「発達障害」は、法律用語であって、医学用語ではない。あなたのお子さんは発達障害ですよ、という医者がいたら、信用してはいけない。診断名ではないし、子育てに何の役にも立たない。
「発達障害者支援法」は2004年に成立し、2005年に施行された法律である。
第1条は、法律の目的を記すのだが、なぜか、とても長たらしい。
「この法律は、発達障害者の心理機能の適正な発達及び円滑な社会生活の促進のために発達障害の症状の発現後できるだけ早期に発達支援を行うことが特に重要であることにかんがみ、発達障害を早期に発見し、発達支援を行うことに関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、学校教育における発達障害者への支援、発達障害者の就労の支援、発達障害者支援センターの指定等について定めることにより、発達障害者の自立及び社会参加に資するようその生活全般にわたる支援を図り、もってその福祉の増進に寄与することを目的とする。」
下線は私がつけたものである。多分、この法律の作成にかかわった者たちの間に、意見の一致が見られなかったのであろう。
第2条は、「発達障害」、「発達障害者」、「発達障害児」の定義である。
「この法律において「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう。」
第2条の定義は、アメリカの精神医学会の診断マニュアルの旧版DSM-IVの「発達期に最初に診断される症候群(Disorders Usually First Diagnosed in Infancy, Childhood, or Adolescence)」と解釈すれば良い。
厳密にいえば、この法律の定義では、「低年齢」だから、「思春期(Adolescence)」を対象から外している。また、「知的能力障害」は、すでに他の法律でカバーされていると考え、やはり、対象から外したものと考えられる。
当時の日本には、支援を訴える親たちの運動があったが、だれを支援すればよいかに、医療関係者に多少の混乱があったのであろう。文部科学省は政令で「情緒障害」を「発達障害」に含めている。
したがって、「発達障害」は非常に幅広いメンタル症状を対象にしている。これ自体は、良いことだが、いっぽうで、混乱を生む要因になっている。だからこそ、医学的診断名が親たちや支援者にとって重要となる。
「発達期に最初に診断される症候群」とは何か理解したい向きには、山登敬之の『新版 子供の精神科』(ちくま文庫、2010年)がおすすめである。
山登は、「発達障害」には「精神遅滞」「広汎性発達障害」「自閉症」「ADHD」「LD」などがあると書いている。
最新版の診断マニュアルDSM-5では、「広汎性発達障害」と「自閉症」は、まとめられて、「自閉スペクトラム症」となっている。また、新たに、コミュニケーション症群というカテゴリーが加えられている。「精神遅滞」は、差別的ひびきがあるとして、「知的能力障害(Intellectual Disability)」と言い換えられている。
DSM-5にそって診断名を書きなおすと、神経発達症群(Neurodevelopmental Disorders)には、
知的能力障害群(Intellectual Disabilities)、
コミュニケーション症群(Communication Disorders)、
自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder)、
注意欠如・多動症(Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder)、
限局性学習症(Specific Learning Disorder)、
運動症群(Motor Disorders)
となる。
旧版DSM-IV「発達期に最初に診断される症候群」には、これ以外の精神疾患が多数含まれており、じっさい、医療現場や支援現場でも、大人がなる精神疾患のほとんどが、子どもにも見出されるのである。
そういう意味で、文部科学省が「情緒障害」という怪しげなカテゴリーを「発達障害」に加えたのも納得できる。また、山登が本の題名を敢えて「子供の精神科」とし、「発達障害」とはしなかったのも、うなづける。
さて、山登の主張の最もだいじな点は、「発達障害」を病気と見ていないことである。もって生まれた個性として捉えている。私もその意見に賛成である。生まれつきなのか、治せるのかは、微妙な問題で、多くの場合、周りが個性として受け入れることで、「適正な発達」が望めなくても、多少の支援のもとで「円滑な社会生活」ができる見込みが高いからだ。
そして、山登は、「治す」と言って子どもに「訓練」を強要しないように警告している。厳しい指導や訓練がストレス刺激となって子供をホントウの精神疾患にしかねない。しかも、そのときに なるのではなく、思春期になって発症することもあると指摘する。
生活の質を改善するため、ご飯を自分で食べられる、自分でトイレができる、自分で服を着替えられるようにするのに、厳しい指導や訓練は必要ない。どうして、子どもが楽しく学べるようにしないのか。
また、ほかの子と変わっていることで、いじめられる子の問題も取り上げている。このことによって、他者は自分をいじめるものと学習してしまい、外出することに大きな恐怖を抱えるようになる子もいる。
なお、現在、学校では、「発達障害児」を個別級や支援級に隔離しているが、「発達障害児」の間でもいじめが起きることがある。私は、これは、大人の価値観の反映ではないかと考える。
まとめると、DSM-5は診断マニュアルとして読むに値する。支援する立場からすると、「治す」という発想ではなく、「共生する」という発想を、社会全体に、求めたい。