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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

黄昏時、みみずくは森に還る

2017年10月13日 | 文学思想
 ここ春に読み終えていた小説を最近になって再読した。そのさいに思いめぐらしたことのいくつか。
 
 先立つ五月、村上春樹の最新作小説「騎士団長殺し」を通勤帰りのブックオフで探すことにした。行ってみると、はやくも店頭に並んだそのリサイクル本は簡単に見つけることができた。ムラカミのような人気作家になると新作の発表自体が大きな話題となり、その話題を共有すること自体が社会現象の一翼となる。新潮社の宣伝も破格なら書店店頭での扱いも平置きが当然で、時代と共振するとはこういうことなんだと実感させられる。そのうち実際に読みとおす人は、はたしてどのくらいの割合なのだろう。
 その本は思ったりよりも地味な印象の装幀で上下二巻1000頁あまりの大作、話題の余韻のうちに読むのも同時代に生きる者の特権とばかり、やや前のめりになって数日のうちに興味深く読み終えていた。

 物語の舞台となる主人公が住む借家は、小田原郊外山中の高名な日本画家アトリエという設定で、ほかには箱根ターンパイクから伊豆スカイラインさきの高原にある相模湾を望む高級老人養護施設、それに都内青山、広尾、四谷、新宿御苑といったあたりがでてくる。フィックションに実在の地名が出てくる効用は、その地理を承知していればいっそうのこと想像力が刺激されることにある。わたしがお気に入りのご近所、小田原厚木道路なんてややマイナーな高速道路を中古のカローラワゴンで主人公と友人雨田が行き来しているのがおもしろく、思わずシンパシーを感じてしまう。

 冒頭、三十六歳の主人公で肖像画家の私が結婚生活に行きづまり妻とは別居、いよいよ離婚の危機を迎えて、あてどの無い東北・北海道の旅に出たことの回想からはじまる。戻ってから小田原に引っ越してすぐに講師をしている絵画教室の生徒である人妻たちとの出逢いがあり、そんなこと現実にあるのかなあと思いつつも、いとも簡単というか当然のように情交に至ってしまう。今回はいつになくその情景がくりかえし描かれていて、おまけに少女愛のような心情もでてきて(とくに幾度も執拗なくらい胸のふくらみに言及している)、これは読者サービス?と思ったりもする。でも妙にこちらの深層心理に迫ってくるようで、これは困ったな、素直にハルキマジックにハマッってしまったのだろうか。とりわけお互いのそれまでの喪失感を埋めるように求め合うかのような性愛行為については。

 このひと、ムラカミハルキの心理は、やはりフロイド派というよりもユング派のようであり、夢とか象徴といったものが物語の主題をなすようだ。例によってクラシックとポピュラー音楽曲もちりばめられ、さながらこれまでの村上ワールド要素全開といった様相なのだ。作者の心理は80年代の若いままピーターパンのようで変わってはいない、むしろ原点に還ってきたかのように思えるのだ。
 
 謎の絵画から飛び出してきた幾人かのキャラクターに、主人公向かいの丘の豪邸に住む謎の人物、免色渉など物語の展開にともなって次々と意表をつくような人物が登場してきて、まとまりがなさそうな気もしていたが、最終的にはそれらの登場人物の絡みの中で飽きさせない。ちなみに村上春樹は、安西水丸によるとみずからなかなか素敵な抽象画を描くのだそうだ。
 最初からえんえんと描かれている謎の祠の下の石室は、子宮を象徴して描れているのか、主人公が夢の中での愛するユズとのめくるめくような交歓のはてに産道をぬけての試練の末に再生し、ラストの女の子の誕生につながっていると読めるが、これってあまりに安直にすぎるだろうか。
 それにしても、主人公が完成した「雑木林の中の穴」の絵を謎めいた人物の免色に贈呈してしまったことはどうにも附におちない。ひょっとして免色は主人公の私の半分(影あるいは地下二階の無意識の世界)なのかもしれない。それは、作者の村上自身の二面性をも深く投影したものではあるまいか?
 小田原郊外山中のアトリエは、震災後の火事によって焼け落ちてしまって、謎の絵画も喪失してしまったという。女の子の誕生によって新しく再生した私とユズとムロの三人家族は、2011年の震災をへた日々の暮らしのなかで、ささやかな幸せを慈しみながら平凡に暮らしているのだろう。

 蛇足ながら、あのお守りのペンギンのストラップ、どうしてもJR東日本のSUICAキャラクターを連想してしまう。やはりペンギンは現世のお守りにふさわしいとしたら、屋根裏のみみずくはどこに行ってしまったのだろうか。みみずくは古代からの叡智の象徴とされているから、無意識の深相であるところの黄昏の森に還ってゆくのだろう。