フリードリヒ・ニーチェが、人間の情動や欲望を肯定したことは、評価できるが、弱い者を嫌い、弱い者や、弱い者に寄り添う者を「家畜の群れ(Heerdenthier)」と ののしるのには、ついていけない。
『この人を見よ』(光文社古典新訳文庫)を読むと、人生のある時期、彼自身、かなりのうつ状態に落ち込んでいたことがわかる。自分の著作が評価されず、自身の容姿も醜く、自分を、地表を這う不快な虫のように思い込んでいたのだろう。
そして、うつ状態から脱出するために、自分が高貴だと暗示をかけ、弱い者や、弱い者に寄り添う者を攻撃することで、自己を肯定しようとしていたのだろう。
『道徳の系譜学』(光文社古典新訳文庫)の第三論文「禁欲の意味するもの」に、ニーチェが、うつ状態からの脱出手段として、他の人に「喜びを与えるという喜び」があると書く。
なんだ、ニーチェは、そのことを知っていたのか。
しかし、ニーチェが、あらゆる慈善、奉仕、援助には「ごくわずかな優越感」が伴うと書き添える。さらに、「家畜の群れ」を形成しようとしているのだ、と言う。
他の人に「喜びを与えるという喜び」を、「優越感」とか、「群れている」とか、そんなに軽蔑する必要がない。弱い者や、弱い者に寄り添う者を攻撃することより、ずっと、よい脱出手段だと思う。
ニーチェが、自分が5歳のとき死んだ牧師の父親に強い劣等感をもっており、必要以上に、「隣人愛」を下賤としているように思える。他人を攻撃するより、「隣人愛」はずっと高貴である。
ニーチェの欠陥は、支配と服従という人間関係を、社会から排除しようという、意志を持てないことだ。情動や欲望を肯定するくせに、無政府主義を何か恐ろしい野獣かのように思い込んでいる。