英語教育の早期化が必要だとは思っていない。
子どもにとって、学ぶことが多すぎることは、決して良いことではない。英語を幼少のときから始めたいのなら、日本語教育を放棄すべきだと思う。英語を第1言語にし、日本語を第2言語にすればよい。
私は幼稚園に行ってない。おかげで小学校の授業はいつも新鮮で楽しかった。
学習には「臨界期」があって、学習に最適のときがくるまで、先走りして学習しても、なんの役にもたたない。子どものときは神童、大人になってタダの人になるだけだ。
脳の神経細胞のつながりは、まず、遺伝子に書かれた設計図にしたがってできていくが、ある段階から外界の刺激、すなわち、個体の体験に沿って、神経細胞のつながりができるようになるという。外界の刺激で神経細胞のネットワークが形成される時期が、「臨界期」である。
「臨界期」は学習課題で差があり、また個人差もあるが、その「臨界期」の始まりは急に立ち上がるが、終わりはダラダラと続く。これが、先走りして学習しても、なんの役にもたたないが、遅れて学習を始めても本当は問題がない理由である。単に、いまの学校教育が競争と選別を繰り返し、脳の成長の個人差を無視しているため、「早期教育」が特定の個人に有利に働くように見えるだけである。
社会は各個人がゆっくり学習することを認めないと、人間のもっている豊かな才能を無駄にする。人類の損失である。
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世の中にいろいろな言語がある。よりによって、早期教育で、英語を優先する理由がわからない。英語の発音を優先すれば、日本語の発音がおかしくなる。常にトレードオフの関係なのだ。
音を表わす、音声記号は5,6百はある。言語を選択することで、個々人が認識する音素の数を減らしているのだ。
バイリンガルとは、脳に大きな負担をかけることなのだ。子どもの希望を聞かずに、バイリンガルにしようというのは、大人のわがままだ。
無理して英語を選択する理由は、工業製品の輸出先アメリカとの貿易関係からではないかと思う。それとも、軍事大国のアメリカのご機嫌をうかがいたいのかな。
しかし、アメリカ英語でも、地域によって異なる発音で話しているし、移民の国なので、どこの出身かによって、違う発音でしゃべっている。発音が違っても、同じ英語を話しているのだと認知することが、現場では重要なのだ。すなわち、なまった英語を話されても、理解できることが重要なのだ。
心配しなくても、向こうで暮らすと自然になまった英語を理解できるようになる。
すると、育ちの良い階級の英語を話したい、というのが、英語早期教育の狙いのようだ。それなら、自分の子どもを、金持ちの子だけがはいれる外国の全寮制の学校に入れれば良い。日本の小学校で、品格のある英語を話すよう教育するのは、どだい無理である。
私の高校のときの同窓生に銀行マンで、完璧な英語を話すものがいる。しかし、彼は、国際的なパーティでは、つらい思いをしていたという。パーティの話題が、イートン校やハーバート大学やオックスフォード大学でないと通じないものが、多かったからと言う。その同窓生は京都大学出身である。
私は、理系だから、ブルーカラーである。労働者である。みんな、なまった英語を話す。だから、労働者の集まりでは、だいじなのは、何をなして、何をなすことができるかである。
日本の国策を決める人は、なにか、英語に関する劣等感をもっているのではないか。自分の劣等感で、他の人を巻き込んでほしくない。
アメリカ人との交渉において要求されるのは、アメリカの歴史と法律と社会構造の理解であって、なまっていない英語を話せることではない。
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それに、英語というのは、特殊な言語である。
第1に、英語では、つづりと発音に大きな差異がある。文字というものをはじめて学ぶためには、適切な言語ではない。文字教育に関してはイタリア語を選択した方がましである。
第2に、名詞、形容詞、冠詞の語尾の格変化とか、人称による動詞の語尾変化とかが、英語から失われている。ドイツ語でも、定冠詞の格変化が残っている。文法に関しては、ラテン語か古典ギリシア語を選択した方が良い。
英語では格変化のかわりに、前置詞で名詞と動詞との関係を明確化するが、前置詞の選択は、動詞に依存するので、話し手の負担が高い。また、動詞の人称変化が失われたので、人称代名詞を動詞の前に置くようになっているが、人称代名詞に「あなた」と「あなたがた」が区別できないなどの欠陥がある。また、命令形においては、動詞の人称変化がないのに加え、人称代名詞が省かれるので、誰に向かって命令しているか、曖昧になる。
古典ギリシア語では、「あなた」に命令しているのか、「あなたがた」に命令してしているのが、「人間というもの」に命令しているのか、区別できる。
英語はカタコト言語なのだ。最初の語学教育には向いていない。
したがって、日本語を第1言語として、ここしばらく、日本の初等教育を教えていくので、良いと思う。
英語教育の前にローマ字を教えるのが良いと思う。文字列と発音との対応に規則性が高いからだ。そのとき、日本語の50音図の子音が崩れていること、また、日本語では、二重母音が長母音化していることなどを教えることで、発音の学習ができる。
“A”は「エイ」であって、「エー」でない。“open”は「オウプン」であって、「オープン」ではない。
私のNPOで、ちょっと軽いディスクレシアの男の子がいたが、中2から英語の発音の練習を週1回行っていたら、音を聞き取れるようになって、リスニングで英語会話の意味がわかるようになった。「臨界期」の終わりは緩やかであり、遅すぎると悩む必要はない。
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日本語の欠陥は、民主主義社会を選択しているのに、敬語があることだ。少なくとも、尊敬語と謙譲語を日本語教育から排除すべきである。
学校教育で、古文、漢文は不要である。厳禁する必要はないが、そんなものをありがたがるのは頭がおかしい。学校教育から覚えることをできるだけ排除すべきである。
明治時代にたくさんの「漢語」が増えたのは、もともとの日本語には、哲学的な思考、科学的思考に必要な語彙が少なかったからである。「精神疾患」と言うより “mental disorders”と言ったほうがぴんと来る。日本語に、外国語を挿入するため、文章は横書きにすべきだろう。
日本語を第1言語とするとしても、縦書き教科書を廃止すべきである。縦書きの日本語はいらない。