6月14日、16日、17日と、朝日新聞が「ひきこもり」の特集を行った。良質の記事であった。この討論の輪に私も参加したい。
記事から得られる良いニュースは、ひきこもり当事者の集まりができ、社会活動をしていることである。すばらしいことだ。
悪いニュースは、相変わらず、ひきこもりの子どもをもつ親をだまかし、お金を取り、子どもを虐待する業者がいまだに存在し、だまされる人が後を絶たないことだ。ひきこもりの子を、どこかに収容して、矯正するなんて、根本的に間違った発想で、子どもの心の傷を深めるだけだ。
6月16日記事によれば、政府は「ひきこもり」を、「仕事や学校などの社会参加を避けて家にいる状態が半年以上続くこと」と定義している。これは、日本国憲法が「勤労」を「義務」とすると同じく、統治者の都合からくる定義で、人間の自由を否定する考え方が、潜んでいる。
私は、同年配の男たちとの酒の席が大嫌いである。新年会、忘年会には出ない。話が下品である。座の中心になる男たちは、どれだけ、他人を傷つけたか、を自慢するのである。そして、他人からどれだけ奪い取ったか、自慢するのである。
私は、数人、できれば、2人での対話で充分である。このとき、相手は、恥を知り、軽蔑したくなるような話をしない。
私は、自分の好きでない仕事をしたいと思わない。私は、考えることに没頭していたい。好きなことだけして、もらえるお金が少なくても、構わない。私はパンだけのために生きたいと思わない。私がNPOでボタンティアをするのは、「喜びを与える悦び」を分かち合う仲間がすきだからだ。
したがって、国の定義で、「ひきこもり」であることが、なにか悪いとは思わない。
真の思想家や職人や芸術家や科学者や技術者は「ひきこもり」なのが自然なのだ。
本来、生き方の選択の自由として、「ひきこもり」がある。もっとも、私自身は、「ひきこもり」より「ふうてん」のほうが、楽しいようにも思えるが。
しかし、「ひきこもり」の本人がそのことで苦しんでいるなら、「ひきこもり」からの脱出を周りが助けなくてはない。
その苦しみが、生活の不安からくる場合、もっとも深刻な問題であろう。
もっとも、国が「仕事などの社会参加」を強要しなくても、経済的救済をすれば、この問題は、簡単に解決する。本当は、「ひきこもり」のきっかけが、いじめだったり、暴力だったり、国や大企業の経済政策の失敗で職がなかったりなど、本人の意志以外の要因が多い。社会に責任がある。
しかし、国や大企業は責任を認めないから、今しばらくは、自助努力が求められる。
昔の職人を考えれば、本来は、ひきこもっても、仕事ができるはずだが、多くの現代企業はそれを許さない。ひきこもり当事者の社会活動がもっと盛んになって、ひきこもって仕事をする労働スタイルが普及するという希望をもとう。
ひきこもりは、少なくても、投票権を行使すべきである。ひきこもりと社会活動は両立できる。政治的発言力をもとう。
もう1つの苦しみは、周りから「ひきこもり」があってはならない存在と見られることである。そして、周りからの自分への存在否定ばかりが続くと、自分の思いであるかのように、自己否定の声が、頭の中で、鳴り響くようになる。
ひきこもり当事者は集まって、逆に、周りの悪口を言おう。ニーチェの言う価値の転倒をおこなおう。弱い者が一番偉いのだ。勝ち組、負け組の言葉は、人間の尊厳性に反する。勉強は、与えられたレールから落ちこぼれないためにするのではなく、好奇心から、真理の探究心から、美の追求からするものだ。
「ひきこもり」の問題は、現代社会の不条理の縮図であり、言いたいことが、私には、いっぱいある。