沖縄の離島から初出場した八重山商工が、16日の第3試合で智弁和歌山に3―8で敗れた。小学校時代から約10年伊志嶺吉盛監督の指導を受け、石垣島の歴史を塗り替えてきた選手たちは、笑顔でグラウンドを去った。「深紅の大優勝旗を、海二つ越えて島へ」という夢は、後輩たちへと引き継がれた。
▼伊志嶺さん熱血10年 島っ子31人と魂のきずな
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この日、先発には8人の3年生全員が入った。「おまえたちは島の歴史をすべて変えてきた。節目のゲームはおまえたちを信頼している」。メンバー発表の際、伊志嶺監督は語りかけた。
メンバーの半数は、小学校時代からの付き合い。小学校で全国制覇、中学校では世界大会3位。高校に入ってからは1日12時間練習する日もあった。金城長靖君(3年)は「監督は親みたい。自分の親が知らない面も知っている」。伊志嶺監督も「自分の息子たちより付き合いが長い」。小学校から「やるなら全国制覇」と言い続けてきた。
少年野球の実績を買われた伊志嶺監督が、石垣市長の発案で八重山商工に派遣されたのは3年前。就任直後は厳しい練習で部員が2人だけになった時期もあったが、翌春に今の3年がこぞって入部。部は息を吹き返した。今春の選抜に続き、夏の甲子園にも進んだ。
野球で強くなりたければ島を出る。八重山商工の活躍は、そんな離島の常識も変えつつある。宮古島でも今年1月、「夢実現!行くぞ甲子園 宮古島応援団」が生まれた。砂辺正人事務局長(30)は「同じ離島の宮古島から甲子園に行けないはずがない」と意気込む。
甲子園では、ピンチの伝令に「死ね」「ばかやろう」と厳しい言葉が飛んだ。手荒く聞こえるが、選手の心の中では「ちゃんとやれ」と変換される。
「『楽しくやろうよ』なんて言葉じゃ、うちの子どもたちはだめ。『この監督め!』と思ったときが一番いい」。長年の付き合いで知り尽くした伊志嶺監督の激励を受け、勝ち上がってきた。
16日に敗れた後も、選手たちは笑顔だった。先発投手の大嶺祐太君(3年)は「小学校からやってきた仲間と甲子園で終われた。胸を張って石垣に帰りたい」。金城君も「笑顔で終わろうと決めていた。後輩にはもう一度甲子園に来て、優勝してほしい」と話した。
伊志嶺監督は「私に口汚くののしられながら、人の倍以上練習してきた。子どもたちは日本一。全員が力を出し切った。何も言うことはありません」と笑顔を見せた。
そして続けた。「後輩たちと、明日から挑戦です」。八重山の夢は、まだ終わらない。
(2006年08月17日12時18分 朝日新聞社)
[ 朝日新聞 8月17日 12時30分 更新 ]
1回戦、2回戦とナイターになりながら勝ち抜いてきた八重山商工の頑張りを応援していましたが、 智弁和歌山に破れ甲子園を去っていきました。
激戦地区の沖縄を勝ちぬいて、甲子園でも粘りのある野球は好感を持って観ていました。
又、頑張って甲子園に出てきて欲しいーそんなチームでした。
応援も賑やかで試合をもり立てていました。
夜空に高らかに響き渡った「アサドヤユンタ」の応援歌も印象的でした。