大人になる直前の子供にとって、自分が働かなければならない、と思うことが、大きなストレスになっている。
多くの子どもたちは、働くとは、賃金をもらって、誰か他人に命令されるまま、我慢して、働くことだと思っているからだ。すなわち、働くということは、賃金労働者になることと思いこんでいる。
起業すれば良いと私が言っても、子どもたちが元気にならない。農業では暮らせないとか、商店街がシャッター街になっているとか、起業するには資本がいるとかの現実を、子どもたちが見聞きしている。そればかりか、大きな賃金格差が社会にあり、また、ブラック企業が存在すると、聞き知っている。
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スズメや鳩を見ていると、せっせと草むらで小さな虫を探してついばんでいる。恒温動物たる小鳥にとって、常に小さな虫を探してついばむことが働くことであり、生きることである。しかし、それがストレスになって、スズメや鳩が、悩むとか、引きこもるとか、聞いたことがない。
働くことが、生きることの喜びとなっている。それは、自分のために働いているという感覚があるからだ。
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日本国憲法第27条には「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」とある。
「勤労の権利」とは、「勤労」が生きる喜びであるから、誰も奪っていけないという意味であろうか。
第27条には、次の項がついている。
「2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。」
これらは、「勤労」が「賃金労働」であると想定している。「労働」という言葉に左翼の香りがあるから、単に、それを避けただけでないか。
そう考えると、「勤労」の「義務」とは、いったい何を意味するのか、根本的に日本国憲法を疑わざるを得ない。
「賃金労働」というものを根本からなくし、自分自身のために働くという社会に変革できないかと私は思う。企業は、株主のものではなく、全従業員のものにすべきではないか。