同じでも良い。「お母さんが好き」と言えるだけでも良い。最後の味方は親だから、親子のコミュニケーションこそ大事である。

ダウン症の子どもたちは賢い。聴覚機能や発声機能に障害があっても、人の気持ちを読むことができることが多い。ズルもできる。言語によらない体全体を使ったコミュニケーションをしてくる。

知的レベルがもっと高くなると、自分がなぜ人と距離をとるのかを説明してくれる。先生も自分のように内気なのでしょうとか、みんなに合わせるのが嫌いだとか、ディズニーランドに行ってもお金がかかるだけで楽しくないとか、色々教えてくれる。すべて個性の範囲である。

嫌いな人と話さないのも人生における選択である。いやなことをしなくても私のように生きていける。

古荘純一の「発達障害」の理解はDSM-IVに近い。私は「知的能力障害」を「自閉スペクトラム症」と同じく「神経発達症群」のカテゴリーに入れるDSM-5のほうが納得いく。

本当に「自閉スペクトラム症」の子がそんなにいるのかも不思議だが、私の立場からすると、「知的能力障害」か「自閉スペクトラム症」かを詮索するよりも、親子がありのままで幸せに生きていければよい。可能なのだ。

親によっては子どもを「勉強もでき世渡り上手」に育てることを希望する人もいる。それって、他人を踏みにじる子どもに鍛えてくれというようなもので、私の仕事ではない。