猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ユダヤ教、キリスト教は書物指向か、「律法学者」とは誰か

2019-06-30 21:26:17 | 宗教


バート・D.アーマンの”Misquoting Jesus”の日本語版『捏造された聖書』(柏書房)には、ユダヤ教に「書物指向」と「一神教」の異常な特徴があり、これらがキリスト教に引き継がれた、と書いている。

この「異常な」というのは翻訳者松田和也の誤りで、アーマン自身は”unusual”と書いており、決して、”abnormal”とは書いていない。アーマンは、ちょっと変わっていると思ったのだろう。

しかし、ユダヤ教、キリスト教は本当に「書物指向」で「一神教」なのだろうか。ここでは、アーマンの主張に私の理解を加える形で「書物指向」を論じてみたい。

この「書物指向」は“bookish”の松田の訳であり、本来は、「本好き」とか「本読み」とかの軽い意味である。例えば”child”(子供)が”childish”(子供っぽい)となるのと同じである。だから、“bookish”は、別に、聖書を読むことを非難しているわけではない。

アーマンは本書の第1章で、現在、ユダヤ教、キリスト教が書物の権威を認めるのにかかわらず、その当時の人々のほとんどは字が読めず、書けなかった、と述べている。アーマンは何を言いたいのだろうか。私は「ユダヤ教、キリスト教が書物の権威を認める」という常識に対する疑義ではないかと思う。

アーマンは本書で、結局、プロテスタントの説教師や牧師の教え「聖書は神の霊感で書かれ、誤りがない」を否定している。聖書は写本の段階で間違いが発生するし、もともと人間が書いたものだから、思い込みや思わくが秘められているかもしれない。

深井智朗の『神学の起源 社会における機能』 (新教出版社)によれば、マルティン・ルターは「カトリック教会の権威」を否定するために、「聖書の権威」を持ち出した。しかし、何が聖書の範囲になるか、ルターは自身の基準でより分けた。そのため、現在、プロテスタントが考える旧約聖書とカトリックが考える旧約聖書とは異なっている。

また、近代のプロテスタント神学者アドルフ・フォン・ハルナックは『キリスト教の本質』(春秋社)で、旧約聖書を聖書から排除すべきだったと主張している。

それでは、古代社会で何のために、普通の人々が読めない「書物」を作り「権威」を付与したのか。アーマンは、字が読め書ける者同士の正統性の争いのためである、と考える。

さて、初期のキリスト教徒の多くは「書物」をどう考えていたのか。

アーマンは『ケルソス駁論』を引用して、当時のキリスト教徒は教養のある者を排除していた、と書いている。これは、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(みすず書房)や森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)で書かれているのと同じ問題だ。

下層階級にとって字が読み書きできる人は信頼できないのだ。

映画『ザー・ファーム』で、メンフィスの法律事務所に就職する若くて結婚したての弁護士トム・クルーズは、「ハーバート大学を出たのだから9万ドルの年俸をもらって当然」というようなことを妻に言っていた。高等教育を修めたから他人より良い生活ができて当たり前だという態度が、下層階級の人々にとって許せないのだ。私や高校中退の息子もその態度を許さない。

新共同訳で福音書に「律法学者」がでてくるが、これは、オリジナルはギリシア語の“γραμματεύς”で、英語では“scribe”と訳され、「字を書く人」にすぎない。そして、福音書では「字を書く人」はイエスの敵であったのである。

福音書やパウロの書簡では旧約聖書がときどき引用されるが、多くは、デタラメか不正確である。イエスの弟子は字が読めないとアーマンが言っているが、イエスもパウロも字を読めなかった、と私は思っている。そして、読めなくたっていいじゃないか、と思っている。

イエスを字が読めたとするのは『ルカ福音書』4章17節の1箇所しかない。対応する箇所の『マルコ福音書』や『マタイ福音書』にはその記述はない。かわりに、「多くの人々はどこからその教えを得たのかと驚いた」とある。字が読めるはずがないと、イエスの家族や近所の人は思っていたのである。そして、3福音書は共に「預言者は親族、故郷に受け入れられない」と嘆く。すなわち、自信満々に話せば、普通、人は騙されるが、子供のときから自分を知っている人は騙せないという意味である。

また、『マルコ』『マタイ』『ルカ』に、イエスの弟子が安息日に畑で麦の穂を食べたとファリサイ派に非難された、とある。旧約聖書では、他人の畑で麦の穂を食べても良いとしている。貧しい人びとを救うためである。したがって、「安息日」に麦の穂を摘んだことがモーセの掟に反するというのが、ファリサイ派の非難である。イエスは「安息日は人のためにある」と答えた。お腹がすけば、安息日だろうが、摘んで食べてなぜ悪いか、がイエスの本当の気持ちだろう。

ところが、福音書は、ダビデが部下と共に神の家(神殿)に安息日に立ち入り、お供えのパンを食べた故事を、イエスの答えの前に挿入した。実は、こんな故事は、ヘブライ語聖書のどこにも書いてない。サムエルやダビデやソロモンの時代に、「安息日」の掟がそもそもないのだ。ヘブライ語聖書の『列王記下』になって初めて「安息日」が出てくる。

単に「モーセの五書」の十戒から、福音書の書き手、あるいはイエスが、勝手にそう思い込んだだけである。

実は、『出エジプト記』などの「モーセの五書」は、サムエルやダビデやソロモンの時代にはまだなく、アーマンの『キリスト教の創造 容認された偽造文書』(柏書房)の定義では、これらは偽書となる。

聖書は神の言葉でも権威でもなく、1つの教養として読むものである。一般に「書物」は「ゴミため」であり、根気よくより分ければ貴重なものが見つかるかもしれない。そのために使う時間が惜しいか否かは、個人の好みの問題である。

G20大阪サミット2019は何だったのか

2019-06-30 20:58:03 | 日本の外交



今回のG20大阪サミット2019は、何が成果なのか、テレビを見ても新聞を読んでも、さっぱりわからない。

安倍晋三議長は、閉幕で、大阪のおいしいものを食べてもらったかのように言っていたが、まさか、たこ焼きを食べるために、大阪に集まったのではなかろう。

たぶん、日本に19ヵ国のトップとEUのトップが集まったこと自体が、成果と言いたいのであろう。

実際、サミット期間中に、6月29日の午前に、アメリカのドナルド・トランプ大統領と中国の習近平書記長が会談をもち、貿易戦争の報復合戦を一時やめることを発表したことが、サミットより、重大なニュースであった。

また、トランプ大統領が、大阪サミットの後、きょう6月30日に、南北朝鮮国境で、キム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長に会ったことが、やはり、サミットより重要なのだ。

首脳会議自体は、2日間合わせても、数時間のもので、この機会に、各国首脳は個別に会談をもった。メディアの報道によれば、安倍晋三首相とウラジーミル・プーチン大統領の会談はなんの実りもなかったらしい。特筆すべきは、新聞報道によれば、安倍晋三首相がムン・ジェイン大統領と会談をもたなかったことだ。

では、G20サミットの首脳宣言はどうでも良いのか。

各国首脳は個別会談に忙しかったから、実務官僚が首脳宣言を用意していた。大阪サミットに先立ち、今年、日本で、8つ分野のG20閣僚会合を開催した。首脳宣言は官邸のサイトに掲載されており、英文で13ページである。

首脳宣言は、世界経済情勢、経済成長促進、貿易と投資、鉄鋼の過剰生産、デジタルデータの利用、インフラ投資、グローバル金融、腐敗対策、労働および雇用、女性の労働参画、観光、農業、開発、健康、環境、気候変動、エネルギー、難民・移民など39項目にわたるものである。

さらに、この首脳宣言に16の付属文書がつけられている。「経済の電子化に伴う課税上の課題に対するコンセンサスに基づいた解決策の策定に向けた作業計画」とか「G20 AI 原則」とか「G20 海洋プラスチックごみ対策実施枠組」などである。

難民・移民は、重要な問題であるが、付属文書がないので、首脳宣言の検討項目になったという程度なんだろう。

トランプ大統領は、首脳宣言の内容を事前に読んだのであろうか?首脳が関わらない首脳宣言の実行性の担保はどこにあるのか?

G20大阪サミット2019の議題は多岐にわたりすぎ、(1)グローバルIT企業の倫理規範、(2)貿易不均衡と自由貿易、(3)難民・移民と人権、(4)海洋汚染対策に絞って、実行が保証されるものにすべきだった。