年をとることは、物覚えが悪くなるだけでなく、考える力も衰える。
考えるということは、別の可能性を探ることである。
思い込みにとらわれないということが、年とともに、難しくなる。
私は、考えることを重んじるからといって、思うこと、情動を否定するつもりではない。人間は年をとっても、生きている限り、色々な感情が湧き出るのは当たり前である。
私の父も認知症になったが、情動は健在であった。古い記憶といっしょに生きているようであった。あるとき、突然、寝たまま、目を閉じたまま、歌舞伎役者の真似をした。きっと、戦前の浅草界隈をひとりで歩き回ったときの幸せを思い出したのだろう。
情動は、人間が生きている 最後のあかし である。
私の母は、父が死んで何年かして、子供たちと共存するため、自分の意見を表明せず、考えることを止めたかのように振る舞うようになった。私にとって、それは自ら知性を放棄することに思え、大きな悲しみをおぼえた。
自分の意見を言わぬようにした母は、それなのに、老人ホームに入れられ、2年して、なくなった。老人ホームに会いに行くと、母の言葉のはしはしに、母の抑えている怒りの感情とともに、考える力の衰えが感じられた。
考える力は他人との対話の中で維持される。孤独な中では、維持することすら難しい。老人ホームは、医療の名のもとに、介護者が支配する世界なのだろう。対等な人間関係がない。
『自閉症の僕が跳びはねる理由』(角川文庫)の著者、東田直樹は、先生から 考えるように 言われ、それを実行していると書く。自分を良く観察し、記録していると私は感心する。観察することは、分析することでもあり、考えることの大事な一面である。東田直樹は良い先生に出会えたと思う。
若い人には 考えることを だいじにして ほしい。
考えることは、意識的に人間であり続けるために必要である。聖霊に包まれて死ぬことも悪くないが、考えることは世の中を変えて行くためにも必要である。私はそう思う。