考えるということは、記憶にしたがってだけ行動するのではなく、別の可能性を探すことだと思う。試行錯誤することだと思う。
私の外資系企業では、「考えよ」がモット―で、鉛筆やボールペンにも“Think!”と書かれていた。
企業が開発ラボに加えて研究所(リサーチラボ)をもつ理由は、alternative (選択肢)を確保することだ、と言っていた。
しかし、試行錯誤は永遠にグルグル回る可能性がある。したがって、考えるには、考え始めるスィッチと、考えるのを止めるスィッチとが必要である。
何か変だな、あるいは、どうしてだろう、と思うことが、考え始めるスィッチである。
これで良しと思ったら、疲れたと思ったら、スイッチを切る。
考えすぎると頭が疲労しておかしくなるかもしれない。世の中には簡単に解けない問題もある。フェルマーの最終定理は、フェルマーがその定理を思いついてから約400年後に初めて証明された。
数学ができない子どもに、うまく試行錯誤ができない子どもがいる。数学を手続きを覚えることのように思っている人たちがいる。残念ながら、中学や高校の数学教科書もそのように書かれている。
試行錯誤がなければ、考えていることにならない。考えないように、学校教育は組みたてられている。
本当は試行錯誤が良い方向にいっているかどうかの感覚が、数学に限らず、大事なのである。
良い方向にいっているかどうかの感覚をつかむには、良いデータを集めることである。確かな事実と思われることを集めることである。
もう一つ、ものを考える上で、「言葉で考えない」ことである。言葉はコミュニケーションのためにある。言葉で考え出すと、本当は真理に近づいていないのに、これで良しと、試行錯誤を止めてしまう。人は、言葉にだまされやすい。
また、自分の中にもう一人の自分を作ってコミュニケーションをし始めると、自己弁解を始めてしまう危険がある。だから、分厚い哲学書は危険である。著者が自分に酔っているだけで、中身は非常に薄っぺらい。
試行錯誤をうまくするためには、図や表も役に立つ。言葉は、単に、再び考え出すためのヒントを書き記すだけにする。