きょう、たまたま ついていたNHKの朝のテレビ番組で、疲労の招くパンプスをはく必要があるか、どうかを話し合っていた。私は、「パンプス」とは何かわからなかったから、妻に聞くと、「ハイヒールの革靴」のことを言うという。
さらにインタネットで調べると、「靴の甲の部分が大きく開いていて、つま先とかかとが覆われており、靴紐や留め金がないシンプルな作りのもの」を指すという。したがって、靴の「かかと」が高いかどうかを別にいうわけではない。
しかし、討論の内容は、接客において、就活において、葬式や結婚式において、かかとの高いパンプスをはく必要があるか否か、であった。私の答えは、そんなもの、おしゃれを重視するか、健康と快適さを重視するか、の個人の自由な選択の問題である。
いつから、日本人は社会の目をそんなに気にするようになったのか。いつから、雇用者は個人の選択の自由に干渉するようになったのか。
私は、スーパやホームセンターで買い物をすると、店員が「ありがとうございます」と手をそろえてお辞儀するのに、いつも困惑している。私は商店の息子だったが、商店街にそんな習慣なんてなかった。売ると買うは、もっと人間的なふれあいであった。いつの間にか、殿様と小姓のような、奴隷的人間関係が、形式的にせよ、復活してきた。
大日本帝国政府が、72年前に、太平洋戦争で、アメリカに敗戦したおかげで、日本人は「自由」を手にした。その自由を手放す必要はない。学校教育にだまされるな。
私が、聖書の新共同訳を初めて読んだとき、びっくりした語がある。口語訳で「会衆」とされたもの多くが、「共同体」と訳されたのである。ところが、昨年出版された聖書協会共同訳では、これが「会衆」に戻っていた。
これについては、聖書協会共同訳の付録、「用語解説」に説明が載っている。
ヘブライ語“עדת”(エダー)は、政治的、宗教的集団としてもイスラエルを構成する成人男子の公的集会を指す。ヘブライ語“קהל”(カハール)は、祭儀執行の場に集合した人々を指す。本訳では「会衆」という訳語をともに当てる。なお、前者のギリシア語訳では“συναγωγή”(シナコゲー)が、後者には“ἐκκλησία”(エクレシア)という訳語が当てられている。
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ヘブライ語で意味が違うのに、70人訳ギリシア語聖書では違う訳語が当てられているのに、聖書協会共同訳は、なぜ、同じ訳語「会衆」を当てたか、不可解である。新共同訳では、ヘブライ語「エダー」に「共同体」が、ヘブライ語「カハール」に「会衆」または「集会」が当てられている。
私が思うに、ただ、ルター訳に戻っただけであると思う。ルターは「エダー」をドイツ語“Gemeinde”と訳し、「カハール」をドイツ語“Gemeinde”または“Versammlung”と訳した。口語訳および聖書協会共同訳では、ドイツ語“Gemeinde”を「会衆」と訳し、ドイツ語“Versammlung”を「集会」と訳しただけである。聖書協会共同訳作成の段階で、突っ込んだ議論を避け、これまでの慣習にしたがうとしたのではないか。
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旧約聖書に当たってみると、『出エジプト記』では、すべて、「エダー」が使われ、『申命記』では、すべて、「カハール」が使われている。何か意味があるのではないか。
また、新約聖書では、ユダヤ人の集まりに「シナコゲー」が、キリスト教徒の集まりに「エクレシア」が使われている。「シナコゲー」が「公的集会」であるということは、住民が集まってものごとを決めることができる、自治体のようなモノであった、と思う。
そう考えると、旧約聖書で『出エジプト記』と『申命記』との違いは、次のよう考えることができる。『出エジプト記』では、「エダー」は自分の意思をもった集団で、しばしばモーセの指示に逆らう。『申命記』では、「カハール」は集まってモーセの指示に従うだけの集団で、文の主語になることがない。主体的集団ではないのだ。『申命記』を編集した時期には、祭司集団とユダヤ共同体との対立がなくなったか、あるいは、編集者は、ユダヤ共同体の意思を無視していたのだと思う。
脳科学や教育学に「臨界期(critical period)」という言葉がある。脳科学辞典では、「神経回路網の可塑性が一過的に高まる生後の限られた時期」と定義している。
“critical”は「敏感」という意味で、「臨界」というと境目を印象づけるので、誤解されやすい。ある時期を過ぎると、もう、ある技能を習得できないような、印象を与える。どうも、このような誤解が、英語教育を、あるいは、プログラミング教育を、小学校から、ということを後押ししているようだ。
「臨界期」はあくまで「時期」ということで、ぼんやりとした始まりと終わりがある「期間」のことだ。
臨界期については、豊泉太郎が『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』 (ブルーバックス)で書いている説明が、わかりやすい。
「臨界期」は、さまざまな学習によって、異なる。脳の部位や機能によって、神経回路の発達時期に差があるからだ。
彼は、「臨界期」が抑制性ニューロンの発達する時期と重なることに、着目する。
ニューロン(神経細胞)は、次から次へと興奮を脳の中全体に伝えていくことで、情報の処理を行う。興奮を別のニューロンに伝えるニューロンを興奮性ニューロンという。ところが、ニューロンによっては、興奮を別のニューロンに伝えるのではなく、別のニューロンの興奮を抑えるものがある。これを抑制ニューロンという。シナプスで放出する神経伝達物質によって、この違いが起きる。
ニューロンは、外部から刺激がなくとも、興奮することがある。ところが、抑制ニューロンが発達すると、外部の刺激によってのニューロンの興奮が主となる。
すなわち、はじめは、内部要因がニューロンの神経回路の発達を促しているが、外部要因で発達が促されるときがくる。それが、「臨界期」の始まりである。そして、ニューロンとニューロンの興奮や抑制の伝達効率が、変えられなくなるのが、「臨界期」の終わりである。
しかし、伝達効率が完全に固定化されれば、新たに記憶できない状態で、機械人間か痴呆人間である。実際には、「臨界期」は穏やかにゆっくりと終わりを迎えるのだ。
私は、「臨界期」の終わりよりも、始まりに着目すべきだと思う。
豊泉の仮説によれば、「臨界期」より早く何かを学習をさせても、効率が悪いということだ。無理な早期幼児教育を進めても、何かが犠牲になっているはずだ。親の一存で偏った人間を作るのは良くないと思う。
幼少のときから訓練してバイオリンの名手になったとしても、ただのロボットではないか。親は子どもの心を傷つけていないか。
「子どものときは天才児だったが、大人になったら、ただの人」という警句がある。
1980年代にアメリカであった連続爆弾事件の犯人は、東欧からの移民の子で、幼少のとき数学の天才児で飛び級して大学に行き、数学者になったが、続けることができなかった。
現代物理の1つの頂点をなすアインシュタインは 幼少のとき 頭のとろい子であった。
早期幼児教育の害とともに、個人による脳の発達時期の差にも、気をつけるべきである。学校は、年齢の1年というくくりで、すべての子どもたちに同じ教育を行う。また、個人によって、1年や2年の脳の発達の遅れやその反対があるはずである。
大人になったら、どんな大人になるかが問題で、一律的な競争的教育は、百害あって一利なしだと思う。放送大学の教育学の講義を聞いていると、脳の発達の個人差に理解がなく、こんな大学の先生が先導する教育学なんて、トンデモナイ間違いだと思ってしまう。